隅田川散策とシュヴァンクマイエル

 隅田川の川岸に、『アンダーカバー・ミーツ・シュヴァンクマイエル』を見に行った。揺蘭の謎の参加人、カスカ嬢に誘われて。

5月3日、最大9連休の黄金週間のさなかだった。休日がカレンダー通りのワタクシにとって、4月29日、30日はただの土日である。9連休は別の世界の話だ。

 しかも、4月の終わりは訴訟事の雑事に年休を使い、3日からの5連休も遠出が出来ない。いい加減そろそろ作品に向かいたい、あるいは遠出して暖かいところでゴロゴロしたい。。。
 こら、被告証人、連休直前に陳述書を上げて来るな! しかも、まだ辻褄の合わない創作を並べているし。。。先方の陳述書読んで「ううむ、一つ一つ矛盾点を指摘した方が良いのかな、これ。でも元が破綻してるからいくら表面をつくろっても無理があるよ」と、考え込んでしまいました。嘘は、押し通そうとすると嘘なだけに、すぐ辻褄があわなくなる。話にほころびが出来るたびに無理な上塗りを重ねなければならなくなり、信用はどんどん落ちるのだ。引き際が肝心、ぱーっと謝って、男らしく認めちゃえばいいのだ。やり直しがきくかどうかは、非を認めて引き受ける潔さに掛かっている。

 と、そんな理屈が通るなら、ワタクシが原告になる事はないのだ。ワタクシはそれどころじゃないのだから、余程の事がなければ、原告なんかやらないよ。まったく、トホホな気分である。

 そんな馬鹿馬鹿しい事で精神的にも疲れ果てたワタクシには、カスカさんの誘いは渡りに船だった。
 ヤン・シュヴァンクマイエルJan Svankmajerはチェコの巨匠シュールレアリストで、人形アニメ映画で名高い。会場は、アサヒ・アートスクエア。黒い立方体に金色のオブジェが乗っている、変なビルの4階である。展示と映画とスーパードライ付きで、800円。その日の上映作品は「悦楽共犯者」。

 内容は、真似をする人が続出しそうな変態ぶりである。
 うんと俗な説明をすると。普通の快楽では満足できない普通の人々が登場し、それぞれ休日の密かな快楽の為、ウィークデーに入念かつこっそり、時に仕事中に、下準備に余念がない。セリフ無しに影像のみで、微妙にずれていく日常を追って行き、いよいよ問題の日曜日となる。まだ見ていない人の為に詳細は書かないが、どこかの上映会かDVDででも見て絶対損はない。

 「シュールレアリスムとは基本的に実用的でしかも強度に悦楽なんですよね」、と言わんばかりに、主人公の男がこうもり傘を隣人宅(こっそり忍び込んだ)のミシンで縫い合わせるシーンや、スーツにニワトリの頭の作り物を被りこうもり傘の翼で羽ばたきながら廃墟で隣人に似せた人形を脅しまくり虐殺に至るシーンは感嘆しつつ笑った。

 この登場人物達の変態ぶりは絶対人に知られたくない類の変さである。普通の変態とは、世間の認知を受けているジャンルの変態である。昔は「変態」でも、今は好みの一つになっているものとして例えば、SMやフェチがある。ただのSMやフェチなら現代では、まぁ、多かれ少なかれ誰でも持っている嗜好の一つだ、、、、。
 「悦楽共犯者」では女王様な年輩女性が出てきて鞭や蝋燭やアイマスクという小物はSMで世間が連想する類で普通なのだが、ムチで打つのが藁を詰めた人形で、その人形は普段クローゼットの中に隠してあるとなると、絶対人に知られたくはあるまい。これを見たS女性は「普通に人間を相手にしていてよかった。クローゼットに隠してあるのも普通のSM道具だしね」とこっそり安心する事だろう。他に狐の襟巻きの女性の後を付け、こっそり尻尾を切り取って持ち帰り、恍惚と頬ずりする男も出てくる。ここまでは普通の変質者だが、毛皮や羽毛を使って自分好みの道具をせっせと作るに及んでは、創意工夫が個人的な妄想を具体化しすぎており、もう変質者を越えている。

 ニュースキャスターの影像にキスする男やパンの柔らかい中身をつい丸めたくなる女性も出てくるが、そこまでなら誰でも一度くらいはやったこと無いか? ただし、それがより個人的妄想を具体化するシーンになると、本人以外の人から見れば「変態」である。

 「普通の変態」でも、妄想の細部を限りなく具体化すれば、間単に世間の認知の枠を越える。
 日常のことでも同様だろう。とっさに思いつくことを挙げると。
 例えば、苺を食べるときにミルクを掛けて必ず潰すだけなら食べ方の好みの一つだが、潰すときのスプーンにこだわるあまりに手作りして(スプーンに顔が描いてあるとか、呪文がびっしり彫ってあるとか)、潰す時一つ一つの苺が「あぁ〜ん」とか声を立てる所をたっぷり想像しながら食べれば、日常の範囲を超えてしまう。しかも、売られている苺を見るたび胸を高鳴らせて苺を潰す圧力や角度を考えはじめるとか、潰すときの感触をより好みにするための皿を考えはじめ、そわそわして落ち着きが無くなる、等となると、「悦楽共犯者」の世界になってくる。

 主人公の男は、ニワトリを隣人女性に殺してもらい、肉は調理して首を壁に打ち付けそれをモデルにオブジェ創作に取りかかる。むしった羽毛を丹念に貼り付けていく。完成度を高めるため、翼に使うこうもり傘を何本も入手し、せっせとミシンで縫い、人形に着せる服や靴を盗む。ほとんどアーティストの日常だよなぁ。。。。

 結局、表現者も度の過ぎた「変な奴」でしかないのではないか。最終目的がおのれ一人の快楽だと「悦楽共犯者」の主人公の男になるが、突き詰めて具現化する過程自体はほぼ同じで(素材になりそうな物をいつも無意識に探したり、イメージを具体化するきっかけを求めたり、作りかけの作品の事ばかり考えていたりと、ほぼ同じではないか?)、ただ目的が個人的な快楽とはかけ離れている、それだけのことかもしれない。

 もう少し正確に言えば、表現行為は一般の平穏を放棄しなければ進めない「行(ぎょう)」のようなものだ。修験者が寒い日は滝に打たれるのは嫌だといっていたらそれは本当の修験者ではないのと同じに。ただそこには悦楽が無いかというと、「隠された真理に近づく」とか、「衆生を済度する」とかの個人の枠を越えちゃっている何かがあって、ほとんど本能の力に近い。理屈抜きなのだ。理屈抜きの衝動に従うからには、何らかの快楽があるわけだ。

 いやはや、別にごちゃごちゃ言いながら見る必要は無い。ビールを飲みながらぼーっと見て、楽しくも変な、妙に可愛い映画なのである。

氏の作品は、以下を参照

http://www.illumin.co.uk/svank/ 
[PR]
by leea_blog | 2006-05-07 11:48 | Comments(0)
<< 九州の日嘉まり子氏・のこの島能... 幕張のホテルとマンハッタン自殺... >>