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非境界の試みについて


ノリがものを言う時がある。
二健さんとメールのやり取りをする内、諸々の雑用を押しのけて、参加したくなったのだ。出演者ではなく、飛び入りという形は、生まれて初めてだった。

ワタクシの朗読スタイルは精進潔斎が必要なので、飛びいるような実力も無いし、ね。

三日前までに書き下ろし句を急きょ取りそろえた。長い物を練る習慣の詩人ゆえ、推敲の時間が少な過ぎて冷や汗である。それでも、原稿を持ち歩き、隙有らば推敲した。

が! 俳人はノリが違った! 吟行や句会の習慣、「挨拶句」の存在でお分かりの通りだが、前夜作った参加者が複数人いたのだった!

俳句というスタイルはインスピレーションをつかみ取る鮮度と能力が物を言う。推敲しまくる作品も勿論あるだろうが、実際作って見れば、制限が多いだけに、自分の俳句も、二、三日で推敲しようが無い所に達した。崩すバランスも含め、詩のような何年越し、というのは滅多に無いだろう。


他ジャンルへの参加は、こういった差異を実感できる。文字表現の大海では詩も俳句も異ならず。と、言えど、実作に向かう時に、脳の違う部分が働くのだ。

 ところで。
もののふの会の活動に関心を持ったのは、俳ラ以前の理由がある。非結社無派閥だった為だ。

結社関係なしの人たちには、以下は当たり前で退屈な話になるが、「そんなこともあるのか」、と受け止めて欲しい。

何かの会は、短歌や俳句、詩もそうだが、外野が出かけても、触発される事は少ない。先生格の人とそのファンの集まりであることが多い。文学の話をしに来たのに、まるでカルチャーセンター。先生と議論でもしようものなら支持者の目が突き刺さる。先生格の人がいない(対等研鑽前提)場合はだいぶよいが、結局は村の中で更に村が出来ているような状態である。
 
内部の人たちがいかに真剣に議論しても、知らぬ内に陥る、内部だけで通じるルールが濃厚になってしまう。守りに入ってしまうのだ。
それは、業界?全体に言える事なので、「村の中に村」と言わざるを得ない。

若かりし頃、誘われるままに色々と顔を出したり、文芸誌に所属したり等の結果、以上の結論で揺蘭を作っている。つまり、同人制の排除。寄り合い制。

結社に所属するという事は、何か変な物と同居して責任を負わなくてはならない。しかも、それは文学の本来の理念と妙にずれが出る。 作品傾向を聞かれる前に、所属詩誌や結社を聞かれませんか? 宗教で派を聞かれるならともかく、所属で判断されてもなぁ。

俳ラは、上記の煩わしさが無い。
率直な意見交換が出来る。新鮮な驚きはそうした場で生まれる。

無論、いつも顔を合わせている固定メンバーで煮詰めた議論をするメリットを、否定しているのではない。
結社を超えた、一人一人が自分の足で立つ自分が主であるところの「表現者」として、交流するのが難しくなってくると問題が出てくるのだ。

文学に関する人たちは、自分の回りだけを見ていたり、固定観念に縛られると、成長が止まる。歳を取るほど、人間は変化を嫌う傾向があるらしい。守りに入ってしまうのである。新しい試みや出会いを刺戟とする好奇心は、歳を取るほど必要になるにもかかわらず。

「俳句ですか、結構なご趣味で」、に代表される外部の印象は、新聞などに載っている読者投稿・選者の評の功罪だ。

宮崎二健さんと久々に話したが、それら違和感への基本姿勢が同じなのだった。例えば、二次会での話だが(オフレコだったら済みません)。釈迦も孔子もキリストも、自分で本を出さなかった。弟子が残した、云々。
まったくである。風雪に耐える言葉や作品とは、死後、見知らぬ他人の糧となるか否かだ。

(私自身も、今回の句が、後々に振り返って余興以外の何かになっている事を最大重点とした)

商業文学や趣味と決定的に異なるのはその点だ。
趣味なら、自分が楽しめればそれでいい。身内やご近所に「凄いですね」と言ってもらえて満足するのも、目的に入れていい。

文学者のプライドと趣味のプライドは、根底から異なる。否定するつもりは無いが、ごっちゃにしてもいけない。

受けるポイントって、有るではないですか。斬新に見えるポイントも。
書かざるを得ない作品とは、生まれる所が違うのだ。

この辺が、「金を貰って書いない人たち」の間でごっちゃになっている。

ううむ。
余談だが、「作品は無報酬だ」と初対面の人に話した時、「ボランティアですか! 立派ですねぇ」と言われた。弟には「で、いくらになるの?」と聞かれた。嗚呼。
作品=生活の糧ではないところも重要なのだが。
「早く売れっ子になってくださいね」とおさい銭をくれた年配者もおられました。売れっ子って。。。。。。。

