自分の朗読は、
自分では聞けない、その場に居た方の感想が 何よりの励みであり、助けです。 辰巳泰子氏から下の日記の一首朗読の感想を頂いた。 「近江宮に漂う、傷みの霊魂、そんな感じの朗読でした。」 ありがとう、辰巳さん。 現代詩の世界は、 比較的朗読が盛んだ。 勿論、「文学者の朗読などカラオケに過ぎない」と、 考えている詩人が大半と考える。 が、思い出して欲しい。 文字が生まれる前には、音声しかなかった。 音声にて、神々や地霊に捧げ、祈り、交流する詩歌が有った。 そして、パソコンに表示される文字などは、 そのなれの果ての更に果て。 紙質も筆跡どころか、インクの匂いも紙の匂いも、紙をたぐる触感も無い。 五感の衰退は避けえない。 インターネットの普及した今となっては、とてつもなく貴重となった“時間”、と金と体力を使って、どこかの場所に赴き、音声を聴く。 酒と、場合によっては煙草とともに。 詩の世界の朗読も、 盛んだけれど、「変わっていれば良い」「インパクト有れば良い」と いう風潮も否めない。 一番困るのは、役者の朗読を手本にする人々だ。 それらに出会うと、こんなことを言って申し訳ないが、 とてもわびしい気持ちになってしまう。 役者の修業を日常的にしている人々にかなう訳が無いのだし、 他業界の基準を導入した【読み】は、自分の必然性を押しだす朗読になっていないからだ。 役者は役者としての基準が有る。 文学者が自ら朗読をしなければならないとしたら、 押し上げてくる必然性は【訳者の立場や基準とは異なる】 数少ない百合歌の読者が考えるきっかけにしてくれれば。 私の朗読は、 気楽に、異国の酒場に紛れ込んで地霊に捧げる詩を聞く心地で、 肩を抜いて頂けると嬉しい。
by leea_blog
| 2010-07-23 22:52
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Comments(2)
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辰巳泰子
at 2010-07-25 00:24
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近江宮と、ご自身で言っておられたのでしたっけ?
それともわたしの魂が聴きとったのかな……。 わたしも夢うつつのように聴いたのですよ。ただ、廃墟に、嘆きの巫女が解放されたように気のふれて、徘徊するような朗読でしたよ。
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leea_blog at 2010-07-25 01:59
辰巳さんの魂が聴き取ったのですよ。
まこと他者様のご感想は、朗読者自身にも思いつかないイメージで、 はっとさせられます。 あの歌は、めまいの都夢見る都という若かりし頃のシリーズ物で、 砂漠地方をさまよい、此の世と前の世と次の世が、渾然となるような 時間を過ごした経験が元になっています。 辰巳さんのご感想で、 近江の海 夕波千鳥、、、、、、。 あの辺りを何度も書いていた作家、秦恒平の連作を一気に思い出し、 氏のデビュー作「清経入水」のラストシーン、 衵姿の少女が船の上から扇で差し招く辺りの、 時間を超えた悲嘆と苦悩や、恵美の東子、十市の皇女の物語なども 連鎖的、重層的に心に広がりました。 有り難い事です。
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