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【島とクジラと女をめぐる断片】、薬が切れたら売人の言い値で買うマニア

アントニオ・タブッキにはまった。

 どうしても引かれた本があって、例の如く買って寝かせて置いたのだ。『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』。読む順番がなかなか回って来ず、ようやく最近読んだ。本によっては、待ちきれずに帰りの電車で読み始める物もある。タブッキの文体が、ぱらぱらとめくっただけでは、私にそうした餓えを呼び覚まさなかったのだ。

 が、今は。水を求める砂漠の旅人の気分である。
 で、【島とクジラと女をめぐる断片】を購入しようと池袋リブロに行った。
 無かった。使えねーな。実際、池袋リブロは、私の欲しい本に限って「お取り寄せ」な事が実に多いっ!

 仕方なく、ネットで購入しようと、何となくYahooオークションで検索してみた。【島とクジラと女をめぐる断片】初版が、八千円近かった。何、この値段。。。
アマゾンで検索した。ああ、絶版らしい。しまった。

 ここまでは良くある事である。以下が尋常ではない。
 アマゾン書店では、古書も同時に見られる仕組みになっている。USEDで出品されている同書を覗いた。四冊出品されている1995年出版分のUSED価格が、¥7,880、¥7,881、¥8,000、¥9,000なのである!!!!
 新品価格 ¥1,937(税込)の商品が、である。

 1998年の新装版は、新品価格¥1,995(税込)が、USEDでは¥2,500、¥6,480円の二冊が出品されている。
 新品はこちらも絶版らしい。

 
1995年版と1998年版の価格の開きも興味深い。内容的にはどう違うのであろうか。重要な箇所が新装版では削除されている、とかか?

感心したり驚いている場合ではない。私は単純に、のどが渇いて死にそう状態なのだ、理屈はいいから、今すぐ読みたいのだ。絶版になっているとはいえ、何、このUSED価格は!!!! 揃いもそろってこの価格は変だろ。アマゾンは業者だけではなく、一般人も手持ちの本を売りに出すから、蔵書を処分したい一般の人たちもまあ普通の値を付けて出品する。大抵は古本の値段はばらつきがあるのである。大体、初版本じゃない物や保存状態が悪い本はそんな馬鹿値で売れないしね。
それが、アマゾンのusedコーナーに並んだのが、目を剥く高値で足並みを揃えた業者ばかりとは。
おのれ〜、古書店が共同で地上げしているに相違ない!  


 ちなみにヤフーオークションの方の八千円近い古書は、業者の出品にも関わらず再出品されていなかった。既に売れたのであろう。買う人が居なかったらそんな値段は付けないであろうから、ニーズがあるのだろうが、それにしても高いでしょ。。。。。

 恐ろしい世界だ。。。。。
 いや、何度も言うが、私はもの凄く喉が乾いていて、コップ一杯の水が欲しいだけなのだ。
 それが無くては、死んでしまう位に、もう限界なのだ。
 南極の氷を溶かした水、とか、ルルドの聖水、とか、ガンジス川の聖なる水を求めているのではない。
 水道水で良いんだってば、飲める水なら!!!

 染みや焼けや褪色あっても、鉛筆でアンダーライン引いた跡があっても、いいんだってば。
 
 あちこち当たった。運良く楽天フリマで、新装版が千円で出品されているのを見つけた。急いで購入予約した。ふらりと入った書店がいきなり火事になり、何が起こったのか把握する間もなく周囲を炎に囲まれながら必死に走り、からくも欲しい本を抱きかかえて焼け落ちる書店から逃れ出た気分である。

この時、目当ての本が火の粉の向こうから「りーあさん、ここです、ここです」と呼ばわって居場所を知らせてくれればロマンティックだが。。。。実際は、ネットというのは体温が伝わりにくいもので、楽天フリマは見落として別口を探し回ったあげくに、疲れ果てて楽天フリマに戻った私が見つけたのは、検索結果リストの片隅でプラスティックの板よりも無表情に、他の本と異なる気配を一向に見せもせず沈黙を守るこの本のタイトルだった。もちろんそんな具合だから探している私の気配に気づいて、「ここです」と向こうから合図してくれるなどということは、まーったく無かったのだ。


