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書物の市場とインターネット

絶版古書の目を剥く値段について。君よ知るや書物の国


 先日アントニオ・タブッキの絶版本、「島とクジラと女」について書き込みしたが。

 無事入手出来た。
 有り難いことだ。
 この件でちょっと考えた。

 活字離れがとやかく言われ、「読む人口より書く人口の方が多い」とかなり前から言われている。インターネットの普及で、確実にアナログ本離れは進んでいると思う。
 家ではネットやゲーム、電車の中では携帯に向かうなら、いつアナログ本を読むのか? あー、そこの君。「本なんか読んでる時間無いよ」と言う前に、パソコンを立ち上げない日を作りなさい。電車の中では携帯の電源切りなさい。 

 しかし、ネットのお陰で強固なアナログ書物マニアの健在振りも浮き彫りになった。
 体力勝負で古本屋をハシゴしなくても、検索したり、欲しい本を登録しておいて誰かが出品したらメールで知らせてくれるような、便利なシステムも増えた。
 古書店がどれくらい商売になるのか私は知らないが、ネットで手持ちの本を公開する事によって、潜在的な客が大量に浮上したのではないかと推測する。
 つまり、漠然と欲しい本が有っても、本屋をうろつく程ではない人々が、単語検索で簡単にたどり着けるのである。

 君は知っているか? アナログ界における古書市の修羅場を。
 大変恐ろしい世界である。神田の古本市のような大規模な物は言うまでもなく、古書会館で毎週行われていたミニ古書市に至るまで、百人一首大会の如しであった。

 これと思った本は、ためらおうものなら横からぐいと手が伸びて、一瞬の内に他人の手に落ちるのである。
 のんびり「どんな本があるのかなぁ」などと背表紙を一つ一つ読んでいるようでは、敗者必定である。

 並ぶ背表紙を一瞥して、瞬時にどれが好みの本かを察知しなければならない。出来ないなら、邪魔だからそんなとこに立ってないでどいてよ、素人は後でゆっくり見なさい! 
 ああ? お前も欲しいのかい? 題は短いんだから、一々読むんじゃないよ! ぱっと見ただけで全文を把握するんだよ! わかってんのか、この馬鹿犬め! (効果音;鞭)

 と、上記は誰も口に出す訳ではないが、そんな感じにもう、アナログ界の古書市は、世間が思い描くような、物静かで思慮に富んだ読書家の世界では無いのである。

 例えば、神田の古書会館で行われた古書市にはよく行ったが、まず入り口で荷物を預ける(盗難予防で鞄は持ち込めないのだ)。身軽になって会場へ。雌豹の目つきで書架に歩み寄れば、羽織袴のおっさんが古書を抱えて肩で体当たりして私をどけようとする。こら、オヤジ、どいて欲しければ「失礼します」の一言くらい言えぬのか! と、思う間に反対からポロシャツの30代がやはり無言で太い腕を突き出す。私もそうだが、並ぶ本、積み上げられた本に集中しているのでぶつかっても「済みません」の一言も無いのだ。当時若かったワタクシは細身の体躯を活かしてしなやかに、ごつい連中が重い本を抱えてうろうろする隙間を縫いつつ狩猟にいそしんだ。


 古書市で生き残るには、普段から気になるタイトルや作者は隈無くチェック。出品している本屋の得意分野や出品の傾向も、一瞥で見極めよ。さらに。その書店が得意としない分野の中に、自分の好みの本が安値で混ざっていたりするのも知っておこう。政治経済分野の本が高値で並ぶ中、文芸書が「その他雑品」扱いでやる気なさそうな価格で出されていたりもする。相手もプロだから破格の安値は無いにしても、マニアの足元を見た高値では無い。
 自分の見たことも聞いたことも無い本に出会っても、タイトルのセンスを見て好みの内容や文体かどうかをかぎ分ける力も、自然に付く。

 まあ、何よりも、「自分が何に餓えているか」の核の部分を知ることが肝要である。それを知らないなら、磁石も知識も無しに密林に分け入ったも同然である。 



 アントニオ・タブッキの絶版本に戻れば。
 ちなみに日本の古本屋で検索したら、こちらでは尋常な価格で売っていた。つまり、元値の4倍以上、といった暴挙は無かったのである。一方、楽天フリマでは、私の買った1000円は最安値で、八千円近い値で出品している古書店もあった。