価値観を見知らぬ人に話すのは、難しいものだ。
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by leea_blog | 2008-10-31 19:49 | Comments(0)

俳ラ15 観戦の記

睡眠不足&栄養不良のまま俳句ライブに駆けつけた。寝込むようなお仕事にかかりきりだったのだ。朝も昼も食べていなかった。が、開演に間に合った。空腹で思いきり不機嫌な顔だったに違いない。

出 演: 【 四天王降臨 】
一. 斬込天狗仮面俳句怒号=宮崎二健
二. 初登場十分間の未知数=轟ひろた
<恒例!飛び入り歓迎/休憩>
三. 煉獄サアカス団長=神山てんがい
四. 君臨し続ける俳ラの女王=ギネマ

どんな感じだったのか、個別に書いておく。
全体として、大変よい試みだと思うが、理由等は最後にまとめて書く。

《宮崎二健》
恒例の、可笑しみと哀愁を漂わせた天狗仮面。一番手に持ってきたのは構成上成功。
音声と、俳ラ終了後に配布される冊子(独演者の句が載っている)を比べて印象が一番違った。
【神妙にせい虎ヌタ抜きの河残陽】
単純に音声化した時には、この文字の力はほとんど出ない。他のイメージになるのだ。文字と比べた時、客は河残陽に思わず唸ることだろう。遠方まで続く河に、落日の赤が。俳句朗読を打ち出しつつ、終了後の冊子配布を重視して文字の力を同時展開する、俳ラの姿勢に共感である。

《轟ひろた》
会社員にしてはちゃんとし過ぎのスーツ、視線を常に上方に持っていく姿で、怪しいサラリーマン風の登場。ナイーブや痛みを表現した句が、スーツ姿と対比を出していた。ラフな格好だったら、普通の人が裏に抱えるナイーブを表現しきれなかっただろう(それでは当たり前すぎるのだ)。

《飛び入りの人》
名前のメモを取りわすれた。客席からお題頂戴で句を読んで見せる飛び入りの人、二人。一人は轟ひろた氏の知人、もう一人は20歳の学生。二人とも語りもしっかりしており、ひょうひょうとした雰囲気が味を見せていた。飛び入りは旧作を読むのが精一杯、との先入観を覆す。難を言えば、もらったお題、「あがなう」の意味を知らなかった一幕か。うーむ、若い内に本を読みましょう。本には「世界」が詰まっていますよ〜。


《葛原りょう》
ジョニー・デップか?と思った。準備万端の飛び入りで登場。鬼気迫る朗読が展開された。繰り出される句も、氏の領分発揮。
《これ以上言えば溢るる銀河かな》
飛び入りだけに、今回一番印象に残った。

氏とは新橋のイベントで一緒だった。かつて、エロティシズムをテーマに百物語的朗読会を、ご用納め後の深閑とした新橋で行ったのだ。懐かしい。 あの時氏は初舞台。あの日の企画・調製はワタクシがやっていたのだが、舞台裏の諸事情で映像記録担当を呼べなかった。イベント初舞台を動画に残せず、すまなかった、と思っている。

《西野りーあ》
葛原氏が聞くに値する場を展開した為、満足して、ワタクシの飛び入りはやらなくてもいいやと思った。俳人以外の朗読は、お客さんもおなか一杯であろう。

が。やって良かった。俳ラポスターの左右の端に
「飛び入りの雄 葛原りょう/いよっ飛び入りの雌(雄とオスをかけて、対は雌) 西野りーあ」
と面白く表記されて貼ってあったのだ。一年間貼られるポスターに直前不参加の歴史が刻まれる所だった。

BGMのCDを二枚用意し、前半と後半でメリハリを付ける予定だった。短い口上のあと、同じ句を幾通りかのバリエーションで読み、それらの違いを実感してもらう予定でもあった。コレは重要。今回の目的であり、かなめだった。即興の曲を付けて詠むのも、二、三披露する予定だった。
が。口上もバリエも即興曲も省略した。朗読は、後半だけを、その場でまとめた。

