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『ゆりうた』 ブログに移行作業中。

このホームページは、私にとっても謎である、幾人かのエンジニア?様、Webデザイナー?様、コレクター?様、助力者様のお陰で成立しているわけですが。。。

ある夜、「ブログにしたら?」、と突然の助言を頂き、ブログとはウェブログの事だとしか知らなくて、掲示板とどう違うのか知りもしなければ考えたこともない迷宮領国当主は、漠然と、
「ゆりうたって、りり山のブンガク姿勢と全く関係なさそうな、息抜きに力を入れたシロモノでは? 
これを読んだら、むしろ誰もりり山のアナログ作品に関心を示さなくなるのでは?(笑)」
と、扇で酷暑を払いつつ、山積みの本の整理に励んでいた。


忘れた頃に、申し出人様が、実は酷暑にめげずブログ移行準備を進めてくれていたことが分かった。
ありがとう、謎の申し出人様。

近々、このコーナーはブログになる事でしょう。
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by leea_blog | 2005-07-30 02:41 | お知らせ | Comments(4)

幼虫期の終わり、再生のまどろみ、絹の肌触り。

貧血で寝込んだ。まだ一週間が始まったばかりなのに。

こう暑くては、汗と一緒にビタミン類やミネラル類が沢山失われているはず。補給が追いつかない。疲れがたまるが、癒える暇が足りない。

睡眠も不足気味。

そして。美への餓えは、餓えていることに気づかぬ位、日常化していた。貧血にもなるはずだ。

と、いうことで。
こういう時のために取って置いた、絹物を引っ張り出した。軽く、暖かく、暑くなく、質感の深く美しく、艶のなまめかしく、肌触りの心地よい、絹である。

 普段使いのクッションに、ジムトンプソンのクッションカバーを掛けて並べてみる。ああ、光を吸い込み、柔らかく反射させるさまの美しさ。その眺めは、目を通じて疲労した脳に届き、快楽物質の分泌を促す。さらにはその手触りも、深い安らぎをもたらす。

 しかしむやみに絹を撫で回さず、まずは半身浴をして冷房の冷えを取るのである。温まったら、バリ島で買ってきた香辛料たっぷりのボディスクラブ、ボレーを冷えて凝った筋肉に塗布して、待つこと15分。じわりと熱くなる感触がしたら、マッサージしつつボレーを洗い流すのだ。

 貧血で固くなった体も、快復の兆し。湯上がりに熱いハーブティーで内臓を暖め一息ついてから、絹のクッションに身を預けるのである。ああ、しあわせ〜。。。。


さて、絹であるが。
絹フェチとまでは行かないが、絹には強く心を惹かれる。
汗染みは出来やすいし、デリケートなので洗濯には気を使うわ、しわになりやすいわ、破けやすいわ、と、現代女性の慌ただしい日常生活には便利度の低そうな生地である。

にもかかわらず、やはり絹はいとしいし、心惹かれるし、実用に向いている。

 汗をかいてもすぐ乾くので、部屋の外と内の温度差が激しい地域(ヒートアイランド地帯とか!)に暮らす女性には、むしろ必需品といえる。オフィス内の冷房は極地の如く、建物の外に出れば熱した鉄板の上を歩くが如し。そよと吹き付ける風は、ドライヤーを当てられているような具合である。過酷な環境である。

 絹を消耗品と割り切って、インナーに多用する以外に生き延びる道はない。
 絹は風邪を引く前に汗が乾くのみでなく、軽くて暖かいので冷房から身を守る。帰宅したらすぐにお洒落着用の洗剤に漬けてそっと振り洗いし、流水で濯いで、軽く叩くようにして水気を切り(絞っちゃいけません)、適当に掛けておけば翌日には乾いている。絹製品のお店の店員さんによれば、お洒落着用の洗剤でなくとも、シャンプーでも可とのことである。髪を痛めず洗う代物ゆえ、絹の繊維も痛めないとのこと。
 豪奢系の服や、つやの美しいサテン生地はクリーニングに出すが、夏だし一回着る毎にクリーニングに出すとなると、面倒で着る気が失せてきませんか? ワタクシはジムトンプソンの絹でも、自宅で洗って休日にせっせとアイロン掛けをします。つやは元通りにはなりませんが、クリーニング店の無かった時代はこんなものであろう、と考えることにしてる。