 値の差は初版かどうかで変わるとはいえ、初版に全くこだわらない読者には安いに越したことはない。
 いや、私は安くないと腹が立つのだ。知識欲の足元を見まくったやり口が許せないのだ。いらないから売却するんだろ? 本好きなら地球に優しい値段で出品しろって。こんな高値で出すなんて良心のかけらもない、知識の敵め。

 少なくとも、元値の倍以上という値段になっていれば、強烈に理不尽を感じて買うのを諦めてしまう。(でもね、忘れるのではなく、ほとぼりがさめて相場が下がらないかとか、出版社が新装版や文庫版で通常市場に出さないか、とかを待っているんです。他の餌を食べて飢えをしのぎながらね)

 そんなワタクシが、やってしまいました、マニアの足元を見た売却を。ごめんなさい。アマゾンで、絶版本を元値以上で売却しました。タブッキの「フェルナンド・ペソア最後の三日間」が欲しかったのよ。出費が続いて、資金が必要だったのです、マニアの皆様、許してね。それでも出品者の中ではワタクシが最安値出品だったんだから。


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 余談。知人が、私に勧められて買ったJ.キャンベルの本(新品)が三千円だったので、値段に驚いたと言っていた。分厚くてハードカバーだし、三千円は普及版ならではの安さでしょ。マニアックな本だと、文庫本でも千五百円位するし。むしろ安くないか????? 
 価値観の違いに、脳裏に衝撃、久々のカルチュアーショックだった。

 後で考えてみれば、相場が安いか高いかの話ではなく、書物一冊に三千円払う習慣が無かったということだろう。書物は保存が利くし、読み返しも出来る。内容が良ければ、他の出費を抑えてでも予算を回すのがお薦めである。


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by leea_blog | 2005-12-29 01:48 | Comments(0)

父と子と精霊のみ名において

メリークリスマス。

 キリスト教徒でも何でもないのに、凍てつく夜をイルミネーションで飾り立てる日本の12月。冬至を過ぎて、思った。日々寒さがつのり、暗くなって行く冬の力に抵抗するため、師走の慌ただしい熱気にクリスマスのきらきらしさを加えたのだ、と。
 これが終わる頃には、一日の長さは昼が優勢になってゆく。

 加護ユリ氏から揺蘭原稿と共にクリスマスカードが届いた。
 キリスト教徒じゃなくても、嬉しいです。

 一日、硝子を張ったような晴天で、富士山が青くくっきりと見えた。夕暮れ時はまた富士山が、薄水色と薄紅色、淡い黄色の混じった空を背に、黒いレースの影と化した木々を手前にして、切り取ったように美しかった。富士山を見たのは何年ぶりだろう。
 富士山こそは、手垢の付きまくったイメージで「だから何?」の最たる物だが、関東平野に育った私には、普段は山など見えないのに、晴れて空気の綺麗な日の朝夕限定で特徴の有る姿を見せるあの山は、霊峰と言うより自己主張しない静かで上品なお姉さんみたいなものだ。
 吉野熊野の山々のように、素の状態に強く働きかけるおどろおどろしいまでの力は無いが、霊峰富士は、下界の思惑など「別にそんなのどうだって良いじゃない」と醒めた様子で物思いに耽るそっけなさが良いのかも知れない。

 私がクリスマスに特に思い入れがない事は過去のゆりうたにもある通りだが、弟もそうだった。

 昨日、弟の妻から電話があり、うちの母の見舞いに私を誘ってくれたのだ。
 「え、でも。明日はイブでしょ?」
 小さい子供のいる家は、イブはクリスマスケーキを囲んで過ごしたいのだと思っていたので聞き返した。弟にとっても、クリスマスイブは特に意味のある日ではなく、ただの三連休らしいと知った。どこかに遊びに行ってるのだ。勿論嫁さんは、夫にはクリスマスを家族と過ごして欲しいのだった。
 嫁さんが呟く。「誰と会ってるんでしょうねぇ。。。。。。」
 世間が期待するように、別の女性とイブを過ごすようなタイプではないが。弟よ、既婚者ならこういうイベントくらい、家族に合わせるのもつとめの内ですよ。

