中島敦・「山月記」ファンは立ち入り禁止


ゆりうたでは、良かった本は紹介しても、

今ひとつだった本は、挙げない方針である。

書物などは、

読み手に依って感想が違ってなんぼである。

検索してたどり着いた方が、不快になるような事は、

わざわざ書かないし、紹介したい良い本は山ほどある。


が。

再読の重要性をここの所語っているので、

再読しても駄目だった経験も、

読者諸氏の参考になるかもしれない。


と、言う事で、

急に再読した、中島敦。

現代詩人会のゼミナールで、

中国の詩人の田原氏が、

「スリッパを投げないで下さいね」と前置きしながら、

中原中也は三流の詩人だ、と述べた事が有る。

よく言ってくれた、と思う人も居るであろう。

まあ、結局、「文学の世界で有名な誰か」とは、

「裸のお王様」である事も多い。



でも、「王様は裸だ」とは、

言いにくいよね。

なぜなら、中原中也は、アイドルのようなものだからである。

歌が上手いかヘタか、とか、

一流か三流か、とか、

演技がうまいかヘタかとかは、

読む方も殆ど気にしていない、

「売り出された人」だからだ。

わざわざ駄目だと敢えて言う必要がないのだ。


ファンが沢山居るのだから、

ファンに任せておけば良い。


中島敦も、アイドルのようなものだろう。


ここで、面白く無さそうな事を書いて、

たまたま検索したファンを嫌な気持ちにさせるのが、

趣旨ではないし意図していない。

ファンの人は、よそを当たる事をお勧めする。


個人的な記録を書いて、「ほお。そういう見方も有るのか」を提示し、

「考え方の多様さ」

「文学の面白さ」を、広報したい、というのが趣旨である。



昔、学校の教科書に、山月記が載っていた。

当時の私の感想は、

「何が言いたいのか、さっぱり分からないし、

何処に感動して良いのかもまったく分からないし、

なぜ現代国語の教科書に載っているのかも、

さっぱり不明」であった。


ヘッセの話で、

学校が進めるものが当時はつまらなくても、

再読すると素晴らしかった、という話をした。

が。

記憶に有るよりもっと駄目だった、という場合も、あるのだ。




いきなり、「山月記」を再読してみた。


再読すると、

なぜ現代国語の教科書に載っているか、

よくわかる。

先生が好きそうな話である。

何が言いたいのかも、よくわかる。

むしろ、「説明的」である。

そういう事は、やはりある程度の歳にならないと、

想像がしにくい。


面白かったか、といえば。

以前、ゆりうたで紹介した、

ミルハウザーの小説に対するのと同じ感想である。

文庫本で、他の作品も載っているので、

他の作品も再読すれば、

もっと好意的な評価も出来るかもしれないが、

代表作の「山月記」だけ採れば、

良い作品なのだろうが、

とほほ、な読後感である。



学校の教科書で読まされた当時の私の言い分を、聞いてみよう。



「何が言いたい作品か、まったくわからない。

唐の時代なら、飢え死にする人も多かっただろうに、

官吏になり、

文筆の才にも恵まれて、

妻子も得て、

ある日、虎になってしまう。

虎やライオンや狼になりたい、と思う人間は多い筈だ。

前半生は人間で、

後は虎。

良い人生ではないか。

動物になってしまうなら、

鼠や兎や、運が悪ければ、

蠅や蚊になるかもしれないのに、

素晴らしい事に、虎になった。

が。本人は、虎に成った事で、めそめそしている。

言っている泣き言も、よく趣旨が分からない。


この話は、要するに、

ボンクラなやつは、結局、

何になってもありがたみが分からない駄目人間、という事?」

と、首を傾げたのであった。



「己の内なる臆病な自尊心」ゆえに、

虎になってしまった話なのだが、

今読み返しても、

虎はしっくり来ない。

選ばれたものしか生まれ変われない獣だ。

強くて、天敵も殆どおらず、

良い生活ではないか?

人間で居るよりも、良いかもしれない。


「己の内なる臆病な自尊心」というなら、

もっと誰もが、成った事を後悔するような動物の方が良くないか?


鼠や、兎辺りであろうか?


通りかかった旧友を食べそうになるのではなく、

夕飯にされそうになる所を、

実は自分は旧友だと分かってもらい、

なぜ兎に成ったかを話した方がよくないか?


「はずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己は、己の詩集が長安風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。嗤ってくれ。詩人になりそこなって虎になった哀れな男を。」

というセリフが有る。

うーむ。深読みすれば、この男は、良い作品を書くという事よりも、人に評価される事が目的だったのだな? だから駄目だったのであろう。

やはり、兎になって、旧友に長安に連れて帰ってもらい、

風流人士に謹呈されて、ペットとして可愛がってもらうという終わり方にすれば、

人間の愚かしさ、哀れさ、業の深さを考える材料になるのではないか?



いずれにしても、

才能も無い、

彼女いない歴が年齢と同じ、

仕事も無い、

いっそハムスターにでもなって、

日がな一日回転車でくるくる回っていたいけれど、

変身能力も無い、という人が増えた現代では、

李徴が哀れにはまったく見えない事は想像に難くない。。。。











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by leea_blog | 2017-03-02 21:05 | Comments(0)
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