振り返ると。「言葉を伝える」事に重点を置き過ぎた。もっと「音」と化す方法にするべきだった。が。「幻想詩人がどんな俳句をつくるのか?」と聞き耳を立ててくれているお客さんの前で、「音と化した」朗読でいいのか? とはいえ、言語をすべて明瞭に聞き取れる朗読なら、他人に任せていいではないか。ワタクシがやる必要は無い。ううむ。自分の課題となった。

《神山てんがい》
ぼろぼろの腰布に裸身を白くぬり、槍を構えつつ登場。槍は実は旗棹で、自由の省庁、いや象徴トランクスが国旗なのだった。つかみはばっちり。太古の荒野と都会の内的荒野、主人公の味わった弱肉強食な企業戦士時代、何も無い所から戦い取る、国づくりの曙の情景が何重映しにも重ねられている。

二十年企業戦士だった男がリストラに遭いホームレスとなった。狂気の内に日本国から独立し、日本国と対等に貿易する国を国民二人だけで作る構成だ。こう書くと、ありがちだが、「ありがち」にがっかりする舞台ではなかった。
【そもそも地形が肉食獣である】

だが、氏は煉獄サアカスの団長だった。つかみがばっちりなのは当たり前だった。 俳ラの講評では、演技演出のプロからは舞台の点を差し引かねばならない。しかし氏によれば、普段の演技と俳ラはやはり違うそうだ。演技し慣れている人の舞台はすぐわかる。作品を聞きに来ている客にとって、普通の舞台と異なるものが発せられていないと、来た意味が無い。それは十分つたわった。素直に楽しめた。

二次会での氏との話は貴重だった。俳ラの活動は演劇の人たちからは不評との事。観衆として身を任せられる演劇は、小説のようなもの。小説を読もうとしたら詩だった。観衆にとって(読者にとって)きつい。不評の原因はそこに有るとの事。

詩の朗読も、常にその点が課題だ。しかし、文字が一部の人の物だった時代は娯楽としても芸術としても詩歌俳句の音声があった。炉辺につどって旅の詩人の語り詩を聞くのは、重要な娯楽であり文学の鑑賞であり、情報収拾手段であった。インターネットの時代でも、補いきれていない重要な物がそこに有る。
だからワタクシも朗読会の必要性を痛感してはいるのだが、いかんせん、活字が一般化した時代を経て、世はオーディオ・ヴィジュアルの時代、を更に経て、PC、携帯などの時代。時代にどうこうするとかの以前に、朗読自体がカラオケ化している現状も否めない。

《ギネマ》
ギネマワールド全開。鍋を持って現れる狂気の女! 【足跡がまだ暖かい】で登場する怖さと哀しさ。この、日常の狂気がギネマ氏の表現の持ち味。

あいまに繰り出される句に気を抜けないところがミソである。作品がイマイチなら、パフォーマンスが面白くても意味が無い。次はどんな句が来るか、で客を引っ張れるところが良い。
今回は、狂いたくても狂えなかった女が土日のみ狂気に入ってゆき、ついに【あなた】を鍋で煮込んで、一線を超える。超えられた一線が、日常に揺り返してくる。彼女は煮込んだ鍋の中身をふるまう為、新宿南口に向かうからだ。
わざわざは見たくない、だが、見れば色々と考えてしまう類いの重さを、押しつけがましさ無しに展開する。狂いたいけど狂えない、狂った方がむしろ楽、というぎりぎりの感覚は、胸に来るものがあるではないか。

出演者四人、飛び入り四人で、予定を30分過ぎて終了となった。
二次会が始まる前の中休みに、お客さんも出演者もあちこちで交流していた。帰りに、当日の朗読作が掲載された冊子をくれるのだが、これも面白い。ワタクシの作は二健さんが画像もダウンロードし、きれいにレイアウトして載せてくれていた。開催直前でご多忙中の所、丁寧な作業に驚いた。揺蘭編集に時間が掛かり過ぎている自分を省みた。

10月24日にゆりうたに載せた拙文も冊子に掲載してくれていた。コメント欄でのやり取りまで掲載されていた!
コメント欄でのやり取りが予告無しに掲載されるあたり、舞台裏も同時に暴露なドキュメンタリー精神&リアルファイト精神は健在らしい。

開催者は、大抵、雑用に追われて、自分の朗読の準備をする時間が無くなる。大変である。スタッフの皆様も、お疲れさま&お世話になりました。
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by leea_blog | 2008-10-29 00:13 | Comments(3)