 で、りりえん姉さんは弟の嫁さんと姪と甥とで、しゃぶしゃぶを食べに行った。
 楽しかったし美味しかった。嫁さん、ありがとう。で、悪ガキ系の甥もクリスマスのせいかサービス全開で、私の髪を何度もアレンジしつつ「きれい〜」を連発してくれた。大人の男性に綺麗と言われても時候の挨拶みたいなものだが、未成年に言われると嬉しいですね。

 甥と姪の、四六時中じゃれ合わなくてはいられない様は、「トゥー ブラザーズ」というアンコールワットの虎の子兄弟の映画を思い出した。ちっちゃい、二匹の「けもの」(笑)

 しかし姪はこの11月に8歳になっていた。
 あ、8歳。8歳で思い出すものは、安徳天皇。ふーん、と姪を頭から足元まで眺め、無邪気な笑顔をチェックしつつ私が考えていたのは「やまたのおろちが8歳の幼帝となって遠い昔に奪われた剣を取り返した」話。
 思い返せば、りり山13歳の頃。
 13歳といえば源頼朝が平治の乱に参戦した歳。それに引き替え私は納得行く事を何も出来ていない、と暗澹とした気分で末の弟にきいた。「あんた、何歳?」「8歳」。
 その時も、8歳か、安徳帝が平家の一門と海上に逃れて源氏と戦を繰り返していた年齢だ、と安徳帝をイメージしやすいように8歳の子供の体格や発育具合、立ち居振る舞いを参考資料の一つとして、眺め回したのだった。進歩が無い。この分では、百花や雅人に子供が出来て、子供の歳を聞いたら8歳だった→安徳帝が剣と共にどうのこうのの年齢だ、と眺める、をまたやるだろう。

 現代の8歳を観察して平安末期の8歳を思い描けるかというと。私が13歳の頃も、今も、無理なのだった。決定的な何かが欠けているのだ。
 食事が違う、成人と見なされる年齢が違う、風習が違う、生活環境が違う、教育も違う。

 産まれたときから帝位に就く予定の者としてかしずかれた8歳が、現代の8歳と似ている事はない。海の覇権貴族としての平家一門が、やまたのおろちの体内から奪われた宝剣とともに水底の都に還っていくためには、8歳の大人びた帝の、権力と言うよりは霊的王権に導かれる必要があった。
 入水の際に、宝剣をたばさんだ二位の尼(清盛の妻、時子)が安徳帝を抱いていたというのも象徴的ではないか。男性権力者ではなく、一門の中の女性の権力者なのである。安徳帝の母、建礼門院(清盛の娘)であっても良かったが、二位の尼だと年齢と共に呪術的力の足場が固まった女性ゆえに、文句無し。

 ああ、クリスマスと全然関係ない話になった。

 では精霊の加護のあらんことを!


 
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by leea_blog | 2005-12-24 23:57 | Comments(0)

わらわにさけを飲ませるな

わらわにさけを飲ませるな

ああ、プリンタを買うどころか、12月は清めの酒が続く。

 元々歌って踊って酒を飲んで夜を明かす事は人生の必須事項と考えている。
 そんな私が美味しい物を食べて良い気分になって、カラオケに行けば、神々と精霊に対し享楽の感謝を捧げ、此の世の真理を舞踏と歌舞音曲を通して考察する行為に駆り立てられるのは当然である。

職場の方々と飲みに行くと面白いは面白いが、
「マハーマントラ歌います」とか、「ディオニュソスに捧げる歌行きます」とかのノリが出来ないのが辛い。そんなのカラオケに無いしね。大体、職場のカラオケは、コミュニケーションであって、表現者の交流とは趣旨が違うんですけれど。とは言っても、プリンタ買わなくちゃ、という此の世の約束事に頭を支配されている所に飲み&カラオケにいきなり行けば、本音バーションが炸裂し掛かるでしょ。