購入申し込みをしたとはいえ、業者から連絡メールが来るまで落ち着かない。
「店頭と同時販売なので、既に店頭にて売れてしまい、楽天フリマは削除が間に合わなかった」とかなんとかメールが来たらどうしよう、と心配中である。

 そんなに貴重な絶版本とはつゆ知らず、【読みたい焦燥モード】に入ってしまったのだ。道ですれ違って惚れた女性が、実は高級遊女で、ワタクシの給料では逢うことはとても無理、、、、といった感じである。

 そんな金額払えるか!と憤りつつ、それでも、読みたい飢えには勝てず、薬の切れた麻薬中毒患者のごとく、言われるままに八千円を払ってしまいそうだった。恐ろしい世界である。

図書館で探してコピーしたら良いって? あーあ、昔は良くやりましたよ、国会図書館で絶版本のコピー。
でもね、小説だとコピーももの凄い量になるんです。しかも、コピーって紙がすぐ劣化するし。本マニアとしては、本の形で手元に置きたいんです。紙の手触りと重さ、存在をまとめて「本」、というんです。

あ、今気が付いた。1995年って、今から10年前だ。【島とクジラと女をめぐる断片】が本屋に並んでいるのを見たけど買わなかったのは、つい二、三年前のような気がしていたのだ。まあ、10年前じゃ仕方ないかも知れない。でもさ、古書がそんなに高値になるくらいニーズのある本なら、再版すれば売れそうなのだが、どうなのだろう。
 

 
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by leea_blog | 2005-10-31 00:41 | Comments(0)

カスタムナイフの清冽なきらめき、そして甘い優雅のビスクドールの日

 臨海副都心に出かけた。
JKGナイフショーを見に行くためだ。
 りんかい線の国際展示場前駅を出ると、ほっとした。この辺りは、視界を遮るものが極端に少ない。空と、海、広い歩道、空気に微光が偏在する。ああ、嬉しい。コップから池に放された金魚の気分である。どうも、この地帯に来ると、ほっとするのである。海が近いからだが、それだけではなく、空間の浪費が甚だしくて、雑多な緑もふんだんである。地霊は居ないが、さりげなく異形の漂着物の気配がある。



 カスタムナイフショーは、時間を間違えてたどり着いたときは閉会間際であった。
精魂を込めた刃の澄んだきらめき、柄の意匠に魅惑された。

今回は、日常用を探していた。丈夫で美しい細工に満ち、携帯に便利な、日用品にして護符となる刃物を。具体的には、普段はお昼ご飯のパンのかたまりや固いチーズ、果物を切ったり、稀には野山で野鳥や小獣を捌く為の。切れれば良いのではない。常に持ち歩きたくなるような魅惑を秘め、なおかつ邪霊から身を守る力のある刃物である。

 そう注文をつけると、簡単には見付からない。ぴったりの物が無くて助かったかも知れない。高価なのだ。さらに、カード利用不可なのが助かっている。カードが使えたら、刃の邪心無き眼差しに魅入られた私は、きっと、家に連れて帰りたくて買ってしまうかも知れない。

