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「音」としての詩歌朗読・つれづれ


言葉の意味を追うことを放棄して、脳が捉えた単語を拾うだけで、可、な朗読を試みている。
言葉を音として解放してみるのだ。
半分眠りつつ聴いてもらうのも良いだろう。

朗読会は、朗読を純粋に楽しんでもらう為、テキストは配付しなかったり、朗読終了後に配布したりする場合が多いが、上記朗読の時は、テキストは事前配付の予定だ。

内容が気になって聴く事に没頭できないと困る為だ。

これが、見知らぬ異国語なら、言葉の意味を追わずに聴くだろう。
なまじ知っている言葉だと、頭が理解しようとがんばってしまう。

朗読に向かないと言われる作品も多い。文字の視覚面を重要視したり、耳慣れない言葉が多いと、音声化した時に伝わり難いのだ。

そもそも、言葉は長く引っ張っていると、みんな母音に帰ってしまう。
中世ならともかく、現代では、詩の意味を追いきれないだろう。

「異国の旅先で半睡に陥った時に、壁の向こうから聞こえてくる、見知らぬ口ずさみ」、のような朗読を試みている。作品の意味を追うのは、後で良いような朗読。
朗読というより、「ポエトリーリーディング」。

うむ、ポエトリーリーディング以外に、もっと的確な表現は無いものか。
by leea_blog | 2009-05-30 17:53 | Comments(0)
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