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バラントレーの若殿 —疫病神的身内の恐怖・理性の愛情と虚々実々の心理戦—

実家からお宝本を一部救出してきた。

実家の本棚に「バラントレーの若殿」(スティーヴンスン著/岩波文庫)もあった。お宝というほどでも無いが、絶版なので、再会に感動した。

熱烈に読みたくなる事を予測して買った本(の一冊)である。
チベットの埋蔵経のようだ。本当に必要な時期に見いだされる、埋蔵経の個人版。

表紙の紹介文を引用する。
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『ジーキル博士とハイド氏』の3年後に書かれたスティーヴンスン(1850‐94)の長篇歴史小説。時代は18世紀の初頭、スコットランドの名門バラントレー家の世継ジェームスとその弟ヘンリーの凄まじい確執の物語。凶悪な兄と善人の弟の生涯をかけた争いが、スコットランド、イングランド、さらにアメリカの地で展開されるうちに……。
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上記を読んでも関心持てなかったら、現世に興味が無いと言えよう。長編だが、読み始めたら止まらない。

しかし、今回熱烈に読みたくなったのは、表紙紹介文の為ではない。「新アラビア夜話」(岩波文庫・絶版/作者は同)を再読したからだ。題で損をしている。現代のアラビアンナイト、という陳腐な印象ではないか。(バラントレーの若殿も「悪人と善人」という枠組みで紹介されると、面白く無さそうな印象になる)。
「新アラビア夜話」は異様な展開が美しい描写とともに繰り出され、物語に幻惑されるだけではなく、描写の見事さにくらくらとし、食い入るようにその描写を読み返してしまうのだ。
(ボヘミア王子フロリゼルが魅力的だ。花のような王子なのか?)

さて、バラントレーの若殿である。
新アラビア夜話のような華麗極まりない描写は無いが、他の魅力がてんこ盛りだ。美貌にして凶悪な兄(バラントレーの若殿)が、家督を継いだ弟(殿)から手切れ金をせしめようと、あの手この手の嫌がらせを、海を越えてまで行う! こんな身内が居なくて良かったと神に感謝するとともに、似たような悪因縁なら誰の回りにも転がっている事に気付く。

執事のマケラー氏が、大層頼れる。殿と奥方の駄目な部分を、いざという時に必死に補ってくれる。 執事は「殿にお仕えする」といっても、所詮、雇われた契約による関係だ。が、マケラー氏は殿(弟)に深い愛情と尊敬を注ぐようになる。理不尽な憎悪の嵐の中で、マケラー氏の理性的な愛情にはほっとさせられる。

若殿以外の登場人物達が紳士たろうと内的葛藤を繰り返す点は、現代人からみれば無意味に見えるかもしれない。乱暴な言い方をすれば、やくざに脅されて金を巻き上げられ続けているのに、哲学論を自問自答しているのと同じ。貴族・紳士を自負するならば、相手に応じた現実的な対応能力は、必須ではないのか?

自分の価値基準にしたがって、無欲、実直に生きるタイプの人は、自分を見つめ直す機会になる。主人公のヘンリー(弟)と語り手の執事・マケラー氏は、そのようなタイプだからだ。人がいいとか、実直さとかは、阿呆の同義語なのか。

人生において、悪意の魂の持ち主と「わかり合えるかも知れない」と思う事は無いか? 別の生き物だと思わなくてはいけない。わかり合う事など出来ない。相手の甘言や感じ良さに騙される奴は、何度でも騙されるのだろう。殿が兄の甘言を見切った後にも、語り手の執事はまだ、金で若殿を厄介払いできると信じる。本質を注意深く見極めようとするマケラー氏もこうなのである。いわんや凡人をや。

無敵の若殿(兄)とその家来の来襲に、殿と執事のマケラー氏が必死に抵抗し闘う姿は、映画「エイリアン」のよう。勝てそうもない相手が、逃げても追ってくるのだ。殺しても(?)死なないし、悪意が楽しみなタイプで策謀に優れ、羞恥心と無縁、良心が欠如、演技が得意とくれば、怖過ぎるではないか。
他人がいる所では優雅で良いひとの振り、二人だけになると突然悪意たっぷりの嘲弄が始まるあたり、「いるよなぁ、こういう人」と嘆息する。周囲は若殿を「魅力ある人格者で、弟にも思いやりが深い」と勘違いし、非難は弟に集中する仕掛けである。
若殿はこんな悪意の計略ばかりして、彼自身疲れないのか? いやいや。疲れるどころか、自分の悪振りを誇示したり、奸計を練ったりするのがほとんど生き甲斐なのだ。