 日常物を買おうと思っていても、つい目が行くのは非日常物である。やや大振りのナイフである。それでも、「短剣」程の大きさである。短剣、つまり、剣を求めるなら小ぶりである。
心地よい重さが手に馴染む具合を確かめる内、それくらいの大きさの物は最低限一振りは持っていなければならないような気がしてくる。
 心の底に、私ではない誰かが囁くのだ。
「一振り位手に入れろ。短剣位は、常に腰に下げていろ。成人して何年も経つのにいつまで丸腰で過ごすのだ。ひとまず、それを買え。真実欲しい物は後でゆっくり探せばいい」
あぁ〜。私は理性を振り絞った。
ひとまず、それを買えって、幾らだと思っているのだ。
“ここは21世紀の東京です。こんな物を携帯していたらあっと言う間に警察のお世話よ。”
声は食い下がった。
「異国を旅する時はどうするつもりだ。刃物も無しでは、不便きわまりないではないか」
“成田で取り上げられるわ。返してくれるはずの到着空港で請求しても、《届いていない、見つかったら連絡する》、の一点張り。連絡が来ることはない。これは経験済みです。果物用のナイフは現地で安物を手に入れて、出国時には置いてくるしか無いわ”
声が黙った隙に無理矢理コーヒー休憩をした。
一振りの刃物を、携帯。確かに昔の人には普通の事だったのだが。
普通にして、必要に迫られていたのだが。


 暮れなずみ海ぎわをゆりかもめに乗って新橋に着き、銀座一丁目に向かった。知人のビスクドール展があるのだ。大坪純子氏は創作とは関係ない所で知り合った人だが、その正体は、アンティークドールのレプリカの製作家さんだった。

 銀座のアンティークモールは、ここもまた、迷い込んだら無事抜け出すのが大変そうな場所である。迷路だという意味ではない。身分不相応な買い物をして、支払えず、奴隷として売り飛ばされそうだ、という意味である。

 二階のギャラリーにビスクドール達が並んでいた。十一月近い夜の銀座に思いがけなく、春の日だまりのような人形達であった。見に行くのはもっぱら創作人形の私だが、実家に置いてあるのはアンティークドールのレプリカである。人形屋【竹取物語】のミニ市松人形も持っている。今回来てみて、天真爛漫系、優雅で甘い、透き通る肌の人形達にほっとした。

 大坪氏の話も楽しかった。寝る前に人形の置いてある部屋を覗き「可愛いっ」と満足して眠る、とか。

 ああ、それ、わかる。妖霊系のワタクシでさえ、家に帰って並んでいる描きかけの作品達を見ると、本当にどの子も大切な、心の深部に直接通じる子達で、その眼差しに安らぐのだ。ああ、美しいよ、可愛いよ、と心で囁きつつパールを溶いて髪の筋を描いていたりする。ウチの姪にはワタクシの絵はやたら怖いようである。姪の反応は、まぁ、一般的にそうだろうなと思うので別にショックではない。

 満足いくものを造るのは、実のところ、げっそりやつれるほど大変な作業である。人知れぬ辛苦の末満足出来る作品になると、達成感も手伝って、心の底から「可愛いっ」と思えるのである。もっとも、大坪氏の作品は作者じゃなくても「可愛いっ」と思えるのだが。

 魔の道神の道であるカスタムナイフとアンティークドールをハシゴしたわけだが、図らずも共通点があった。古い時代から、刃やひとがたは、神々(力を持つ自然霊)との対話、祈りに使われた。大坪氏に、異界と此の世を繋ぐものとしての刃物、人型の話をしかけたが、理性がそれを遮った。生活の掛かった方の仕事の関係者だし(笑)
 大坪氏の世界は、妖霊巫女系幻視系のワタクシとしては、聖にして邪、闇と光は同一、混沌の豊穣がどうのこうの、破滅と隷属の精霊論、とか、そういう話をやめておいた方が良いような、優雅であまやかなアンティークレースの香りがしたのである。

 充実した一日だった。。。。

 
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by leea_blog | 2005-10-30 23:40 | Comments(0)

バンコクの蓮、水の火皿

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by leea_blog | 2005-10-23 21:11 | Comments(0)

「また君か! 」そして、夢は有っても欠陥住宅

ああ〜、ストレスだ。

何がといえば、転居計画である。

金銭の苦労と対人の苦労は、大の苦手なのだ。。。

 得意な人はいないだろうが。苦手と言っても度合いが違う。私は子供の頃から算数が苦手だった。遺伝で、金銭のストレスが溜まると消費で解消するし。算数が出来ない私に金銭の苦労をさせないで欲しい。