観戦終了 

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↑ギネマ氏「裸のキッチン」 りーあの手。ギネマ氏が客に張って回った句が付いている。


「俳ラ15」に行ってきた。

面白かった!
俳句、川柳という、煮詰めた形式を「独演」という形で提示する。二次会の話も、有意義だった。言葉や表現へのそれぞれの姿勢が、脳を心地よく刺戟する。

出演者が四人でも、時間は30分近くオーバーした。
これくらいの人数の方が、聞いていて疲れない。盛り込み過すぎないのが、ちょうどいいと感じる。

詳細はまた書く。
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by leea_blog | 2008-10-26 01:34 | Comments(0)

幻想・詩俳句  詩は、行く?

そのようなわけで。
土曜の夜は、得意の逐電予定。

土曜の夜は不在なり。
独演!俳句ライブに出かけてきます。

急に飛び入りが決まったワタクシは、こっそり季語を調べながら俳句を作った。
生まれて二度目の俳句である。おまけに、自分の朗読史の中で初めての、癒し系朗読の予定である。ああ、戦闘巫女が癒し系。

客は目の肥えた俳人ばかり。
まずい。まずすぎる。

俳人や歌人がいきなり詩を作るとどうなるか、逆の立場で考えれば、客の困惑がイメージできるという物だ。門外漢の作品は往々にしてナニである。特に、ワタクシの作品は幻想系である。幻想という(ファンタジーではない)ジャンルが、一部のマニアの物でしかない現状では、「観念的」「イメージだけ」と切り捨てられるかもしれない。単に「つまらん」で終わりかも知れない。ちょっとでもお客の心に引っ掛かりを残せる作品を、作らねば。

密かに知人友人に一部を送り、感想を聞いた。
評判が良かった。お世辞でも今は嬉しい。
よし、明日は行くぞ。

急に決めたので周囲をお誘いしていないが、文学の話に餓えた人は、いかがですか?
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by leea_blog | 2008-10-24 20:52 | Comments(0)

独演!俳句ライブ10周年記念の事など

俳ラこと『独演!俳句ライブ』が十周年、とのお知らせを頂いた。
(俳ラに関しては、ゆりうた内をキーワード俳ラでご検索お願いします)

実に独特の活動で、俳句に関心の薄かったワタクシも、俳句の世界に興味を抱くに到った。そして、恵比寿では詩の朗読と俳句朗読の共演も果たした。

二健氏のブログでも、過去、「お題」に添った句を発表し、おこがましくも合評にも参加した。良い経験だった。

他ジャンルへの参加は、頭・感性の普段使わない部分を刺戟する。

思い返せば十年以上前になる。
詩人のサトウケヤキさんの朗読ライブに、足利のジャズバー「オーネット」まで出かけたのだ。そこに、二健氏もいて、その場で俳句朗読を行ったのだった。腰にバナナの房を巻き上半身裸体のケヤキさんに、肩車されつつ! マシンガンのように繰り出される俳句。ケヤキさんは「睾丸が暖かい」など合いの手を入れながら、肩車で闊歩した。アドリブ満載の、パワフルな場であった! 

 ワタクシは不勉強で「もずのにえ」が季語と知らず、二健さんに「うまい表現で効いている」、などと間抜けな感想を言った。季語の効果も非効果も、頭では知っていたがこの時実感した。

詩人で翻訳家の青山みゆきさんのお宅に泊めて頂いた。写真家の山田利男さんや現代美術家のタカユキオバナさん、詩人の江尻潔さんたちとも、そこで知り合った。

ほどなくして初回「俳ラ」のお知らせが来た。 二健さんは、朗読会がほとんど行われない俳界に空間磁場を産み出すべく(これらはワタクシ推測)独演!俳句ライブ開催を決めたのだった。

 足を運んで実感したのだが、俳句は現代詩よりはるかに朗読に向いている。一句のスタイルが決まっており、朗読する側と聞く側の双方に、既に合意事項が存在する。間合いや見どころも、わかりやすい。合いの手や野次も入れやすい。限られた文字数を逆手にとって、様々な可能性を提示できるだろう。

余談だが、足利で氏からもらった俳句誌も、大層面白かった!反論も舞台裏もリアルファイトなライブ感が溢れて、文学魂を刺戟した。

もう十年以上になるのか。感慨深い。
25日は、ワタクシは寝込むような作業をしている予定だが、飛び入り参加してみたくなった。飛び入りやヤジの威勢の良さも、俳ラの特徴である。詩の朗読会はご謹聴が多いので、上記姿勢は見習いたい所だ。