 基本的には、自作の歌即興バージョンが主流のワタクシで、カラオケに有る歌だと、知ってる歌は、せいぜいモスラの歌、メジャーな所でも妖怪大作戦位で。。。。
  開放的に行くとすれば、自作でしょう、やっぱり。


千年の 黎明に、ァ 輝き渡る ァ  精霊の
波打ち際に a 、 打ち寄せられるゥ 幻惑の!  ha!
寄せては返す 夢魔の歌  ha ! ! !
lu〜lalala a! ! ! a!
翼を広げて いかづちの! ha!
と、即興で。

 酒が回って人心地付くと、理性と獣性がともに覚醒して、「天津まが夢妖霊草紙、行きます」と、自作の詩に曲を付けて歌ったりする。

“七千の稲妻ひらめく夜にぃ、
   黄金の夢がお前をつかむ、
七千の呪文たちのぼる時、
   つるぎをかざした精霊の愛

      精霊たちはお前を愛すぅる
         凶夢の翼を広げて飛び立て
              幾万の闇が散り果てる夜にぃい
           三日月かざして荒れ地を駆けよ”


 ああ、ちょっと仕事の場所はそういうノリじゃないんだよなぁ。おまけに、こんな時に酒で良い気分になって帰宅すると、シャワーを浴びながら、
「エルベレス、ギルソニエル!」とかエルフ語で歌うし。大昔の知人が作った歌、「天の両目のう〜え、離しかけた次〜の、知らぬが知らせ 白い、誓いぃぃ〜」と、謎の歌を歌って、ドライヤー掛けながら、自作に戻って世界三大宗教の歌を即興で作るし。ご近所はどう思っているのだろうか。

 師走は、奇怪な月である。新しい年を迎えるために、人々が多少羽目を外しても、大目に見られる。災いが降誕祭のイルミネーションにかき消される月なのである。
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by leea_blog | 2005-12-07 23:32 | Comments(0)

ポーの大鴉とドレの挿し絵

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 賃貸住宅の更新料を稼ぐため、ネットで身の回り品を売却中である。

 金銭面で余裕のない時期に、マイナスイオンドライヤーを紛失してしまった。持参で露天風呂に出かけ、置き忘れたのだ。後で電話したが、発見されず。。。。髪が傷みやすいから、普通のドライヤーじゃ駄目なのよね。マイナスイオンドライヤーじゃないと。。。。。

 仕方なく、買いに出かけた。最新のマイナスイオンドライヤーは家電量販店でも一万円以上する。家電品にこだわりのない私としては、ドライヤーに一万払うなら、鹿とか猪とか、鶉とか、野山の獣を食べて体力付けたい。狩りをしたいわけじゃなくて、野獣の肉を料理したのを食べたいという意味だ。

 ともあれ、買いに出た。うっかり、本屋に寄った。フェルナンド・ペソアの詩集が有るかチェックしたかったのだが、予定外の物を買ってしまった。エドガー・アラン・ポーの大鴉。日夏耿之介訳、挿画ギュターヴ・ドレ。沖積舎、2,100円。

ドレの挿し絵は素晴らしいが、飽きが来るたぐいの、つまり水で薄めた大仰さというと申し分けなさすぎるが、居酒屋の酒みたいなもので、味わい返す陶酔が無い。しかし大鴉の挿し絵群は、金を払うに値した。

 それを皮切りに、あっと言う間に、マイナスイオンドライヤーを買う予算が書物に消えた。

 帰りしなに考えた。ネットで身の回り品を売り払っても、こんな消費状況では焼け石に水。いや、赤字ではないか。


 赤字がどうのと。本当は真剣に考えて無いのだ。本だの絵の具に関しては。家計の中で、別枠なの。削減不能なの。金で換算すべき物ではないの。
 そんなことも言っていられないので経済を真面目に考えようと、こうして書き込むことで、自分に言い聞かせているのだ。