 対人に関しては、どちらかというとおおらかな傾向だが、おおらかさが災いするのか、許容範囲を超えた相手との接触が多い。。。。
 例) 用もないのに、私の縁者の個人宅に「りり山さんの電話番号が知りたい」と電話する人等は悔い改めなさい。 縁者がびっくりして「ウチの電話番号をどこで知ったんですか」と聞くと「もらった名刺に載っていた」とのこと。私もお邪魔したことの無い家の電話番号が、名刺に載ってる訳無かろう。縁者が用件を聞くと、特に用は無いという。実は、その手の人たちは過去私に電話を断られた経緯が有る。
「また君か! いい加減にしなさい」と言いたい。



 実家に置いてある荷物を引き取らなければならないのだが、早くマンションを購入しないと、居住スペースが無くなってベランダで寝なくてはならなくなる。

 で、肝心の物件だが。払える金額と世間の相場が違いすぎて購入意欲が激減している。自分の感覚では二千円ほどのワインを、レストランで七千円で飲んで嬉しい人はいないだろう。
「こんなモノが七千円なんて」
とがっくりして、精神衛生にはなはだ悪い。三万円でも、価値があれば飲むでしょう? 私にとってマンション購入はそんな感じである。値段に見合った満足度が無い。しかしぼられているのでも何でもなく、世間の相場がそれなのである。

 何だか外国人の気分である。
 贅沢しないのに生活費がこんなに掛かるとは、変な国。すかさず自分に突っ込みを入れてみる。
「わかった、りり山さん、あなたは日本人じゃなかったのよ、地価の安い国に引っ越しなさい。
ここはあなたには狭くて高い。夏は暑くて冬は寒いし、空気も悪い。綺麗な水も緑もふんだんにある、野獣や野生の植物を獲って暮らせる国に行って、遺跡に住み着き、打ち寄せる波の音を聞きつつ大型獣の毛並み麗しい首に腕を回して暮らしなさい」

 諦めていると、知人から情報が。山手線にアクセス便利で駅から徒歩6分、6階建て最上階、風呂とキッチンに窓付き、90平米位でバルコニーも合わせると120平米位、値段は三千万円台の新築物件。バルコニー合わせて120平米、三千万円台??? 長野県とか、群馬県の話か??? いやいや、江戸川区とのこと。探せばあるんですね、そんな物件。。。。。

 とは言え、そこは知人が入居後三ヶ月で売却したとか。欠陥住宅の疑い有り、とのことで。欠陥がばれかけて投げ売りしていたのでわ、と、ちょっと思うのであった。夢のある話なんだけどなぁ。


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by leea_blog | 2005-10-22 19:11 | Comments(0)

「詩を書くって楽しいですね」 VS 「楽しくねーよ」

詩を読む若き人々のために C.D.ルーイス著・深瀬基寛訳
筑摩書房

その2
【イギリスの詩人が、青少年の為に書いた本。
「第一章、詩は何の役に立つのだろう」
から始まって、平易な語り口で、詩とはどんなものであるかを展開してみせる。勿論、大人が読んでも面白い。子供しか面白くない本は、すぐ壊れるプラスチックのおもちゃみたいなものだ。】


これが前回の冒頭。
今回は、ここから↓


 「一ぺんの詩はどうやって出来るか」の章も面白い。
 端から見れば簡単に見えるに違いない詩作の大変さを、わかりやすく伝えている。

 “詩人に大抵共通する詩の大変さ”を、詩人以外の人にわかりやすく伝えるのは難しいものだ。しかも、ブンガクに関心の無い人にもわかるように、となると。
 大抵の詩人は自分個人の体験なら語れるだろう。だが。「自分はこうだが、はたして他の詩人は? そしてそれは、本当にどの時代を通しても共通するのか? 」←こんな具合に公平であろうとするほど、作者達の語られざる創造の秘密は、魑魅魍魎と化してますます掴まえようが無くなってゆくからだ。