ライブ参加が無理でも、二次会には出て、俳句という表現でリアルファイトを展開する人たちと文学の話をしたいと思っている。

◆◆俳句朗読の豊年祭◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆10周年記念◆◆
◆◆◆◆◆◆◆◆≪独演!俳句ライブ15≫◆◆◆◆◆◆◆◆

◆□日 時: 2008年10月25日(土)
◆      開場,18:30. 開演,19:00〜(閉演,21:00頃)

◆□会 場: JazzBar サムライ
◆      新宿3-35-5守ビル5F Tel. 03-3341-0383
◆                
◆□出 演: 【 四天王降臨 】
◆      一. 斬込天狗仮面俳句怒号=宮崎二健
◆      二. 初登場十分間の未知数=轟ひろた
◆         <恒例!飛び入り歓迎/休憩>
◆      三. 煉獄サアカス団長=神山てんがい
◆      四. 君臨し続ける俳ラの女王=ギネマ

◆□料 金: 2000円 (1Drink付)
◆□窓 口: 二健@サムライ(jike@n.email.ne.jp)

◆□主 催: 俳句志「もののふの会」(第98回俳句活動)
◆□旗 印:俳ラ三大原則 <自句朗読・肉声・独演>
◆俳句朗読の実践窟*先ず口承あり*俳の表現かくありき
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◆□WebSite:▽ブログ「俳ラ」http://haila.seesaa.net/
◆ ▽独演!俳句ライブ」活動歴 1998〜2007
◆ http://www.ne.jp/asahi/hai/ten/hl-katudoreki.htm
◆ ▽ブログ「JazzBar サムライ」
◆ http://6112.teacup.com/samurai/bbs

◆◆◆Haiku Reading Solo Performance"HAILA-15th"◆◆◆
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
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by leea_blog | 2008-10-21 23:49 | Comments(2)

『北斗の拳』タイピング練習ソフトの事 口直しの若うさぎ

知人の子息が、タイピング練習ソフトを持っている。『北斗の拳』。一度やってみたかったワタクシは、子息の部屋に上がり込んだ。

拳法冒険漫画が原作のタイピングソフト。
びっくりするくらいぴったりである。

「豚は豚小屋に行け」等、実戦で使える名せりふが満載である。画面に出てくるおそろしく汚い罵倒言葉を、「きゃー」とか「嫌〜、負けそう(笑)」などと騒ぎながら、タイピングするのである。時間内に正確に打てれば、こちらの攻撃が決まり、時間内に打てなければ相手の攻撃が決まってしまう。

血しぶきと脳漿、服の破片と肉片が画面にぶちまけられます。

 汚い言葉OKのワタクシも唖然と画面を眺めてしまうような、凄い罵倒語が続出する。

もはや、タイピングより、セリフの凄さを読んで笑って味わい、セリフを覚える方がメインとなって、手はお留守になったままなのであった!

性格悪そうで頭も悪そうなザコどもをなぎ倒すと、次は少しマシな強敵が登場してくる仕組み。汗臭く埃っぽい舞台設定に、敵役も主人公も、思いきり芝居がかかったセリフ全開である。笑えます! 引き込まれます! 

「死ねぇぇ!」とか、「馬鹿め、勝てばいいんだよ」とか言いながらタイピング練習するのは、ストレスが溜まった現代人に向いている。
飛び散る肉と骨の破片が全てではない。しっかり仁義礼智忠信孝悌、愛も盛り込まれており、このあたりも根強い人気の一つであろう。

ワタクシは原作の方が好きで、アニメ版は絵柄が今一つなのだが、クリスタルキングによるテーマ曲は頭に残ってしまう。「すべて融か〜し 無残に飛び散る はずさ〜」などと鼻歌を歌えば、ノリは、リゲインの「二十四時間闘えますか」と同じ、疲労で脳内ハイテンション物質が出まくる状態を呼び覚ます。実に日本人的である。現代版軍歌というべきか。

残業時のBGMに「You are shock! 愛で鼓動早くな〜る」等々流せば、戦闘本能のスイッチが入ってアドレナリンが噴出し、仕事の能率が格段に上がりそうではないか?

