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「あらしのよるに」の動物フェチ度

「あらしのよるに」という絵本シリーズがあるんです。

嵐の夜、雨宿りの闇の中で狼と山羊が出会ってしまった。互いの正体を知らずに。そして、友達になってしまった、、、、。というお話なんです。
きむらこういち(文)、あべ弘士(絵)、講談社。
表紙の絵でノックアウトされて以来、気になって仕方がないシリーズです。

あべ弘士氏は例の北海道の旭山動物園で25年飼育係をしていた人なんですね。動物への愛情とか愛着が滲み出ているだけではなく、長い時間を動物と共に過ごして日々動物の事で頭が一杯だった人のイラストだから、動物フェチの心をたやすく射抜いてしまうんですね。



 で、雑事で奔走中のわたくしは、例によって例の如く、忙しい時ほど気分転換と称して行方不明になるわけです。無害な気分転換場所に近所のシネコンが選ばれました。SAYURIの映像美には言及しなくても、映画版「あらしのよるに」は、ここに書かずに居られない。

 原作ファンの私としては、変に可愛い絵のアニメ版にはそれ程食指は動かなかったのですが、いざ見てみれば、泣いた泣いた。制作者側が泣かせようと思っている場面で泣くのは、居心地が悪いというか、きまり悪いですね。どっぷり浸って泣けるならともかく、浸りきってる訳でもないのです。泣いてる自分に納得行かない感じがあります。
 映画館は暗いといっても隣の人の容姿はわかるくらいの薄暗さ。両隣の観客が泣いていないのが分かるのに、ワタクシは何度もこっそり涙を拭う、その状況のばかばかしさ。顔に手をやる動作は目立つので、しまいには一々涙拭うのはやめました。上映が終わったらまとめてさっと拭えばいいもんね。その日は薄化粧だから化粧室に行ってパウダーはたけば、すぐごまかせるもんね。頬に涙が流れるままで、唇が涙でしょっぱい味になる、あの馬鹿馬鹿しく居心地の悪い時間のお陰で、ラストシーンはあまり覚えていないです。上映が終わったら他の客が座っている内に席を立って化粧室に直行。映画館でこんなに泣けたのは初めて。原作は色々な点でツボなんです。
 原作の絵みたいなアニメだったら号泣したかもしれない(汗) あのアニメ版は、ヤギというより体型がカピパラやマーラだし、顔もヤギには見えないでしょう。

 面白かったかと言えば、個人的には面白かった! でも、原作ファン以外の人がいきなり見て面白いかというと、わからない。絵本は行間で様々な思いを膨らませる作用があるけれど、アニメだと思いを膨らませている余裕無くストーリーが進むから、「教科書みたいな話で、しかも子供向けだな」としか思われないかも知れない。小さい子供向けとしては、完璧にお薦め。ついでに親も楽しめる。


本の方に話を戻すと。
アマゾンから出版社の内容紹介(つまり宣伝文ですが)を、以下引用

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児童書では大人気のこの作品、今度は大人が夢中になる番です。
あらしのよるに---奇妙な友情はなぜ生まれたか?
あるはれたひに--友情は食欲に勝てるか?
くものきれまに---秘密の友達って、いろいろ大変。
きりのなかで---仲間か? 友達か? それが問題だ。
どしゃぶりのひに---生きるためには、裏切りも必要なのか?
ふぶきのあした---この友情は、誰にも止められない。

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はいはい。夢中になりましたとも。
上記六冊は箱入りセットが出ています。本来は「ふぶきのあした」でシリーズは完結だったようです。

しかし大人気のため特別編「しろいやみのはてで」が、シリーズ10周年記念で2004年に刊行(私はこれの表紙でやられちゃいました)。
続編の「まんげつのよるに」は、2005年の11月に刊行されたばかり。もしかしたら今後も続刊があるのかも。



10年以上のロングセラーか。。。。
続巻を待つ立場を想像すると、実に恐ろしいことだ。本来の完結編「ふぶきのあした」で終わっていたら、トラウマ物だっただろう。

ちなみにアマゾンからふぶきのあしたの出版社レビュー引用。↓
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仲間たちの目の前で、ともに川の中に姿を消したヤギのメイとオオカミのガブ。うらぎり者として追われることになった二ひきの、禁断の友情の結末はどうなる? シリーズ完結編。
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第一部刊行時からの読者が「ようやく完結編が出たか。長かったな。どうなるんだろう」と楽しみに読んだとしたら、あまりといえばあまりな結末なのだ。
わあわあ泣いて「こんなの嫌だ!」と叫んでしまいそうなラストである(汗)
どっちかというと、子供より大人の方が理不尽さに打ちのめされそうな話だ。
せめて“衝撃の結末”等あおり文句が入っていれば、ハッピーエンドじゃ無いかも、と予測して読むのだが。

 私は幸いにして、最近の読者である。三冊目まで読んで中断し、残りはかなり後、「まんげつのよるに」 が出てからまとめて読んだ。第六部の後にも続編があると知っている。「ふぶきのあした」刊行時にすぐ買いに走っていたら、読んだのを後悔しただろう。
 シリーズの最初の方は食べられる立場のヤギと食べる立場のオオカミの可笑しいやり取りの、かわいげのある話だ。そのつもりで読んでいるうちに、後半は様子が違ってくる。ほのぼのさの薄膜の下に深刻が口を開けた話なのだ。

