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Nightfall in Middre-Earth でしばし息抜き。歌合わせの可能性。

シルマリリオン再読でこれほど消耗するとは思わなかった。
昔、これをどう読んだのか思い出せない。


二、三ページ読んで本をパタンと閉じ、額に指をあてて考え込み、気を取り直してまた本を開く、そして何ページか戻り、さらにかなり先のページをたぐる(再読だからね)という状態で、進まないこと、進まないこと。とてつもない悲嘆と壮麗な美への賛嘆に心ならずも呪縛され続ける心地で、これは私にとっては危険な書物である。


記述が消耗するのは常だが。読むのは快楽でありたい。


そこでしばし頭をからっぽにするべく、amazon.comで見つけたCD、『NIGHTFALL IN MIDDLE EARTH』を、繰り返し聴きまくったのである。
amazon.comの商売の上手さ加減とネット本屋の限界に言及したいが、それはまた後として。


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以下、シルマリリオンが元になっていなければ二回は聞かなかった、という保留付きでコメントします。


ジャンルはロック。残念ながら私は評する耳を持ちません。
何これ、と思いつつ一回聴き、続けて二、三度聞くうちに、馴れて次第に歓喜がこみ上げ、さらに聴くうち美しいと思うところを拾えるようになりました。


歌詞は、エルフたちの心情面に迫って、シルマリリオンでは淡々と記述されているにもかかわらず読者的に激しく動揺する場面をうまく拾っています。なかなかよいかも知れません。作詞者はシルマリリオンを繰り返し読んでいると推測され、思い入れも深いようです。


しかし。
英語力が猿に等しい私が言うのも何ながら、日本語訳歌詞は、訳する際に調べたり問い合わせたりをしていないようで、これでいいのか?と目を剥きました。
CDの歌詞の訳はそんなものだと人は言う。文学の翻訳では、考えられないことです。。。。


ブックレットには歌詞の他に散文が掲載されていて、こちらは別の人が翻訳しており、かなり良い。いえ、凄く良い。この原文はもしや散文詩か?、と見れば、こちらの原文はドイツ語でした。私は全く読めず、辞書も手元に無く、引き下がりました。
散文はシルマリルの造り手フェアノールの七人の息子の一人、伶人マグロオルの一人称で語られるのですが、秀逸。
シルマリルの物語の深淵に降りて行き、巫術的にノルドオル王族の眼差しを獲得して浮上を試みる作者は誰?、とブックレットを確認、歌詞も散文もHansi kurschというお人。私の、このアルバムへの醒めた視線がにわかに敬意を帯びたのでありました。


歌の方に戻って。
エルフたちも悲しみが深すぎて歌にしないという、エルフ王フィンゴルフィンと冥王モルゴスの一騎打ちがしっかり歌なっているのも良し。
歌にしちゃうのか? こういうのも有りなのか?
しかも「これがエルフのノリだ!」といわれれば「確かに」と頷ける説得力あり。
変化に満ちた一曲は宴の席で歌っても可で、フィンゴルフィンの気高い献身と絶望は、聴く人々を苦難に立ち向かわせて余りある。


音楽はありがたいもので、勇壮にして悲壮なイントロでフィンゴルフィンを讃えるモードに入れます。気がつけば

“The Fate of us all
 Lies deep in the dark
 When time stands still at the iron hill”
“Praise our king Praise our king
 Praise our king Praise o〜u〜r ki〜ng”

と、一緒に歌って近隣の訝しげな視線を浴びること必至。聴いてもらえばわかるんですが、この部分はコーラスで繰り返され、沈黙して聴けというほうが困難なのです。



シルマリリオンのどこを歌や曲にするか。
どこをピックアップしたいか。それを作って比べる遊びができそうだ、と、はからずも思いついたのでありました。
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by leea_blog | 2003-03-21 01:50 | Comments(0)

