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静謐な死闘  辻邦生        非評論・気をつけながらはずす事に重点を置いたメモ



 優れた人を褒めても仕方ないが。安心して読める作家の一人である。私のように退廃に浸かってたまに陸に上がる程度の者からすると、辻邦生の、永遠なる美に冷静沈着に向き合おうとした姿勢は、異星人にすら見える。

 高校時代、文化部を掛け持ちして、文学部にも入っていたのだが、部員はヤニと麦茶で夏を過ごすような人ばかりだった。不良とは違う、無頼とも違う、まぁ、文学に浸った連中であった。それがポーズだけか本物か何て、他人の事はどうでも良い。全力で自分の作品と格闘するしかなかった。

 そんな部員の一人、私と弘前くずみのやり取りである。
りーあ「健全な作家なんて無理じゃん。文字と取り組んでいるんだから、病気にならない方が変」
くずみ「辻邦生は、朝の光の中で作品書くんだってぇ。すごい健康そう。信じられる?」
りーあ「うそ〜。そんな人いるんだね」
(高校生の会話である。馬鹿なのは大目に見て欲しい)

朝、気持ちよく目覚め、午前中は頭が冴えているなぁなどとうそぶきつつ、整頓された机で事務員が仕事をするごとくに原稿用紙を埋めてゆく文学者のイメージ。当時は全く想像が出来なかった。事務処理と同等であるはずも無いが、髪をかきむしって転げ回ったり、ヤケ酒とヤケ煙草を重ねたり自殺未遂したり心中未遂したり、世間と喧嘩したり親戚に厄介者扱いされたりしつつ文字表現という妖怪と死闘を繰り広げるわけではないのだ。

 当時は、まさに「うっそ〜」だった。
 商売で書くなら、そうでなくては狂ってしまうだろうな、と思ったものだ。文学とは、私にとって異形の愛人であった。

 一方、辻邦生は。
 不健康でなければ文学者ではない、といった風潮に辟易して、不健康な集まりからは逃げていたらしい。大人になってから氏のエッセイを読んでその下りをみつけ、笑った。

 生き生きとした表現で語るその下りは面白いので引用したいが、我が部屋の樹海に埋もれてすぐに出てこない。いずれ引用しよう。

 笑ったのは、文学者は好きで不健康になるのでもなんでもないからだ。不健康でなければ文学者ではないと思っているのは、一握りの俗物だけだよ、と辻氏に言いたくて可笑しかったのである。

 不健康は、デスクワーク職の肩凝りや、美容師の手荒れみたいなものだ。単に副産物だ。病弱な人が少し得なのは、人生への疑念や体調悪い時の肉体的な苦痛を、粘り強い表現活動に転化できやすい所か。

 死は生の果てに必ず有る。死の投げ掛ける光で生がくっきりと燃えるように見える事もある。メメントモリ、死を思え、と言われるまでも無く、死に近づいてまた生の水面に浮上する病人は、文字表現の才覚を与えられてなおかつ我慢強ければ、死を思い出す事の無い人よりは、書かざるを得ない力に突き動かされる環境には、いるだろう。

 健康と生活の安定が有れば、有るに越した事はない。いや、欲しい。朝気持ちよく目覚めて、鳥の声を聴きながら作品に向かい、午後は散歩して血行を良くし、夜にまた書く。ううむ、羨ましい。

 そんな羨ましい辻邦生が朝の机で繰り広げた静謐な死闘。実に正当な美との死闘である。老若男女、安心して読める文章力と内容! 
 私は、作家と言うものは、世間から後ろ指を指されるような物、つまりその時代には早過ぎて受け入れられない物、公序良俗とは相反するが作家には正義であるところの物を、少なからず抱えているものだと思っていた。昔は。

 簡単に言うと、はみ出たいと思わなくてもはみ出る部分は普通に有るのだと思っていた。または、欠如を埋める為に書く。力んで反社会になるのではなく、気がついたら社会性の線を越えてしまっていた、という感じに。

 そうした、「非・公序良俗」の影が見えない作風。老若男女、誰にでも奨めて無難な、しかも美の正体を正々堂々とつかみ取ろうと格闘する。勢い余って反則、などは無い作風! そうなりたいとは思わないが、自分と違い過ぎて、素直に尊敬できるのである。
by leea_blog | 2009-02-13 22:39 | Comments(0)
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