 実用面は、天然繊維なのでお肌に優しい等、色々ある。
 が、何より、絹は、官能的である。女心(違うかも。あやかし心か?)をたまらなくそそるのである。重いウールは肩が凝るが、絹なら少しくらい重くても、苦にならないのである。

 軽いと言っても、厚めの織り方でたっぷり足元まである着物なら、結構重い。昔の女人は絹の着物を何枚も重ねて着て、かなりの重量になったらしいが、現代の着物でも、体に掛かる重量が布地の特性ゆえかしらねど分散される感じがして、妙に心地よいのだ。

 豪奢な絹の衣が重くて耐えられないなんて贅沢な話で羨ましい。が、昔は重くて大変なものは他にもあった。冠や装身具である。男性に比べ筋肉の量が少ない女人は、常に冠や装身具をまうのはかなり大変であったろう。特に、首が細くてなで肩体型の人! 私もそうなのだが、重い衣類は背骨や腰にたやすくダメージを与えるのである。冠や装身具の重さは衣類の比ではない。
 それなら冠も装身具もやめればいいのだが、昔の人は趣味で身につけていたわけではないのだ。


 絹の官能性に戻ると。
 半身浴して絹に身を寄せれば疲れも癒えてゆく心地。絹の独特の、官能を刺激する具合であるが、これは綿のような植物でも、ウールのような動物でもなく、蚕という昆虫に属する何かかもしれない。

 虫が、終わりかかる幼年期に急かされて糸を吐き、自分一人で籠もる小さな部屋を作る。それが繭だ。空気や湿気が、心地よい具合に出入りする密室。変態の眠りを籠めて閉ざされた部屋。
 繭を作り上げると、幼虫はほっとして眠りに落ちる。さなぎの内側で体は溶けて、幼虫期とは似ても似つかぬ成虫に変化してゆくのだ。人間族には想像を絶する生態である。幼虫たちの眠りの中の変態の記憶が、絹糸に残っているのではないか。
 幼虫期の終わりと、夢の中で変態してゆくその力。羽ばたく成虫としての生へ、そしてすぐに訪れる死へ向かう、幼い虫たちの果敢な夢。それが糸に残っているのだ。その不可思議な夢の力をわずかでも得ようと、人間族は肌にまといたがるのではないか。

 絹糸を取るために、幼虫でも成虫でも無い、そのはざまにあるさなぎの命が失われるわけだが、眠ったまま死ぬ虫たちの、生命の破片も絹糸に記憶として残っているのではないか。

 それゆえ、絹は人々の、すり減った動物エネルギーをそっとくるんで再生させるのではないか。せっせと繭を作り上げ、重労働に疲れ果てた幼虫の、人間族が知ることのない達成感と、次の生に向けて体が溶けてゆく深い眠り。それを、絹を通して追体験したいと思うゆえに、絹がこれほど官能的なのではないか。

 つらつらと思いつつ、絹の枕に頭を預けるのである。
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by leea_blog | 2005-07-27 03:11 | Comments(0)

ことしの梅雨明け、そして、『うろくず の やかた』書き出しの海。東京湾に注ぐ川。

きのう、こちらでは、ことしの梅雨が明けた。

台風みたいな雨が続いて、
「一体梅雨はいつ明けるのか? すでに開けていて、これは夏の豪雨では?」といぶかしんでいたところだった。

梅雨明けの宣言がなされた午後、ワタクシはあまりの暑さに体を壊して、臨海副都心に逃げ込んでいた。自宅は、暑さと湿気で寝込んでいる内に衰弱死しそうな悪環境なのである。

 寒気と咳に苦しみつつ、黒潮がひたひたと船着き場に打ち寄せる、あの人口密度の極端に低い場所に、一時避難したのだ。


 海ぎわのホテルのエレベーターの中で、ベルボーイが梅雨が明けたと教えてくれた。
 豪雨の続いた梅雨が、まさにこの日に明けるとは。


疲れた心身にはミネラルを含んだ海風が効く。
部屋は最上階だった。

カーテンを開けてボーイが説明するには、正面は隅田川で奥行きは築地の方角という。夜になると屋形船が見えるという。


あら、そうなの、と心で言った。よくよくみれば。川の左手に見えるのは、あれは築地の市場ではないか?
 おお。なんと、懐かしい人に再会したものか。『うろくずやかた—人魚のひめ—』の書き出しを書いた場所だ。