 そして。「詩を書きたいがどうしたらいいか」や、「どうやったら良い詩が書けるか」などの、よくある問いへの答も(問われたわけではないが)至るところに散りばめられている。いかに詩が商売にならないかの秘密も、この辺りにあるとワタクシは感じた。


以下、引用
--------------------------

 たとえ詩人が自分の職務にいくら忠実であっても、いくら凝視と習練を積み重ねても、またいくら巧妙な言葉の工人になっても、それでも詩人は霊感というものを自分の力で左右する事はけっしてできません。霊感は何ヶ月か詩人のもとにとどまってくれるかもしれません。しかし何年間も詩人を置き去りにするかもしれません。それがいつやってくるか—それがいつ消えてゆくか詩人にもわかりません。

   —中略—

 詩人は、ちょうど鉱夫が山腹に穴をうがつように自分の心の中を掘り下げて貴重な宝石—詩人の主題とイメージを発見しようとします。鉱夫がいくら技術にすぐれ、勤勉に働いても、山にダイヤモンドがなければそれを発見することはできません。それと同様に、自分の心の中にすでに詩がなければ—つまり、みなさんの想像力が高い熱を発し、たくましい力を発揮して、みなさんの経験をば詩の素材であるところの宝石になるまでに融合するのでなければ、自分の心の中からただ一ぺんの詩も生みだすことはできません。それは地下のダイアモンドを作るのにあるいくつかの化学的条件が必要であるのと同じ事です。みなさんはただ詩を書いてみたいと思うだけで、ほんものの詩はけっして書けるものではありません。ダイヤモンドが掘り出されたなら、ダイヤモンドはより分けられ、順位をつけられ、切られ、そうしてはじめて装飾品として使用することができます。この筋みちにあたるものがちょうど、詩人が彼の想像力の生んだ素材から完成した一へんの詩をつくりだすために行わなければならない仕事にあたります。それにまた、ちょうど宝石作りの手に入るダイヤモンドの質と大きさによって彼の作るブローチのデザインが決まってくるように、詩人の素材の性質、品質が出来上がった詩の地模様を生みだすための大きな力となるのであります。

----------------------


 鉱夫に技術があっても山にダイヤモンドが無ければダメだし、ダイヤモンドが有っても技術と勘のある鉱夫がいなくては埋まったままだし、掘り出してもそのままだとただの原石だし、と、大変ですね。。。。


 それでも、鉱脈を探したり、掘り出したり、原石をカットしたり研磨したり、細工して完成させたりだけなら、難しくないでしょう。つまり研鑽を積めばモノになるでしょう。
 「霊感」が重大な作用をするとなると。
 しかも霊感は、才能ある人でも熟練者でも自分の指揮下に置けないし、それがどこから来るのかは永遠の謎、となると。しかもいつも霊感が傍らにいるわけではまったくない、となると(笑)
 書こうと思って書ける訳ではないのだ。もっと、意識の底の底、水面下で諸力が活動するのだから。

 制御不能の霊感は、不安定過ぎて生活の掛かった仕事には向かない。
 会心の作を求めて死ぬまでああだこうだやらざるを得ないのが、「詩」なのだろう。


 そうしたわけで。効率や、見える結果を求める社会からは、詩人が訳の分からない連中に見えるのは、まぁ、当然かと思います。根本的な価値観が違うのだから。人間の寿命は、たかが知れている。そんな中で結果を出したがるのは、本来無茶な事なのだ。

 「詩を書くって、楽しいですね〜」と言う人がいたら、「楽しくねーよ」とぼそっと本音が出るであろう。楽しいから書く訳では、ぜーんぜん無いであろう。書かざるをえないから書くのであろう。あるいは、書かされているのであろう。内なる何かに。あるいは、あと五千年くらいは正体が解明されないであろう何者かに。

続く 
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by leea_blog | 2005-10-17 21:41 | Comments(3)

