<   2002年 02月 ( 3 )   > この月の画像一覧

この閉じられない文構造こそ。。。

    「読書百遍意自ずから通ず」


子供時代、よく聞かされたことばだ。いかにむずかしい本でも、何度も繰り返し繰り返し読めば、自然に意味がわかってくるという。昔は、書物は貴重品だった。そんな昔のことではなく、30年か20年前くらいでも、だ。書物は、「百回でも二百回でも再読されて当然」、といった前提で本屋さんにいた。買う方も、一冊買うのに、買おうかどうしようか悩み、何度も本屋に足を運んだ。小学生〜大学生にとって、価格千円単位の書物は高価品だった。出費の痛手に見合う内容じゃないと、えらいことだ。吟味に吟味を重ね、一大決心で購入する。。。。はぁ〜、貧乏くさい。。。
 

 いえいえ、貧しい時代の話をしたいのではない。書物は、「単なる活字」「ただの言葉」ではなかったのであります。動物としての人間の一生は長くて100数年、書物は(正確に言えば書かれたものは)軽々と動物の時間を超えて行く。万葉集や平家物語やイリアスが書き留められたのは、私の祖父母も生まれていなかった頃だ。百回位読み返して読むたびに新たな扉が開けるなど、実に当然なのだった。



現在は、書物の選択肢が多すぎて、「どうでもいいもの」のなかから「どうでもよくないもの」に出会うのが大変だ。インターネットの普及にともなって、事情はさらに変わっていくだろう。
文章の質は「同一読者に百回再読される」ものを目指さなくなるかも知れない。文字情報の快楽の質が、変わっていくのではないか。

     ****

さて、『幻想のオイフォリー』は、小さな古書店で見つけた。ぱらぱらとめくっただけで、即決で購入。インターネットで見つけても、大量の情報のなかで、自分が立ち止まれたかどうか怪しい。

         *****


高桑法子氏の評論集、『幻想のオイフォリー 泉鏡花を起点として』、から「華麗な妖怪たち—『草迷宮』」の最終部分を引きます。


----------------------

レミニサンスとしての手毬歌は、たんに母への回路としてあるのではなく、むしろ生誕の場に働いていた促しや牽引の力のすべてではなかったか。作品の〈自己〉とは、そのような過去と相同的な生を持つにいたった、文学営為の場における限りでの仮構的作者の自己であり、こうした創造を行いえてはじめて、手毬歌は正しく甦り本然の意味で唄うことができる。本稿のはじめに掲げた魔族の出立の情景が比類なく華麗であるのは、創造の場で汲み上げられた作家の想像力が、さえぎるものなくダイレクトに作品空間へ噴き出そうとしているからであろう。あの奔流となった言葉は、どんなストーリー的完結も、登場人物への還元も目指すことなく空間をおおい尽くし、閉じる地点を知らない。


最切(いとせ)めて懐かしく聞こゆ、とすれば、樹立(こだち)の茂(しげり)に哄(どつ)と風、木の葉、緑の瀬を早み・・・・・横雲が、あの、横雲が。


 作品最後に置かれた、この閉じられない文構造こそ、物語の終わりにではなく、核心に到達し、そこに立ち尽くす作家の姿を如実に映しているのではないだろうか。


(高桑法子 『幻想のオイフォリー 泉鏡花を起点として』)

-----------
[PR]
by leea_blog | 2002-02-18 00:56 | Comments(0)

田遊び

ううー、寒いよ〜、痛いよ〜、雑務に追われすぎるよ〜、今年はまだ梅の花も見ていないよ〜、と、つい愚痴が出そうな引っ越し前後。


二月十三日は『赤塚諏訪神社の田遊び』祭事の日(国の無形重要文化財)。
地元神社に挨拶くらいしておこう、と出かけました。宮司さんや氏子さんに、という意味ではないですよ、人間の思惑以前に存在する、土地の神さんに、という意味です。

『赤塚諏訪神社の田遊び』とは?