 たまたま、このHPを作ってくれた人が、試作品HPの名を、取り敢えず詩集から取って『うろくずやかた』、とした。

 疲労しきって海ぎわにたどり着くと数時間前に梅雨が明けており、そして偶然取った部屋の正面に、人魚のひめの書き出しを書いた築地の市場の列柱と、海に注ぎ込む隅田川があるとは。
 闇に紛れて陸に上がる人魚たちの幻影。そう、彼らは街に散って行くのだ。



 ああ、あれは確かに、築地の市場の、列柱の船着き場。
 昔に一度みた、夜の黒い川面に浮かぶ王宮のように見えた、煌々と光の灯る列柱、見る内に人魚の屍が流れてくると思った、あの場所を、二十年近く経って今、外資系ホテルの最上階から見下ろしているのだ。


 こちらからみれば昼間の市場の建物は城塞めいて、海戦に向けて戦闘用のガレー船を次々と生みだす異国の造船所を思い出した。



 偶然にしては出来すぎていた。

 わーい、と歓ぶよりも、訝しんだ。
 怪しんだ。

 どうしてもここに来なければならぬと、7月に入ってからやたら切迫した気持ちに駆られていたが、例によって私がそう思ったのではなく、思うように仕向けるものがあったのだ。   大体、私はこのホテル以外にお気に入りがあるし、こことは別のホテルに行きたかった。
 なぜのホテルで、しかも海に向いた部屋ではなく、川に面した部屋でなくてはならないのか、予約を入れるまで大分躊躇したのだ。夏の海ぎわに宿を取るのだから、海に面した部屋にしたかったのだ。
 来てみれば、わかった。重要な理由があったのだ。


 地霊の招きにあう、いや、地霊に呼ばれる、あるいはもっと乱暴に、呼びつけられる事は良くある。
 が、訝しんだのは、その感覚からしばらく遠ざかっていたからだった。

 緑の、湿った髪を掻き上げる、手の、幻。
 俯いた顔にかかる、汐の匂いのする髪の房。肩に張り付く、浅緑の髪の筋。
 高く挙げた力強い尾、飛沫が虹色の光を集めて散る。
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by leea_blog | 2005-07-19 03:10 | Comments(0)

日本語の問題。 文章を破壊しつつ再構築する眼差し、を思い出した事


閑話休題、その二。

 渇水が心配されたのもつかの間、遅れを取り戻すに十分な雨が続いた。しとしとと降り続く梅雨のイメージを裏切って、豪雨が多い。

 今日もそうだったが、雨の合間に陽が出ると、ムキになっているかのような照りつけ方である。ワタクシの部屋はサウナ状態、仕方なく苦手なクーラーのスイッチを入れた。嫌いなんだよね、この、不自然に骨の髄が冷える感じ。夏の疲労物質が、筋肉の隅々に重く沈んだままになるような冷え方。

 ところで。文体についてつらつら考える。

 外国の人の日本語ビジネス文書を添削した。ネイティブ日本人が見て不自然な所を直すのだが。考え込んでしまった。と、いうのも、母国語の文法の癖をひきずっていて、なかなか面白いのである。

 直したくなかった。文の構造や助詞が微妙にめちゃくちゃで、ビジネス文書としては意味が通じない。直さねばならない。本人の意図する内容を、正確に伝えていないからである。
 が。文芸として、意図的にこんな文にしたとしたら、面白いのである。良い味を出しているのだ!!
 ワタクシは書いた本人を前に、紙を見つめたまましばし沈黙した。自分でも、その沈黙が長すぎるのに気づいていた。頭の中の、【正確に物事を伝えるための文】をチェックする部分と【通常の文章では表現し切れぬ事の還元装置としての文章】(←りり山定義)を評価する部分が同時に反応して、頭の中で議論を始めたのだ。

 勿論、仕事なので優先させねばならないのは前者である。しかも、先方さんは日本語を知り尽くしてレトリックとして混乱を極める文体にしたわけではない。たまたま、偶然にワタクシの心を刺激する味のある表現になってしまっただけだ。詩人の言いしれぬ文体構築力が生みだした技とは、根本的に異なるのである。「面白い!」と感嘆している場合ではないのは分かっている。

 が、「あ、この表現は面白いですね!」と言いたいのを呑み込むのに時間が掛かった。それを口にすると「面白いけど、それはあくまで日本語の深部を知り尽くした上で技法としてやった場合ですね」と続けねばならないし、「確固たる物があって自分の必要上やるなら、ほんの一文字入れ替えただけで、平たいものがとたんに多重の空間や時間を提示し暗示するようになります」と続けねばならない。さらに「それはブンガク、特に詩の人たちが強い関心を持ち探求する、一般的には辺境と呼ばれる領域です」、と、続き、ちょっと表現者でも何でもない海外の人と短い時間で仕事中にする話ではなくなるのだ!

