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接続不能とひそやかなインターネットカフェ

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↑ 伊豆山中【滝の水】撮影/りーあ

先週、いきなりネットに接続できなくなった。青ざめた。大変な日々だった。

普段はパソコンは持ち腐れ状態で、アナログ脳宣言をしているワタクシだが。
気づかぬ内にパソコンが無いと困る生活になっていたのを知った。

 まず、金融機関の残高照会、各種振り込み、カードの請求金額予測チェックができない。ニュース、天気予報や電車乗り換えなどの日常的なチェックができない。調べ物が一切出来ない。例えば、ネット接続出来ないのでプロバイダに電話しようとしても、プロバイダの電話番号はいつもネットで調べていたため、わからないのだ。
 夕食を作るにもレシピはネット検索だし。

 上記だけならまだ良かった。折悪しく、ネットオークションには問い合わせの多そうな商品を出品していたのだ。アマゾンにも売れそうな本を安値で出品しているし。
 落札されたら大変だ。出品者の大変な状況を知らない落札者様が怒って出品者の評価を「大変悪い」にしたら、これまで積み重ねた良い評価が水の泡ではないか。

 エンジニアな知り合いに緊急電話を掛け、プロバイダの電話番号を調べてもらい、問い合わせた。すぐには復旧しないことが判明した。

 ああー、どうしてくれるのだ。こら、ナメてるのか、プロバイダ。ネットで何でも出来るようにして、私のようなアナログ人間までどっぷりネット依存にしておいて、すぐに通信を回復させられないなんて。モデムくらい土日も発送してよ。役所か、キミたちは。いや役所以下だ。官公庁ですら近頃は土曜対応の所が増えているのだ。ワタクシが「土日は発送してくれないなら、待てないから取りに行く」って言っているんだから、取りに行っても良いじゃないのよ〜。

 強烈に憮然として、「私は平日は仕事なので土日に集中してネットを使う用がある。週末にメールチェックが出来ないと大変困る。何か方法は無いか」と聞いたところ。あっさりあった。プロバイダのホームページからログインし、ウェブメールという方法で、メールの閲覧や送信ができるのだという!!!!!!!

 それだけ便利な物を今まで知らなかったワタクシもワタクシだが。IDとパスワードが有れば、世界中のどこのネットカフェでもメールチェックやメール送信が可能なのだった。
 ほぉ〜。すごいですね。とはいえ、自宅や職場を離れた時までパソコン画面に向き合いたく無いけどね。
 いや。「無い」ではなく「無かった」とすべきである。。。。。。

 そんなわけで、ネットカフェに入り浸る日が続いていた。
 ああ。差し迫った事務作業でなければ、良い気分転換になるはずだった。
 高めのネカフェだった為、お洒落で清潔、居心地も良い空間だったのだ。

 黒いフローリングの、照明を押さえた広々とした空間で、手前にオープン席、奥に個室が並んでいる。スリッパ、毛布、インターホンなどが無料貸し出し、各種ソフトドリンクが自由に飲めて、ゲルマニウム温浴やタイマッサージ(この二つは別料金)、ダーツやビリヤードのスペースもある。もちろん男女別シャワールームやフードサービスもあるから、終電を逃した人は始発までの何時間かを、ホテルより有益に過ごせるかも知れない。

 ワタクシはマッサージチェア付き個室を取って作業していたが、パソコンとテレビがあるので、ヒーリングビデオなどぼーっと見ながらマッサージし、考え事にふけることも可能だ。喫煙フロアと禁煙フロアがホールを隔てて別れているため、煙草が苦手な人も安心して長時間滞在できる。

 マンガにもインターネットにも関心無い人でも大丈夫。おびただしい各種雑誌、新聞、売れ筋絵本も置いてあるから、読む物が無くて困ると言うことは無い。個室も充実しており、マッサージチェア付き以外には、座敷形式や書き物が可能な机付き、ペアシート、Mac用もある。

 原稿作成にも使えそうだ。

 インターネットカフェにはほとんど縁がなかったワタクシだが、ちょっと感心してしまったのであった。

これがもっと進化すると、テーマパークタイプも出てきそうだ。
 メイド&執事インターネットカフェとかも出てきそう。疲れたOLが報告書作成で立ち寄ると、執事の恰好をした店員が「お嬢様、お帰りなさいませ。マッサージになさいますか。お食事になさいますか。それともお仕事をお片づけになりますか」とやるのだ。
 疲れたりり山用には、海際の別荘風の個室で鹿の首に腕を回し、膝に兎をのせながらパソコンに向かえるタイプをお願いしたい。
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by leea_blog | 2006-11-29 23:12 | Comments(0)