走り書き的かんそー・「王の帰還」映画版、ちょっとなぁ編

映画版「王の帰還」。
見るに値するとは言わないまでも、まあまあ良かったんじゃないか、に続いて、【ちょっとなぁ】編です。


☆原作を思い出すと苛々がつのるので別物と考えましょう、と提案したが、まるで思い出さないのは無理というもの。私は原作が好きだから映画を見たという程度なので、「ちょっとなぁ〜」を書き出してみれば、どれも原作と比べた不満でした。


期待しなかったはずなのにそれでも「これはあまりに安っぽいだろ!」と、愚痴に似たフレーズが繰り返される悲しいファン心理の走り書きになった。映像は安っぽいとは言えないが、話の内容が、そのう、、、、。
分かっていても、「もしかしたら凄く良い場面もあるかも知れない」と見てしまうファンの業と言いましょうか。



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【ちょとなぁ、のところ】

☆灰色港から出航するエルフの船がちゃち。 船にはお偉方(エルフの三つの指輪の所持者)ばかりではなく他のエルフも沢山乗るであろうに。去って行く者が壮麗だとラストシーンが損なわれるという考えか?  

☆ゴラムの、「わしら」というのは「本人」と「いとしいしと」の事じゃないか? 「善い自分」と「悪い自分」をわしらと言っている映画版は、一つの指輪の力を描くことを捨てて、分かりやすい「ゴラムの苦悩」になっている。説明的で安手。

☆指輪の幽鬼がただの怪物。
彼らの真価は人間の理解を超えた恐怖と絶望を運ぶ所なのだが、映画ではその恐怖が「戦闘能力の高い化け物と闘う恐怖」に堕ちていて興が醒める。

原作は。ローハンのエオウィン姫はアラゴルンに愛を受け入れて貰えなかった。その絶望のままに、死地を求めて男装し、ナズグルの首領の前に立ちはだかる。絶望ゆえの怖れ知らずのみがなし得る行為であり、凄惨で美しくもある。
映画では姫を駆り立てる絶望がカットされて、「大切な人たちの為に恐怖に立ち向かう女戦士」に堕ちている。映画の、「勇敢だけど非力な姫が怯えつつ闘う構図」は、申し訳ないが安っぽい。
しかも美人じゃないし、、、、。

ナズグルの首領が男装のエオウィンに邪魔だてすると殺さぬぞと脅しを掛ける場面も省略されていた。死は戦さに付き物だが、中つ国では殺されずにモルドールに(シルマリルリオンの時代ではアングバンドに)引いて行かれる方が死よりも恐ろしいのである。その脅しのセリフがあるのと無いのでは全然違う話になる。

原作的には冥王や指輪の幽鬼は、怪物的な外見は必須ではない。映画では単純に『怪物対人間(良い妖精族がちょっと人間を援助)』のようにシンプルにしたかったのだろう。

☆シュロブとその洞窟もただの怪物映画。。。。
原作のこの辺りは結構好きな部分で、真の闇と深淵の絶望の中でこそガラドリエルの玻璃瓶の光(エアレンディルの星の光、シルマリルの遠い輝き)が意味を持つ。が、ただの大蜘蛛との闘いに堕ちている。期待しなかったが、、、、。面倒くさい心理描写より大蜘蛛の動きの見事さの方が、お客に受け入れられるという考えなのだろう。

原作では、玻璃瓶の光に、“アイヤ エアレンディル エレニオン アンカリマ”、と、知らないエルフ語がフロドの口を突く、あたかも別の声が彼を通して叫んだように。読んでいて震えるような場面である。フロドは伯父のビルボからエルフの歴史やエルフ語を習っている。エルフ語の知識はあっても、どうして今そんな言葉が出たのかわからないという意味で未知の言葉である。おそらくは上古のエルフ達が口にしていた、呪術的な詩の一節。

自分ではない何かが深淵から叫ばせる言葉。それは意識の遙か底の部分が、生きた神話伝説の時間と通底する瞬間で、ガラドリエルの玻璃瓶の光がその水路を開いたのである。呪言としてのエルフ語。呪術としての星の光。