 さらに。誤解を避けるため「意味の通りにくい表現を使った作品は、日本の現代詩ではちょっと一般的ではないですけどね」、とも付け加えねばならないだろう。相手を混乱させるだけである。

 しかたなく、日本語の特徴や、伝えやすい文章のコツを話しながら手を入れた。良心が少し痛んだ。もしかしたら、相手の潜在的な表現能力の芽を駄目にしているかもしれない、と思いつつ。
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by leea_blog | 2005-07-10 03:09 | Comments(0)

好み判断と芸能人の話題  (ランチタイム向き)

閑話休題。

 お昼ご飯は外食である。

 毎日外食だと、栄養面が気になる。
 異動前は、会社員相手に御弁当を売る車が来ていた。発芽玄米に季節の惣菜、栄養バランスも良く、味も良く、ヘルシーだった。繁盛していて、いつも長蛇の列が出来た。

 異動して、毎日カロリー高い昼食となり、太りまくりの自分に愕然とした。太りにくい体質だから、ダイエットはしないで済んでいたのだが。ちょっと考えた方がいいのかも。

 ところで。
 昼ご飯時の話題は、時に新鮮な物がある。
 普段自力で出会わないタイプの人たちと食事をすると、視点が色々で「うーん、そういう考えもあるのか」と。

 「芸能人や著名人で誰が好きか」、と何年かぶりに聞かれた。
 好きな作家や好きな絵のタイプなら普通に聞かれるが。芸能人は、聞かれ無いなぁ。
 大抵の人は、少し話せば、ワタクシがどうやらテレビはニュースと天気予報以外見ていない事に気づく。著名な芸能人の名が話題に上がっても、ワタクシがさっぱり知らないので、「誰が好きか」なんて聞いても無駄と分かるのであろう。

 そんなわけで、こういう質問は滅多に無いのだ。

 で、ワタクシは芸能人の名前をほとんど知らない。知っていても顔と名前が一致しない。好きか嫌いか以前のレベルである。顔と名前の一致する芸能人は居るが、好き嫌いを言うほど知らないのだ。
 ううーん、女優の名前なら何人か挙げられるんだが、俳優で敢えて好みを挙げるとしたら誰だろうな。と、なんとなく引っかかった。で、半日後、突然、あ、ジョニー・デップがいたじゃん、あれは好みの美形と言える、と、思い出した。(とはいえ、語るほど知らないんだよね)


 「芸能人なら誰のファンか」という話題は、書物や絵画、音楽の時と同様、相手の傾向を知って、会話をスムーズにする材料である。ほとんど初対面同士の場合は、罪のない話題と言える。好きなタイプを語ると同時に、人生観や価値観も差し支えない範囲で語るから、互いに分かりやすい。


 ブンガクの場合は、相手の傾向を知りたいというより、文学論や表現論をしたい場合が多い。で、ブンガクの話は、往々にしていきなり差し支えあるレベルで人間性が分かってしまったりする。別に私は構わないのだが、罪のない軽い会話にはならない。
 軽い会話にもなるかもしれないが、少なくともその場の全員が『基本的にブンガクなんてどうでも良い』と思っている場合である。


 芸能人のタイプ、じゃなくて、絵や小説に出てくる人物なら、幾つでも答えられる。「ギュスターヴ・モローの絵に出てくるようなタイプ」、「ラファエロの天使」、「シルマリルの物語に出てくるノルドール族のエルフ」、「折れた魔剣で描かれる俗なエルフも可」等々。これらなら、熱意付きで語れる。

 世間が芸能人の好みを聞くノリで語るとしたら、「好みの神様は?」が良い。ミーハーなノリで語れもする。
「シヴァとか、アポロンとか、ディオニュソス。シヴァ神ラブで初めての海外旅行はインドだったし!」
 それってやはり“追っかけ”か?
 