詩は何の役に立つのか、など

詩を読む若き人々のために C.D.ルーイス著・深瀬基寛訳
筑摩書房


イギリスの詩人が、青少年の為に書いた本。
「第一章、詩は何の役に立つのだろう」
から始まって、平易な語り口で、詩とはどんなものであるかを展開してみせる。勿論、大人が読んでも面白い。子供しか面白くない本は、すぐ壊れるプラスチックのおもちゃみたいなものだ。

 “詩は何の役に立つのだろう”と思う人たちにもわかりやすく面白く詩を語る文章に、大変感服。“詩一般”を、詩に関心の無い人たちにわかってもらおうとするのは、至難の業だ。得に「詩人」は、自分の詩の世界に潜水し構築するのにほとんどの体力を使い果たしている。
 “詩の事一般”なら、むしろ詩人以外の人の方が純粋に客観的に俯瞰できるはずだ。なぜなら、自分で作品を書いている人には、それが自分を捧げるほどにとてつもない魔力を持つのは自明の事だし、うっかりするといわゆるお手盛りになるからだ。

 そもそも、偏らない詩論の才能は、詩人の才能とは別である。小説家と評論家が別の才能なのと同様に。

 私が“詩は何の役に立つのだろう”と疑念混じりに聞かれれば、どう答えるか。聞いてきた相手によるだろうが、面倒になって「パンとスープがあれば他はいらないという人には、役に立たないかもしれませんね。サラダとワインも必要なら、詩は必要でしょう」とか答えるかも知れない。もっと簡単に、「人はパンのみにて生くるにあらず」とか。

 幻想文学の重要性なら、別だ。
 しかし、文学一般や、さらに詩一般の話となると。つまり、一般論の話になると。必要だと感じていない人たちにまで説明する時間があるなら、自分の書きあぐんでいる作品に向かいたい。
 「ブンガクに興味を持ったら来てくださいね」、とにっこり笑って話を切り上げるのではないか。

 そんなわけで。“詩は何の役に立つのだろう”と、詩に否定的な人々に対して、他の詩人や評論家、研究者諸氏がどのように説明するかは、興味深い。
 平易に語る物はなお興味深い。私が、「来ちゃってるような文章」でかなりすっ飛ばし、しかもあちこちに陥穽とわかりにくい目印を設けた書き方を好むからだ。自分には無い展開は、思わずどれどれ、と覗きに行きたくなるものである。


 詩はイギリスで最も有名な輸出品の一つ、とか、詩人はきわめて損じやすい感度の鋭敏な機械のようなものを頭に入れて持ち歩いているようなもので気が変にならないのがむしろ不思議なくらいだとか、詩を書き続けていくのには非常な根気と辛抱を要するから詩人を甘いと考えるのは馬鹿げているとか、面白く伝えている。


—続く—
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by leea_blog | 2005-10-10 15:23 | Comments(0)

チェンマイの蓮

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by leea_blog | 2005-10-06 23:02 | Comments(0)

バリのテロ、チェンマイの洪水

  北方の薔薇チェンマイ、天人の都バンコクから今朝帰国。

 チェンマイでは、何十年ぶりの洪水で、私の発った翌日には泊まっていたホテルも腰か腿の辺りまで浸水したとのこと。八月に一回、9月半ばに一回、ほとんど無いような洪水があったばかりで、私が到着した夜も、チェンマイは水への警戒を継続中だった。
 水の不吉がしんしんと、湿気の多い闇を満たしていた。

 死傷者の知らせはまだ聞いていない。後で調べる予定だ。堤防が一気に破れるのとは違い、ピン川の水がひたひたと上がってくるらしい。まず最初は、下水溝の蓋の穴から水が溢れてきて、あれよあれよと思う内、15分位で足首まで浸かり、またあれよあれよの内に腿まで、腰まで、胸まで水が上がってくるという。
 津波のように、水に呑まれて一気に押し流される破壊的なものではないようだ。

