「神様の話」といわれると、何とかして話題を転換したくなるものである。「いかに相手を傷付けずにお断りするか」の、精神的重労働しか待っていないからである。丁重にお断りしても、本気で信心してる相手にはこちらのいらいらが伝わらず、こちらもしまいにけんか腰で相手の無神経をなじる事になる。 が。リルケの短編集なら大丈夫。大いにおすすめなのである。 唯一神が嫌いな多神教徒のあなた。汎神論のあなた。無神論のそこの人。これは読まないと損、とも言えるのだ。 大体、唯一神の宗教は口うるさい。勝手な「お話」を創造すると、権威筋から睨まれて宗教裁判に掛けられたり魔女裁判に掛けられて、、拷問の末火あぶりにされてしまう。自分しか神はいないというくらい、傲慢で了見の狭いお方を信じるわけだから愛の観念はまことに自己中となる。 タイトルで読む気が失せる人の気持ちもわかると言うものだ。 が、この珠玉の短編集は権威筋から睨まれそうな、勝手なイマジネーションに溢れて縦横無尽。民話を元に美しいお話を作ったかと思うくらいである。 「ティモファイ老人が歌いつつ世を去ったこと」「石に耳を傾けるひとについて」「死についての物語ならびに筆者不明の追記」「闇にきかせた話」は必読である。 詩人の本領発揮の、美しい表現に溢れて、それらの描写だけでも舌に転がして味わいたい。 以下、引用して見よう。 「ところが、僕がただいまお話しする時代には、素絹の上に色彩を置いた、明るい絵が一般に愛好されていました。したがって、人々にもてはやされ、さながら鞠のように、美しい唇が、太陽に向かって、投げ掛けていた名前、そうです、その名前はまた、細かくふるえながら、落ちてくるところを、愛くるしい耳に、受け止められてもいましたが、じつにその名前こそは、ジャン・バティスタ・ティエポロだったのです」 「ところが、ある本に、どのみち、古い本なのですが、読みふけっているうちに、うっかり、時を過ごしてしまって、きがついたときには、はやとっぷりと、暮れていました。そのすみやかなことと言ったら、なんだかロシアにおける春の訪れと似ています。つい一瞬まえまでは、部屋の中も、隅から隅まで、見通しだったのに、いまでは、ありとあらゆる物が、ただ薄闇よりほかに、なにも知らないふうを、装っています。いたるところに、暗色の大輪の花が、咲き開いて、そのビロードのようなうてなのまわりを、なごりの光が、さながら蜻蛉の翅に運ばれるかのように、流れていました」(「神様の話」リルケ著/谷友幸訳・新潮文庫) 装飾的な文章も、血が通い、確かな感受性に支えられて柔らかく、新鮮な水が咽喉を下る心地である。 時間の切り売りをして心が疲弊している時こそ、おすすめしたい短編集である。
by leea_blog
| 2009-04-16 00:00
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