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by leea_blog | 2005-07-04 03:07 | Comments(0)

Kingdom of Heaven の事。その二 昔話の情景 闇と火と鉄と血、輝く海

期待しなかったが面白かった映画についての話、その2。
まるで昔話のような展開が、かえっていい感じ。




 始まりも、暗くて良かった。
彫像のように美しい屍体を、暗く寒々とした風景の中に葬るシーン。主人公の鍛冶屋の青年の妻が、子供が死んだのを悲しんで自殺したのである。
 妻も子も一度に失い、しかも自殺は罪なので妻はまともには葬られず、もちろん天国には行けず。

 残された青年はひたすら暗く険しい目つきである。青年の鍛冶場に十字軍の騎士がやって来てお悔やみを述べる。そして自分はお前の父親だと告げる。今まで放って置いて苦労させ、成人した子の前にいきなり現れて「父だ」と名乗れば、冷たい拒絶しか待っていないだろう。
 予想通り父は冷たくあしらわれ、「もう二度と逢うことは無いだろう」とか言いつつエルサレムに戻ってゆくのである。鍛冶場の炎と、暗い風景、悲嘆に寡黙になった青年の組み合わせ。

 こう書いていると、比喩が分かりやすすぎて陳腐だが、美しい屍体や、起伏のある景色に舞い散る虫のような雪を混ぜ込んで、期待せず見に行った私のような観客も、見入れたのである。

 その後。
 青年は鍛冶場で司祭を殺してしまい、父の後を追う。父の一行と共にエルサレムに向かうのだが、途中で、司祭殺しの犯人を追ってきた騎士達が現れる。父の一行は青年の引き渡しを拒み、激戦。暗い森で、鉄の触れあう音と血しぶきのシーンが繰り広げられる。

 前段で描かれた、病死したり自殺したり、憎悪で他人を殺したり等は、村人としての死や罪である。
 善意に生きていても降りかかるそれらは、逃げ場が無いだけに重く暗い。

 仏教徒なら、「愛別離苦 怨憎会苦」と呟いて、生きる事自体が苦しみに満ちた人間界から解脱しようと考えてしまう所だ。
 子供が死んだ、しかも悲しみを分かち合い支え合って切り抜けるはずの美しい妻が、俺を置いて自殺した。あまりと言えばあんまりだ。妻は天国に行けない。村人は可哀想な妻を悼んでくれない。おまけに悲しみに耐えて地味に生きていこうとする俺に、司祭がやって来て「お前はもう村には用無しだ」と抜かす。坊主のくせに妻の屍体から十字架を奪いやがった。ついかっとして、やってしまった。殺すつもりは無かったんだ。えーい、この苦しみは人間として生まれたからだ、厭離穢土、欣求浄土。俺は出家する!、と。


 映画に話を戻そう。村人としての逃げ場のない苦しみ、の続き。
 が、騎馬で森を行く内降りかかる殺戮と戦死は、戦闘する階級として、運命に向き合った結果である。受け身の悲惨ではない。
 というのも、父はこの戦闘で深手を負い、その後傷が悪化して息を引き取るのだが、息子を地元の行政に引き渡すことも出来れば、金で見逃してもらう事も、やろうとすれば出来たのだ。身分を告げて、村の罪人を追うくらいの連中になら政治的圧力を掛けて退ける事もできたはず。
 エルサレムで身分も富も有る身である。こんな所で命を危険にさらさずに済む選択肢が、幾つも有ったのである。

 しかし、山賊まがいに、さっさと武力でけりを着けようとするのである。結果、深手で死ぬのだが、選択を悔いる気配は毛頭無し。息子の目の前で実に蛮勇っぽく、俺の息子に手を出す奴は許さん、と態度で示せて満足だったであろう。

 ちなみに、父の一行は、国籍も様々な、寄せ集めめいた少人数である。身分の有る騎士の一行というより、戦場から逃げ出した戦士が野盗化したのか?という雰囲気。これから主人公がおもむく土地の様子を暗示していてなかなか良い。お供の戦士達は森の戦闘でだいぶ殺されてしまうのだが。


 詳細に書いていたら切りがない。ま、期待せず見に行ってぼーっと見ていたのに、導入部をこれだけ覚えてるのは、「考えなくても頭に入るよう工夫された影像展開」だったのだろう。