続くサムとシュロブの死闘でも、サムの喉を突いて迸る、エルフの言葉がある。サムはフロドと違い、エルフ語は知らない。(知識のあるフロドに作用した深淵の力より、さらに強い力となっているのを読者は知る)

ホビット達のあずかり知らない、人間誕生以前に遡るエルフ達の歴史、神話の一部。その帯の端が生き物のように暗黒の場キリス・ウンゴルに届いている。
(なぜなら玻璃瓶の光に閉じこめられた星の光は、天空を船で渡るエアレンディルが額に結びつけた宝石、シルマリルの光。シルマリルとは中つ国から遙かに隔たった神々の土地アマンにて、フェアノールが作成した三つの宝石。フェアノールはノルドール族の始めの王フィンウェの長子であり、シルマリルはアマンを照らした二本の木の光から作られ、その木は、、、と、人間が此の世に生まれる以前、月と太陽が現れる以前までたやすくしかも一気に遡る)

そのように知らず喉を突いて出たエルフの言葉はサムを自分自身に立ち返らせ、立ち向かい難いものに立ち向かわせるのである。
映画では、そういう話は完全に無視。期待しなかったが。。。

☆サムが主人のフロドが死んだと思い違い、自分が指輪廃棄の旅を続けると決断するにいたる葛藤も、大人になってから読み返すと心を揺さぶられる場面である。
原作では「サムワイズ殿の決断」と題して一章を割いている。フロドの世話をするため&エルフ見たさで付いてきた庭師のサムが、“サムワイズ殿”と呼ばれるに値する存在に変化してゆく重大な場面である。真の闇(物理的な闇でもあり、フロドを失って一人きりになったサムの心の闇でもあり、中つ国の深部に澱む力を持つ闇でもある)の中、おのれの卑小さを一枚、一枚脱ぎ捨ててゆく。

が、映画では。
「フロドを指輪ごとオーク達に奪われてすべてがお終いと思われたが、実は指輪はサムが持っていた」(!)という話になっている。期待しなかったけどあまりに安手ではないか。。。。

それにしても、大人になってから読み返すと、昔は気に留めなかったサムの描写にひどく心を揺さぶられる。愚かしいまでの無償の献身がエルフの宝石の如く貴重なものだとは、大人になって理屈抜きにわかるものだ。酒みたいなものです。

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そういう訳で。
原作があると考えなければいいのかも知れない、この映画の三部作は。冒険アクションファンタジーとしてなら、別にとりわけひどい内容でもないのかも。風景綺麗だしね。しかし、私だったら、この映画を見てから原作を読もうとは思わないだろうな。。。。

いや、映画見て原作を読みたくなった人も多いと聞くし、文句言う事ないんだけどね。。。
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by leea_blog | 2003-03-13 04:17 | Comments(0)

シルマリリオン再読で痛手を受ける事。飲めや踊れの時間が人間には必要、ということで。


はあ、、、。

シルマリリオンを読み返していたら、映像イメージが広がって何も手に着かなくなった。膨大な登場人物(登場するのは人はわずかでほとんどエルフだが)の一人、フェアノオルの夢を見て、目覚めがやや良くなかった。疲れていた。


「他人の創ったイメージを見ることによってあく抜きしよう」と思い立ち、ロード・オブ・ザ・リングの第二部を見に行った。
シルマリルの物語は、指輪物語より前の神話や歴史のお話なのである。


映画は他者の作品であり、他者のイメージしたものだ。文字は、映像、音、質感、匂い、時間の感覚、悲嘆も歓びも、果てなく想像させる。そこが素晴らしいわけだが、まあ、今はシルマリリオンでトリップしている時間の余裕と心身の余裕がない。そこで、他者の作品で自分の内部にひたすら生まれるあくを抜こうとしたのだった。しかも早急に。出かけるのに時間調整が必要な私としては異例の早さで見てきた。