検索して見つけたところに挨拶無しでリンク張ってごめんなさいまし、こちら、「祭り語り」をご覧下さい。


http://www5a.biglobe.ne.jp/~sinwa-k/taasobi.htm
[PR]
by leea_blog | 2002-02-13 00:55 | Comments(0)

もう二月。。。転居と鏡花など。

二日、二月、二千二年。
ぶじに転居が終わりました。忙しかったぁ。。。。


転居では、多くの方にアドバイス・ご助力をいただきました。ありがとうございました。各種届け出もまだこれからですが、おかげさまで何とか一息ついてます。今後とも宜しくお願いいたします。


     ****** ****  *****  ******  

忙中閑あり。
煩悩・懊悩の元、書物。ひもときをしながら、再読。


高桑法子氏の評論集、『幻想のオイフォリー 泉鏡花を起点として』から「華麗な妖怪たち—『草迷宮』」の一部を引きます。。。



ああ〜、だめだぁ、鏡花の文はパソコンで表記できないものが多すぎるぅ〜。だいたいルビの視覚効果も作品の内ですよぉ(涙)ネットでルビ表記、できないんですかぁ〜? 以下、注意点。
*旧かな使いで読みにくいかも知れません。
*ルビはカッコ内に表記
*最後の〈此処は何処の細道ぢや・・・・・)のみ、()内はルビでは無し
*つかつか=「つか」の下は繰り返しを表す、「く」を縦長にした記号。すらすらの下も同記号。変換不能で、やむなくひらがな表記。


そんな面倒なモノ読めるか!とおっしゃらず。ぜひぜひ、どうぞ。以下。



--------------------------


『草迷宮』にあっても、その終末は異様な美しさに満たされている。鏡花は好んで妖怪をえがいた作家ではあるが、またここにおけるほど華麗な妖怪たちは類をみない。終末の情景を次に引いてみよう。



 此時づか、と顕はれた偉人の姿、霞の中なる林の如く、黄なる帷子(かたびら)、幕を蔽(おほ)うて、廂(ひさし)へかけて仁王立、大音に、「通るぞう。」と一喝(いっかつ)した。「はつ、」と云(い)ふと、奇異なのは、宵に宰八が一杯——汲んで来て、——縁の端近に置いた手桶が、ひよい、と倒斛斗(さかとんぼ)に引(ひつ)くりかへると、ざぶりと水を溢(こぼ)しながら、アノ手(て)でつかつか歩行(ある)き出した。
 其の後を水が走って、早や東雲(しののめ)の雲白く、煙のやうな潦(にはたづみ)、庭の草を流るる中に、月が沈んで舟となり、舳(へさき)を颯(さつ)と乗り上げて、白粉(おしろい)の花越しに、すらすらと漕いで通る。大魔(だいま)の袖や帆となりけむ、美人(たをやめ)は船の几帳(きちやう)にかくれて〈此処は何処の細道ぢや・・・・)



 一読して気づかれるのは、妖怪そのものが華麗に描写されているわけではないということである。にもかかわらず、深く印象づけられる〈華麗な妖怪たち〉のイメージはどこからやってくるのか。ここには、堰を切って溢れ始めた書き手の想像力の奔流とも呼べるものが感得できるのであり、むしろ、妖怪たちの出立の光景がこのように描かれることにこそ、クライマックスということの意味が隠されていると言えるだろう。それをたとえば作者が「うたう」のだと言ってもいいが、ただ、鏡花において「うたう」ことは恣に始まるのではなく、おそらく書くことの持続の果てに、ある特殊な地点にたどり着いたときに始まるのではないだろうか。その地点をさぐること、また、どのようにしてそこへ到達するのかを検討するのがここで目指すところであり、言いかえれば、終末にいたって奔流となる鏡花の想像力の特質とそのメカニズムを解明する試みである。

 
(高桑法子 『幻想のオイフォリー 泉鏡花を起点として』)

-------------------------------
[PR]
by leea_blog | 2002-02-09 00:54 | Comments(0)