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「俳ラ11」のこと その1


十月十日の日曜は、「夜の会」の横山克衛氏とボックスギャラリー視察の後、「俳ラ11」に出かけた。朗読系ではかなりのお薦めである。


私は詩の中でも長文化する物語詩や、散文と詩の融合に強い関心があり、最短の形式である俳句をしっかり視野に入れる頭の余裕が足りない。にもかかわらず、ここの活動は面白く刺激的で、気になるのである。

さて当日。横山氏を誘ったというのに、私は開演時間を間違えていた。8時半開演と思いこんでいたのだ! 6時近く、コーヒーを飲みつつ「俳ラの前に腹ごしらえでもしようか」と夕飯の話を持ちかけた。横山氏はプリントアウトした俳ラのポスターを取り出した。見れば何と、6時半開演ではないか! ああ。
夕飯の時間はない。すぐさま立ち上がり、駅に走った。ちなみに私が数字に大雑把なことは幽冥、いや、有名である。真剣に数字と向き合うのは『揺蘭』の経費と取り組む時だけではないだろうか。手頃な価格でより良い冊子を。

そのようなわけで、空腹のまま新宿にたどり着いた。餓えたあまり道に迷った。会場にたどり着いた時には、第一幕が始まっていた。会場は、招き猫に埋め尽くされたジャズバーサムライ、例の如く作品を毛筆した垂れ幕が下がりまくり、なかなかの呪力空間である。ビールを片手に聞いていた。

「俳ラ」は、それぞれが持ち時間と個性をフルに活用した「独演の朗読ライブ」である。生の空間とお客の存在を、積極的に意識した提示方法は飽きさせない。今回は客席からの野次の応酬が足りなかったようだが、私の記憶では過去、野次参加の声も面白かった。予測不能な生空間、ライブの醍醐味として野次や合いの手は是非復活して欲しい。そうした辺りも「生の空間における文学」を楽しませてくれる試みと思う。

「朗読会が文学か?」とうさんくさく思う人々は詩人にも多い。とりわけ音楽や動作、服装を含めた、空間丸ごとの提示方法だと、文学とかけ離れた代物と思う人がいるのは仕方ない。ま、音声自体は文字ではないので、文字になっていないと頭が反応しないのは分からないでもない。

しかし、詩や物語を文字に書き留め文字で味わう方法が一般化したのは人類の歴史に照らしてごく最近。
しかも作品としての文字は「どこどこに獲物がいる」「災害が近付いているから非難せよ」のような、必要事項伝達の為のものではなく、単なる娯楽のためのものでもない。もともとは神々に語りかけると同時に人々に語りかけるような、呪力性の強い表現手段の子孫が物語や詩や短歌や俳句と考えている。詩歌は作ること詠むことがある種の呪術だったのである。
一部の人しか読み書きが出来なかった長い年月、文字の作品は「語られ」、「聞かれ」た。
(この辺りは大雑把に書きたくないがちゃんと書いていたら『ゆりうた』はまるで更新されなくなるので割愛である)

 そんな訳で、読み書きを習って当たり前のように文字だけの表現を堪能できる現代人も、音声や視覚、場の雰囲気を同時に楽しむ「朗読系」によって、五感の再生を繰りかえすべきである、というのが私の考えだ。

基本的には私の朗読観は『呪術行為』が元になっている。「書くこと」、「読むこと」は、“破壊と再生、死と再来と祈り”という呪術行為が日常化したものと捉える考えが下敷きだ。それも別の機会に。(続く)
by leea_blog | 2004-10-25 22:39 | Comments(0)
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