 
 それどころじゃないかも知れない。10月1日、またバリ島でテロですか。しかも同時多発。

 昨年、バリのウブドゥに滞在した折、2002年の爆弾テロの爪痕の深さを聞いた。観光の島だから、客足が遠のくと経済的な大打撃を蒙る。日本の旅行会社と契約している現地代理店の男性は、当時ノイローゼになり、昨年9月の時点でもまだ安定剤服用中だとのことだった。

 十年以上前。バリ島は穏やかな村社会で、狭い島故に皆顔が割れている。犯罪は本当に少なく、観光客を狙った犯罪も繁華街で余所から来た(具体的にはジャワ島、と言っていたが)連中だ、と、現地の人たちは情け無さそうにこぼしていた。

 昨年の観光業者氏の話も、バリのヒンドゥー教徒は因果応報を信じており、他人を騙したり危害を加えれば自分に戻ってくると考えているが、余所の島のイスラム教徒は悪いことをしても天国に行けると考えている、と嘆いていた。話の底流は、“我々が一体彼らに何をしたというんだ、ひどいじゃないか”というものだった。
 日本人が日常見慣れている、殴られたら殴り返す的な怒りとは別物なのだった。バリの人たちの話は、おおむねそのようなものだった。広くない自分の島がテロに会ったらどんな反応をしがちかを思えば、あくまで嘆きであって激しい憎悪ではないあたりにひたひたと感銘を受けた。


 確かに、テロリストから見れば、バリ島は欧米の観光客で儲けている許し難い奴らであり、“罪のない島民に酷いことをした”という視点は無いだろう。
 外国人が集まる繁華街でテロを行えば世界中に衝撃を与えられる上、バリ島にも長い打撃を与えられる、効果的なテロに違いない。私のように、どこにいたって(日本にいても)テロに合うときは合うのだ、と考える観光客は少ない。

 因果応報、という考えは昔の日本では日常にあった、善良な考え方だ。懐かしくあり、また、一方で殺害も聖戦ならば天国に行けるという考えも、理解は出来るのだ。テロが一方的な理屈であっても、もし我々が彼らの地域に生まれ、彼らと同じ立場なら、そう考えるかも知れない。

 その溝の闇の深さに、暗澹たる思いがした。

 ニューヨークのテロは良い例で、非戦闘員を一時に大量に殺すやり方は酷すぎた。しかし、アメリカはもっと酷いことをやっているではないか、報復されて怒る前にこれまでの考えを改めなされ、と思った人も多いはず。

 受け入れがたい奴を此の世から排除したい、そんな考えは、多かれ少なかれ誰もが持っている。日本で普通に生活している、しかも世俗の争いが大の苦手の私ですら、持っている。仏教でいう此の世の苦しみに愛別離苦、怨憎会苦というものがあるが、憎悪を感じる相手と出会うのは、解脱を願うきっかけになるほどの大変なストレスなのである。解脱は凡人にはなかなか難しいから、嫌な相手を此の世から排除して、個体の存続をはかろうとするのは、動物レベルで自然な感情だ。

 ああ、とってもよく分かる、殺さないまでも嫌な奴をぶちのめす爽快感、しかもこちらが悪くなくて相手が悪い場合は、暴力は天が命じた行為であって、世のため人のためだという、達成感。一命をなげうった英雄的な行為。

 しかし! だからこそ、受け入れがたいから殺すのでは、進歩がないのだ。
 もっと違う方法で、世界中に衝撃を与えられるはず。殴られたら殴り返すのは私のような庶民の日常で充分、世界的なメッセージとしては不適切だ。被害に遭った人たちが報復に出ることに、違和を感じにくい。

 観光客は別にして、バリ島の皆さんの怒りが溜まって“許せん、こっちもやっちまえー”、になったとしたら、激しく悲しい。昨年、バリ島でテロの爪痕を聞いたとき、心を打たれたのは、テロへの怒りや憎悪が、そういう短絡的な種類ではなかったからだ。

 日本は国際平和には、日本独自の貢献をして欲しい。自衛隊を派遣してどうする。

 
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by leea_blog | 2005-10-02 23:53 | Comments(0)