人気ブログランキング | 話題のタグを見る

むかし、むかし、あるところに。  寝る前のお話と、読み聞かせ等


むかし、むかし、あるところに。
昔ではなくても、今でも良いし、場所もギリシアのデルフォイであるとか、日本の富士山麓であるとか、具体的でもいいのだが。

物語は、かたられてゆく。この頃は、子供たちにお話しを「読み聞かせ」る事も盛んらしい。眼で絵本を黙読するだけでは得られない、イメージする力を養う。私が子供の時代は、本は「自分で読むもの」でしかなかった。

大人子供関係なしに、耳を澄ます、という時間が貴重だ。

小さい頃、寝る前に父に「お話し」をせがんだ。
母の方は、子供向けに即席でお話を作る才は無かったし、何よりフィクションに関心が無かった。
父は、一日で終わるお話や、何日にも渡って続き物をその場で作って話してくれた。

冒険物が多かった気がする。
戦争中に密林で一人逃亡する兵隊さんが、食べるものも無く、未知の苦難に襲われ続ける話。
痛みに耐えて傷を自分で手当てする場面や、山ビルに襲われ血を吸われる場面。貴重な血を吸われてしまったので、兵隊は自分の血を吸った山ビルを鍋で煮て食べて、餓えをしのぐ。。。。。

今思えば、父は子供にお話しをするのが大好きという訳でも無く、せがまれたのでがんばって話してくれたのだろう。話ながら続きを考え込む事が多かった。そのまま誤魔化そうとするのを、「それでどうなったの?」と続きを何度もせっつきながら、聞いた。前日と設定が違っていると、子供ながら納得が行かず指摘した。

小学校中学年位になると、父の即興寝物語が「うそばっかり〜」に見えてしまい、卒業となった。

父は書物が好きだったので、ネタはいくらでも仕入れられただろうが、当時は「お話をして聞かせる」事が大切とは考えられていなかった。

これが、もっと昔なら、伝説なり何なりを「話して聞かせる」事を、大人たちもやっていた。旅人を泊めて、自分の属する時間以外の時間の物語を流入させてりもしていた。

私が子供の頃は、住んでいたのが新興住宅地でもあり、実利的な発想が日常に幅を利かせて、物語が途絶えていた。両親は、神話伝説、幻想の物語を馬鹿馬鹿しいと思う思想が流行った世代だった。

物語は、かつては「語られた」のだった。
長い叙事詩も、読まれたのではなく語られた。「語りを聞く」事は、時間の溶ける場所に入って行く行為でもある。

情報の伝達手段としても、効率が悪い。インターネットが日常生活に導入されると、ますます「語る」「語られる」は非効率に見えてくる。

マクドナルドで古代ギリシアの神々の、読まれるのではなく「語られる」事を前提に書かれた詩を読み返しつつ、語られている自分を想像してみたのだった。
by leea_blog | 2009-11-21 21:51 | Comments(0)
<< 神話伝説と有害図書(笑) 妖異の時代〜百物語2009〜朗... >>