(ちなみに映画版では、冒頭に子供の頃のメイがお母さんと一緒に草を食べている所を狼たちに襲われ、お母さんはメイを逃がすため立ち向かって食べられてしまうシーンがある。「平和でのどかなお話じゃないんですよ〜」と、提示してあるのだ)


 素朴で気のいいヤギとオオカミが友情ひとつをこっそり守りたかっただけなのだ。なのに周囲も自分も傷ついて、ずっと一緒だった群を追われ住み慣れた土地を離れる。二匹一緒に暮らせる土地を探しての逃亡の果てに、雪山で命を失う、悪夢のようなお話なのだ。オオカミが結局ヤギを食べるとか、共に行き倒れるラストでもやりきれないが、ここに書かれた結末はもっとひどかった。人生の理不尽さを濃縮して突きつけられた感じ、というべきか。

えーと、具体的に書きたいのだが、これから読む予定の人がいたらアレである。

頭から離れなくなって結局読むきっかけになった表紙絵は以下
中身がどんな話でもいいです、この絵だけの為でも買います、と思った。


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by leea_blog | 2006-01-21 23:40 | Comments(0)

数値に換算不能な時間が重要

新年早々、愚痴も悲しいが。

時間が足りない。
年末の大掃除もしていない有様。(これからやる!)

おかしいなぁ。
何でこんなに時間が足りない感覚が強いのだろう。

新聞やテレビを見る時間を省略しているし、散歩の時間も省略しているし、本を読むのも出来るだけ何かをやりながらにしている。

一つ。会社員やりながら家事もしてるから。
二つ。会社員で生活費を稼ぎながら、作品に向かってるから。
三つ。大人になると、日常の雑事が多いから。

一番の問題は、二番目かな。会社員をやれば、通勤時間を含めて一日の大半が消し飛ぶ。

会社員が趣味で創作をやるなら、問題がないだろう。表現に専念したいからお金のことを考えなくて良いように会社員を選んだ人は、当たり前だが、時間の足り無さが深刻な問題となる。ぶつ切りの時間があっても、それでは大して意味がないのだ。

表現関係でなくとも、やたら時間の足りない人種は多い。で、そういうタイプに「お暇があったら一緒にご飯食べに行こう!」と誘うのは愚である。暇など永遠に無いのだから、来世で逢いましょう!みたいな話になる。
で、同じ事を言うにも、現実的に行くといい。「気分転換にご飯食べに行きませんか?」とか、「滋養が付いてリフレッシュできるお店があるんだけど、どう?」 こんな感じに。多忙な人は気分転換が好きだ。気分転換で効率がアップすることを知っているからだ。


 辻邦生の「薔薇の沈黙 リルケ論の試み」を引用する。


《それはリルケが若い詩人カプスに与えた言葉の中にはっきり示されている。
 そこでは、時間は測定の役には立たないのです。一年でも測れません。十年でも駄目です。芸術家であるとは、計算したり、数えたりすることではありません。樹木のように成熟することです。春の嵐のなかで、夏は来ないのではないかと不安がらずに、急がず落ち着いて、樹液を送っている樹々のように。しかし夏は来るのです。夏は(......)忍耐強い者のところに来るのです。

 これは当時何よりも私を励ました言葉だった。しかし「忍耐し待つ」ことは、樹木のそれのように、見えないところで、果てしなく働くことであった。それは瞬時も休むことなく仕事をすることだった。リルケはそのことをロダンのもとで学んだ。ロダンは人も知るようにBonjourとともにAvez-vous bien travaileとかならず言った。仕事をする——それはロダンの存在の仕方であり、同時にリルケの生き方だった。
 もちろんリルケはロダンのようにたえず目に見える形では仕事をしたわけではない。彼の場合には、仕事をするとは、夢想することであり、手紙を書くことであり、公園を散歩することであり、旅することであり、図書館で読書に沈潜することであった。
 そこには、いわゆる知見を広め、情報を集めるということは一切なかった。あるのは樹木が成長するような形での成熟であり、変容であった。リルケにとって、ただ知っていることは、それだけでは何の意味も持たなかった。それが人間の魂に働きかけ、いつかその人を変容させ、その人の思考、行為、経験から、自然とそれが滲み出るようになって、はじめてそれはその人のものとなる。知識の量を誇ったり、きらびやかな概念語で〈理解〉を展開しても、すくなくとも芸術創造に関しては何ら積極的意味を持たない。芸術家にとって必要なのは、作品を生みだすことであり、それを可能にする創造母体を成熟させることのみである。そしてそれは沈黙のなかでしか行われない。》

リルケだけではなく、詩人は基本的にこんな感じだ。
端からは、ひたすら非効率で非生産的な生き物に見えるに違いない。
しかも、本人にとっては、一見ぼうっとしている時間も真剣勝負なのだから始末が悪い。

価値の基準や優先順位が、世間の約束事と違っているのである。
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by leea_blog | 2006-01-07 20:32 | Comments(0)

謹賀新年〜

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by leea_blog | 2006-01-01 00:14 | Comments(0)