エルフが人間より俗っぽい映画をもって、エルフが此の世の何よりも美しい物語から受ける痛手を癒そうとしたのだった。物語によって「此の世のものとは思われない!」、と激しく揺さぶられたあとには、むしろ安心して見ていられる。実際、安全であった。


優れた物語は、毒であり薬である。深部に作用するものは毒だけか薬だけかということが無いゆえに。



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蛇足メモ

3/10  フェアノオルの譲渡の夢

森の中の庭。狭いが立体的、薄緑のもやに包まれている。知人が来る。知人の領する大気の一角をケーキを切るように切り分け、持ってきてくれたのだ。「これがフェアノオルだ。あなたが好きなのではないかと思って持ってきた」と、譲ってくれる。
何と貴重な物を譲ってくれるのだろうと嬉しかったが、夢では私は淡々と受け取る。だが、譲られた火種は私の庭にはとどまれない。火が消えてしまったのを見て、知人は今度は土を銀のシャベルで掘り崩し、火のように燃えている一角を根こそぎすくって譲ってくれる。土は、溶鉱炉で溶かされてゆく鉄のように黄金に燃えている。そこから半透明の姿が立ち上って、三十センチくらいの像となる。白い衣をまとった男のエルフで、何かしきりと叫んでいる。こちらのことは見えていないようだ。
知人は心配そうに言う。「火の性質が外見と一致している。火が強すぎてどこでも持て余している。処分するわけにもいかない。あなたはどうだろうか」
あちこちたらい回しにされたらしい。見ただけで騒動の種だとわかる。いくつか世界が壊れかけたようだ。私の領国は知人たちのところと少し性質が違うので、やっかいとは思わない。「貴重なものは大抵はそういうものです」と言って受け取る。
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by leea_blog | 2003-03-12 01:49 | Comments(0)

パソコンが普及すると眼の安らぎにキャンドルが必要になる。部屋の中に焔のかげ。そして《揺蘭》


近々、『揺蘭』のコーナーが新設される予定です。


《夢限海域迷宮領国》にちらりと載っているだけで、《ゆりのうたたね》でもさっぱり触れられてないし、なかなか正体が不明な冊子であります。正体をあからさまにしない執筆人が多いのも特徴でしょうか。


いま現在の執筆人の中で、インターネットにアクセス出来る環境はりりな・りりあなだけなので、拙ホームページの一角に場所を提供しました。


インターネットに関心薄い人、私の回りには多いのです。
電磁波だの静電気だのの関係で体質的に苦手(要するに嫌い)な人や、苛々するから苦手(やはり要するに嫌い)な人、アナログ生活が多忙でネットで時間裂くのが煩わしい人、必要をあまり感じない人、あるいはまーったく関心無い人。
パソコンは必要だけどインターネットはしない、という人も意外と多い。。。
(私もADSL化の前はそれに近かった)

かく言うりり野りなりなも、FAXと携帯メールを導入したのがほぼ一年前。導入を固辞し続けるそれぞれの事情はよくわかります。もちろん、「あると便利!」の側面も、恩恵にあずかっているだけにわかる。
携帯電話やらFAXは、ひたすら普及してるので、導入しないでいるのはかえって大変でした。導入すると、「無い」生活はもう考えられないですねぇ。

ちなみに、《揺蘭》現執筆人の中でFAX導入している人は私と日嘉まり子氏のみ!
緊急の用件で「頼むぅ〜、近くのコンビニからFAX送ってぇ〜」と要請する私に「これからポストに入れます、あまり変わらないでしょう」で応える人もいて、頼もしい限りと言えよう。。。。


パソコンがこれだけ普及すると、むしろ、身体の時間が贅沢品になってくるようです。そんなわけで、《揺蘭》コーナーの原稿をメールで受信できたら便利なんだけどなぁ、というぼやきは口にしないで済んだのであります。
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by leea_blog | 2003-03-07 01:46 | Comments(0)