 言い聞かせます。
「いい加減にしてよ。冬なのにドライヤー無しでどうするのよ。風邪引くし、湿った髪のままじゃ、キューティクルが開いているから髪が傷むでしょ。それにね、マイナスイオンドライヤーの前に、プリンタ買わなくちゃでしょう、あなた。髪は自然乾燥できても、プリンタは代品が無いでしょ。稼ぎが少ないくせにどうして金使い荒いの?、このろくでなし! 出て行ってよ、この馬鹿っ!」
これくらいで良いだろうか? 
いやいや。ろくでなしな私は負けていない。即座に反論する。
「ドライヤーだのプリンタだのと比べるんじゃねーよ、馬鹿女め。比べる物じゃねーんだよ。そう言うお前は煙草は吸うし、ワインは飲むし、野菜は国産有機野菜限定だし、倹約しやがれ。生活臭いセリフ吐いても、所詮お姫様な性根は親譲り、家計簿なんざ三日で挫折してんじゃねーか。おまけに絹や宝石には目がないと来る。お前がマッサージに掛けてる金を俺の文化活動に回しやがれ」

自分に自分で言ってる分には笑って済む内容だが、他人に言われた日には血の雨必至である。
ここで娘としての自分に仲裁に入ってもらおう。

「喧嘩はやめて。お父さんは30分で一万使ったけど、本当は三万使う所を我慢したんだし、賭け事やらないんだからこれ位いいじゃない? お母さんも、絹や宝石は凄く高い物を買っている訳じゃなし、マッサージも医療費の内よね。私の学費を忘れないでくれるなら、喧嘩する程でも無いわよぉ。学費って、旅行費の事だけど。実地に見聞を広めてるから、娯楽とは違うの。判っているわよね? 旅は遊びじゃないの、必須科目なの。最近砂漠に行く予算が無くて悲しいわ。ねぇ、50万程あれば年末年始にマラケシュ行くんだけど。ねぇ、お願いよぉ」
父、母 「砂漠は止めてバリ島にしなさい。年末年始は止めてオフシーズンに限定です!」
ああ。私は削れない経費が多すぎるのだ。


「大鴉」に戻る。
Gustave Dore、the ravenで検索すれば、ポーの原詩もドレのイラスト群も総てみられる。良いのだろうか。

以下、参考までに、イラストがみられるURL。

英語
http://www.the-stylus.com/base/raven/ravendore.html
ロシア語
http://www.bibliadore.com/il/jpg/raven/dore_raven1.shtml


 ポーの「大鴉」の挿し絵であるが、詩の内容とは全く別に鑑賞できる。
 夜の濃密な闇にひしめく妖しの者たち、扉の隙間からこちらをうかがう、恐ろしくも愛しいその姿。
 扉を開ける前から、書き物をするような奴の室内には、妖しの者が居る。ポーに限った事ではない。
 本を手に眠る主人公を机からのぞき込む少女は、此の世の者ではない。
 ついにはのぞき込むのみではなく、椅子で宙を見る主人公にひたと寄り添うかさ高な衣、質量を持つ肉体。死せる恋人の姿を借りる妖異の者である。死せる恋人はここには居ないのだ。それ故の懊悩に乗じて妖異らは暖かい体温持つ人間の姿を取って寄り添い、囁く。
 天上の者でも冥府の者でもない、地上を彷徨う妖異らで、幻視者の懊悩に引かれてやってくる者たちである。それらは神々や精霊らと違い、妙に懐かしく親しげで、幻視者と快楽を分かちたがる。

 ↑
 一連のイラストは、堂々と人に薦めるには抵抗がある。
 こうした作品を書く作家の状態を、あからさまに連作イラストにして見せているからである。
 英語版URLは、あえて詩は入れずイラストのみを並べた物を撰んだ。イラストのみを見たときに、ポーの詩から独立した絵物語として見られるのが判りやすいからだ。

 ポーの詩、「大鴉」を合わせて読むのは必須である(日夏耿之介訳である必要は無い)。登場人物は書き手の詩人と不吉な大鴉のみだ。闇にひしめき、詩人を訪れる、愛しい妖異らは出てこない。

 詩人がおのれの作品を高尚に見て欲しいと願った所で、街の女達よりも深い悦楽を与える妖異らの、親密でなま暖かい口づけを夜中受けた事を、連作で図解されているのである。
 こうした悪習に身に覚えのある作者達は、ドレというイラストレーターの密かな逆襲に、密かに赤面するのである。
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by leea_blog | 2005-12-04 00:02 | Comments(0)