旅人の時間が日常に流れ込む—「アルケミスト」—パウロ・コエーリョ


積んであった本の中から、旅人作家の作品を読んだ。
 童話風の長くない話で、かなり面白かった。旅人脳の作品だ。

 羊飼いの少年が夢に見たことを信じて、長年一緒に過ごした羊たちを売り払い、別の大陸に渡り、言葉も通じない国でいきなり騙されて全財産を失い、人生をやり直す金どころか今夜のパン代も無い、と、絶対嫌だけれど一番ありがちな災難に遭遇する。全財産を売り払って宝物を見つけに行くだけでも大抵の人はやらない。リスクが大きすぎるからだ。更に、言葉も風習もわからない場所へ行けばこんな危険が沢山、という典型的な目に合って、こころざし半ばどころか一日もたたない内に一文無し。「あいつは馬鹿だ」のお手本のようではありませんか。
 しかし、今までの人生がすべて否定されたかの時にどうするか、どう考えるかで、その先が変わってくる。主人公は素朴で癖のない性格で、幅広い読者が感情移入しやすく、平易で起伏に富んだ物語展開なので、誰が読んでも面白い(多分)。
 複雑な思考で快楽を得るタイプの読書マニアにも面白いはずだ。詩の湧き出るところとかなり近い場所から生まれてくる視線で書かれている。
 特筆すべきは、旅人モードの頭が紡ぐ物語、という点だ。
 少し引用してみよう。
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「少年は、直感とは、魂が急に宇宙の生命の流れに侵入することだと理解し始めた。そこでは、すべての人の歴史がつながっていて、すべてのことがわかってしまう。そこにすべてが書かれているからだ。」( 『アルケミスト』 パウロ・コエーリョ 山川絋矢+山川亜希子訳)

「二人はそこに立って月を見ていた。「あれは前兆の魔法だ」と少年が言った。「案内人がどうやって砂漠のサインを読むのか見ていました。そして、どうやってキャラバンの魂が砂漠の魂に語りかけているのかも、観察したのです」(同上)

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旅のさなかの感触が、とてもよく伝わる。旅の時間では、文字を紡ぐ脳が定住時のようには働かない。家の中、部屋の中での作業とは脳の目覚めている部分が異なるのだ。
 単語や精緻な概念がぽろぽろとこぼれてゆくのだ。そして、別のものが目を覚ます。

 パッケージツアーでは、その感覚は目を覚まさない。飛行機も宿も、用意されている。 パッケージツアーは言葉の通じない場所で、土地の人々の眼差しや仕草、気配や風や大気中の水分や、植物層動物相、気温の変化、その他から、一々何かを読みとる必要は無いからだ。必要が有れば、それは目を覚ます。助手席でまどろんでいたものが、運転交代の為に身を乗り出し、「意味の通じる言語を駆使する運転者」を脇に押しやって運転席に座るように。

 主人公の少年の、羊を追って移動し、言葉の通じない港町のカフェでお茶を飲み、駱駝の背に揺られ、といった時間が、物語の文字から立ちのぼる。作者の、旅人モードの頭がつむぐ文字の流れは、あきらかに書斎で目覚めている脳が紡ぐものとは異なる。

 宇宙の言葉、宇宙の生命、前兆の魔法、などは、定住しているマンションの一室で聞いたなら「この人大麻でもやっているのでは?」と心配になる類の言葉かも知れない。
 しかし、旅の時間、旅の中で目を覚ます脳にとって、それらは誇大な妄想でもファンタジーでもない。旅人同士のやり取りでは、こうした言いまわしは、重要なことを伝える表現となる。

 非・旅人にももちろんお薦めだ。生きている事自体が有る意味旅なのだから。 
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by leea_blog | 2006-11-19 12:11 | Comments(0)

お気軽図書館「マルテの手記」コメント・画像は伊豆山中

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↑ 伊豆山中、滝壺に現れた虹 撮影りり山


詩人、リルケの小説「マルテの手記」を読み返した。ほとんど内容は忘れていた。ワタクシはうら若い頃は、うら若い人たちが熱狂すると言われる、繊細で美しい魂が苦悩するこれらの作品に、惹かれなかった。
 「うら若い人たちが熱狂すると言われるこれら」とは、「マルテの手記」、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」、ランボーの作品群、フランシス・ジャムの甘美な少女小説
等である。

むしろ大人が読むと、良さがわかるもののように思える。大人にならないと、うら若い魂の繊細さの表現や純度の高い苦悩、清明な文章の味わいがわかりにくい事が多い。うら若さのまっただ中にいる状態は、もっとどろどろしており、10代というのにもう人生に疲れており、奇怪な激情と同棲する一方で、冷静を通り越して醒めてもいる。しかも、大人より頭の巡りが良い場合が多い(脳が巡りを良くする訓練を毎日受けて代謝も活発だった為かも知れない)。経験値が圧倒的に不足している(本人たちにその自覚は無い)のが幸いして、段階を踏まずに本質に迫る力もある。うら若い頃は大抵が大変さのまっただ中であり、若い人向け(と言われた)上記名著は、既に過去の人たちが勝手に決めた「若い人向け」であって、現在進行形の「若い人」から見ると「良い例文学」或いは「お手本文学」に見えてしまうのだった。壮麗な破綻、深淵の美、作品の約束を軽々と踊り越えて疾駆する翼有る霊獣が、荒れ狂う嵐の海に歓喜の声を上げる水底の生き物が、太古の炎に包まれて寝返りを打つやまたのおろちが必要だったのだ。(あ、それは今も必要だ)