 あまり考えなくてもすらすら聞ける、昔話やおとぎ話の骨組みに似ている。道具立てや象徴が覚えやすく再話が簡単である。ちょっとやってみようか。以下。


 『昔々ある村に、鍛冶屋の青年がおりました。青年は真面目に働き、美しい妻と幸せに暮らしておりました。
 生まれたばかりの子供が死んでしまいました。悲しんだ妻は青年を置いて自殺してしまいました。
 青年は妻を埋めると、鍛冶場に戻りました。火に向かい、何も言わずに、鉄を鍛えておりました。
 身分の良さそうな旅の騎士が、鍛冶場に立ち寄りました。騎士のお供の人たちは、背の高い黒人や長い髪を三つ編みにした男など、奇妙な、見たことのない人たちでした。騎士は青年に近寄り、礼儀正しくお悔やみを述べました。』
 ううーん。どの小道具もどこかで見たり聞いたりしたイメージにつながるので、覚えようと意識していなくてもかなり覚えている。

 

 さて、そんな暗い情景から十字軍がエルサレムに船出する港の場面になると。いきなり陽が白く明るく、海は青く広がる。
 青く輝くメッシーナの港に十字軍の帆船があまた浮かぶシーンは、思わず心の中で「おお!」と呟いた。個人的に好きなシーン。



 さて、父から騎士に任じられて跡目を継いだ青年は、海原に出る。たちまち嵐にあって船は難破、父からもらった剣だけは必死に抱きしめ、気が付けば砂浜に打ち上げられていた。
 見回せば浜は屍体の山、生きているのは彼のみである。そこに一頭の黒馬が現れる。馬を手に入れた青年が砂漠を行くと、突如、立派な身なりのイスラム教徒がお供を一人連れたのみで現れるのだ。


 この辺の展開も、千夜一夜物語か?、とまごう。
 立派な身なりのイスラム教徒は、お供に通訳させて話しかける。その馬はどこで見つけたと問われて、浜辺にいたと答えると、お前は嘘つきだから決闘せねばならんとか何とか通訳を介して言われ、いきなり決闘を挑まれるのである。
 何だ、何だ、何なんだ一体。と、驚き呆れつつ、応戦せねば殺されるので必死に応戦。そのイスラム教徒を殺してお供を道案内にして、青年はエルサレムにたどり着く。


 船が難破は良いとして。
 気が付けば回りは眠っているような屍体ばかり、生きているのは彼だけで、しかも餓えと乾き以外は重症も負っていないとか、何もない所に黒馬が現れたり、砂漠にいきなり立派な身なりの異教徒がお供を一人連れただけで現れたり、無茶苦茶な理由で決闘をいどまれたり、と、子供にねだられたお父さんが語るお話しのようなノリである。

 子供がもう少し大きくなると、素直に聞いてくれない。「船が難破して、重い剣を抱えてるのに何で一人だけ死なないの」とか、「打ち上げられたみんなは死んでるのに、なんで一人だけ怪我もしてないの」とか、「いきなり浜辺に綺麗な黒馬が現れるなんて変だよ」とか、「立派な身なりのイスラム教徒が、お供を一人連れただけで砂漠にいるなんて変」とか、「お前は嘘つきだから決闘、って、そんなシーンは唐突過ぎ」とか、「お供は主人が殺されるのを見ているだけ? 加勢しないの?」とか、「主人を殺されたのにそのイスラム教徒は復讐せずに道案内するの?」とか、馬鹿にされまくるのだ。

 が、子供がうんと大人になると。
千夜一夜のシャーラザッドが、残忍なスルタンのしとねでこんな物語を語っても、スルタンは「馬鹿げた、あり得ない展開である!」と言わずにむしろ聞き入り、シャーラザッドが「今夜はここまで、続きは明日」と、うち切ると、続きを聞きたさに彼女を殺すのを、一夜、また一夜と引き延ばすようになる。


 子供だましは、子供にとってすら実は退屈しのぎの使い捨てである。が、「物語」は、大人が聞いたり読んだりすると子供の頃以上に発見があるしろものである。

 ああ、この辺りまで来ると、皆様は映画の話では無いことに気づくだろう。そう、映画を勝手に自分の物語の主題にすり替えて語っているのである。

 映画を一本観て、しかも期待しなかったのにこれだけつらつら書けるなんて、本当、制作者に感謝したいほどだ。
 
 エルサレム王ボードゥアン4世が出て来るに及ぶと、更に映画の話では無くなるが、それはまた分割で載せよう。
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by leea_blog | 2005-07-02 03:06 | Comments(0)