若殿とマケラー氏の心理的一騎打ちは、緊迫感に満ちている。ヘンリーは、若殿に太刀打ち出来ない感じですね。

強い印象を受けたのが、「騙す」・「騙される」、「信じる」事についてだ。
日本は「騙される」事、「愚か」な事に寛容である。理や智よりもおおらかな感覚を尊ぶ。日本語がそもそもそういった包容力をよく表現しうる。だが、キリスト教の伝統深い土地では、他人や自分に理や智の光を絶えず浴びせ、自分を律し、足下の地獄から身を守るのは「良き人」の勤めらしい。虚言を信じるだけでも、神の合わせたもうた試みに引っかかって、つまり引っかけ問題に引っかかって試験に落ちてしまうのだ。

万物に神は宿り、やおろずの神がおり、神仏習合の歴史の長い我が国は、イエスとノー以外の、中間の部分に重きを置く。「日本人はイエスとノーをはっきり出来ない」と英語圏の人は言う。日本人は「イエスとかノーとかの単純な話じゃないだろそんなのは前後左右・上下・将来の条件次第で変わるではないか。」という脳の作りなのだ。

さて。「騙される方が悪い」という考え方があるが、これまで理解できなかった。二百歩譲っても騙す方だけが悪いと考えていた。「それは嘘かも」という疑念を日常の人間関係に持ち込むのは、無用のストレスを産み、共同体のエネルギーの無駄使いになるから悪である。虚言癖の持ち主は共同体にとっての、錆やカビのような物。錆やカビを増長させたり、正当化したりする奴は同罪だ。

が。この物語では、若殿の虚言に騙される事は、騙されるだけで悪事に加担しているのである。騙される方が悪いのだ。若殿にとって「世間」は「詐欺師と盗人の森」。信頼関係を前提に理性で動いてゆくものではないのだ。世間を「詐欺師と盗人の森」と見なすなら、騙される方は確かに嘲笑に値する程に愚鈍であり、馬鹿者であり、愚かゆえその存在は悪であり、知らぬ内に若殿の手先にされてしまうのである。とほほ。

執事と若殿の心理戦の醍醐味もそこにある。執事が若殿の理論の矛盾を冷静に見極めて、抵抗できるか否かが、緊迫して描かれる。格闘技のようだ。殿への信頼を揺らがせただけで、ゾンビに殺され自分もゾンビになるのだった。

愚か=善良ではない、というエピソードも多数盛り込まれている。
弟は、領地の民らからも嫌われ、石まで投げられる。若殿の部下や、若殿に手を付けられた女が虚言を振りまいた為だ。彼らは駄目人間で愚か者なだけで積極的な悪ではない。若殿に手を付けられた揚げ句捨てられた女は、(若殿ではなく)弟に石を投げつける。殿から(若殿からではなく)年金を受け取っているにもかかわらず。殿に鞭で打たれたなど嘘を言いふらし、平民達の反感をあおるのだ。

虚言は、ちょっと人間観察力を使えば、わかるような事である。が。人々はいちいち真相に関心を抱かない。非難は楽だ。そうした人間の弱さと駄目さも、克明に描き出されるのである。読めばわかるが、そうした人間の弱さが自分にも無いかと省みるマケラー氏は、実に頼もしい。常に練習を欠かさないアスリートのごとし。

娯楽としても、一気に読める作品なので、憂さを忘れたい人にも大いにおすすめできる。文章と描写がちゃんとしている娯楽作品は、読んでいて安心だ。文章が駄目だといくらストーリーが面白くても、いちいちつまずいてしまう。陳腐な表現や使い古しの比喩が頻発する文章には、読んでいる途中で挫折されられる。

それにしても。悲劇的結末とわかっているのに、読み終わってぼう然とする一冊なのであった。

ハッピーエンドという訳でも無いのに幸福感の残る「貴婦人と一角獣」(以前のゆりうた参照)とは対照的な一冊だ。
by leea_blog | 2008-11-26 23:29 | Comments(0)
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