 しかし、大人になって読み返すと、様々に心を打つ。
 もっと単純に、詩人の感性による視線、散文に、飢えが満たされる心地がする。
以下、引用↓

今日は美しく晴れた秋の朝だった。僕はチュイルリイを通り抜けて来た。東側にあるものはみんな太陽を受けて、まぶしく輝いていた。しかも一面の霧で、光は明るい灰色のカーテンに包まれたようだった。まだ晴れきらぬ庭のところどころの銅像が灰色の霧の中で、薄い陽光を浴びていた。長い道に沿うた花園の花々が、ようやく目をさまして、一つ一つびっくりしたような声で「紅い」と叫んでいた。(「マルテの手記」リルケ 大山定一訳)

ようやく目をさました花々がびっくりしたような声で「紅い」と叫ぶ、その切り取り方に、瑞々しい朝の様子が、いきなり、刃物で刺したように胸に広がるのだ。
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by leea_blog | 2006-11-07 23:36 | Comments(0)

海の気配、みなとみらい/画像は城ヶ崎

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↑ 城ヶ崎・荒々しく砕ける波 撮影りり山

ひさびさにANGEL-AIDのミチルさんとランチした。
赤煉瓦倉庫のレストランでのんびり午後を過ごそうと、みなとみらいに出かけたのだ。

ミチルさんとは、一色真理さんに誘われた夢の解放区で知り合い、ヴィジュアル詩展のパリ出張版、ヴィジョン展参加のために一緒にパリも散策し、横山克衛さんに誘われた天国と地獄展や夜の会もご一緒して、北関東のアーティストとの交流のきっかけだったりり山の足利朗読ライブにも来て下さった。懐かしい。
 あの頃は創作がらみで海外や遠距離に出かけるほど二人とも体力があって、その後体調を崩し、それぞれかなり大変な時期を過ごして今に至っている。前回みなとみらいの赤煉瓦に出かけた時は、ミチルさんは杖が要らない時も多くなったという状況で、りり山もお茶のために横浜まで出られる位に余力が戻ってきていた。あの日は大観覧車のあかりを見ながら駅に向かう間、私はミチルさんの回復振りと創作活動自営化に驚き歓び、自分の状況としては、裁判が避けられないなら創作活動は脇に置いても結果を見なくては、と決意を語ったのを覚えている。

( ううーん、あの時は、裁判は避けられないらしいが、そもそも私が訴えられるのか、訴える方なのか、誰が相手なのかもわからなかった。そんなむちゃくちゃな状況に訳も分からないまま巻き込まれて、ようやく12月14日に判決が出るが、結局真相は分かっていない。訴訟になって、想像していた以上に悪質であり、辻褄の合わない作り話にかなりの人たちが荷担しているというのはわかった。トホホである。。。私が失った時間と労力、資産はあまりに大きい。被告の皆さん、頼むからこういうことは他の暇そうな職員を相手にやって下さい。)


 恒例となった来年の天使カレンダーを購入し(満月・新月の印入り!)、素敵なプレゼントを頂き、私は飾り気の全く無いプレゼントを渡した。ミチルさんからのプレゼントのワクワクする綺麗でセンス良い包装と、私のプレゼントの対比に、心中笑ってしまった。
 私の大好きなジム・トンプソンのシルクのクッションカバーをプレゼントしたのだが、実用本位も良いところで、なーんの包装もしなかったのである! そこまで頭が回らなかった。。。ジム・トンプソンは陽射しの強い国のシルクなだけに、夏は本当に綺麗に色が映えるが、これからの季節はどうかなあ、と心配しながら選んだものの、せめて綺麗な袋とか、それが無かったら手製のカードとか付ければ良かった〜。
 りり山は最近、「女の子脳」が足りない! プレゼントの包装は思い切りワクワクする物を選ばなくては!  

「う〜ん、海際は空が広い」と言いつつ海際に向かうと、赤煉瓦倉庫前の広場で、ふるさと物産展をやっているではないか。屋台が沢山出ており、童心に帰って買い食いを堪能した。
 赤煉瓦を後にする頃は、満月近い月が冴え冴えとかかり、煉瓦の重厚な建物は黄色いあかりを迸らせ、ベイブリッジに星くずのような白い光が連なって、美しい港の夜景となっていた。

 作品の傾向も、現世で求める物も、気質も全く異なるが、ミチルさんは話していて楽しい表現者の一人だ。振り返れば、色々な局面で力付けてもらっている。
 表現者はそれぞれが個性的だが、私にとって話していてほっとできる表現者とは、思いこみと思いこみの外の事柄をごっちゃにしない、冷静なバランス精神の有る人たちだ。思い込みの激しさは作品には必要だ。だが、思い込みを高次な作品に昇華させるには、意志の力と物事を広く見渡す視線が必須だ。旅人と同じである。
 様々な友好関係に感謝の気持ちが湧いてくる夜だった。

 大観覧車が間近に見えるベトナム料理屋で夕食をとり、話足りない気分で駅に向かった。が、やはり。。。新宿湘南ラインの終電は出た後だったのである。。。。。

 
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by leea_blog | 2006-11-06 01:25 | Comments(2)