「そんなのいやだ。過労死なんて馬鹿みたい。タンシンフニンとカローシはカミカゼ的に困った事です」と感じる向きは、緑の中で動物と寝そべろう。
以下、戸隠の毛並みも美しい若うさぎである。

上、眉毛のような灰色うさぎ。下、ワタクシの膝にのる毛並みもつややかな茶色うさぎ。
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by leea_blog | 2008-10-20 23:03 | Comments(0)

うさぎの食卓 戸隠牧場にて

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ふわふわで暖かい、曲線の柔らかい、手触りのなめらかなものに餓える。
というわけで、これ。

遠出をしてでも、ひと気の少ない牧場に行け。
『子うさぎの家』を独り占めできる。

客のマナーが良いのだろうか、人懐こい。足下に寄ってくる。
うさぎの醍醐味は、ぴょんぴょんぴょん、ひくひくひく、である。

ちょっと移動して止まり、鼻だけをひくひひくひく、とさせるのだ。
ぴょんぴょんぴょん、ひくひくひく。

毛並みもつややかでしっとり、ふわふわである。ストレスの少ない生活を満喫している、良い目つきだ。

途中から子供二人が参加。
パパは「まんじゅう屋」だという。
パパは、子供二人をうさぎ達に預けて、広い牧場一人旅に出たらしい。幼い兄と妹が、突然降って湧いた感じだ。小屋の外を見回しても、人がいない。

途中で、パパが手にいっぱいの新鮮なクローバーを持ってさっそうと登場。
息子がパパを迎えに扉を開けた隙に、真っ白なヤギが勢い良く乱入した。

大騒ぎとなった。
ヤギはうさぎとハムスターの餌箱に。乱暴に頭を突っ込んでふわふわの柔らかい小動物を追い散らす。外に追い出そうとするが、イルカを海で捕まえようとするくらいぴちぴちと勢いが良い。跳ねるのも得意な生き物だ。

がらんがらんどしんと大騒ぎの末、純白ヤギは緑の野に押し出された。うさぎの楽園は再び木の扉を閉じた。私達は円形の小屋に隠った。

子供らにうさぎの抱き方を教えるが、爪が肌に痛いと抱くのを諦めている。爪がまだ柔らかい子モルモット、ふわふわを両手で掬って女の子の両手のくぼみに降ろしてやる。

子供たちをおいて帰る時間になった。
子供たちは小屋の金網に張り付いて、いつまでも「バイ、バーイ」と手を振ってくれた。


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↑ 黒モルモットが餌ケース=バスタブ状にはまりこんでいる。
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by leea_blog | 2008-10-16 21:59 | Comments(0)

神殿ネックレス ビーズは光と色の感性で左右される


遺跡から発掘したようなネックレスをイメージした。
が、写りがイマイチ過ぎたので、掲載した画像を削除した。しょうもない画像や作品を削除するのも、エコである。

月の出ネックレスのような流麗感が無い。
素材の数不足と、不足分を買う資力の不足と、根気よい作業を妨げる、肩凝りに悩まされながら、護符目的で作った。
カラーセラピーのようなものだ。
今の自分に必要な色と質感を、今の自分に必要な形で連ねて身に付けるのだ。

カラーセラピーがイメージしにくい人は、風水を思い浮かべて欲しい。
風水の個人版のようなもの。その場その場に合わせた処方箋。

光と色は、薬である。
アクセサリーの素材、天然石やビーズは、朝の光、昼の光、夜の光で表情を変える。
素材の色だけではなく、光の効果とセットになっている。

ビーズ売り場に展示されている「お手本」作品を眺めながら、感嘆する。半透明の素材を組み合わせて光と色の気配を計算するのは、実に繊細な感覚が必要だ。

さて、この神殿ネックレス、実物は大変美しい色を使っている。
今の自分に必要な、色と光の取り合わせを選んだのだ。

だが。実際に着けて鏡を見ると。色も光も、形も、あまり映えない。色と形を再現した写真が撮れなかった事もあるが、それだけではない。

神殿ネックレスは、映えるか否かではなく護符だ。
そうはいっても、映えるにこした事は無い。
映えるデザインをまた考えよう。

薬、として。
使う予定も無いのに、白い羽を一袋買った。
ふわふわした柔らかい繊細な物が沢山袋に入っているのは、見ていて安らぐ。生きた鳥が巣に入って眠っている方がもっと良い。ペット禁止の賃貸住居の悲しさよ。
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by leea_blog | 2008-10-15 23:31 | Comments(0)

雨の 光ケ丘公園 淡い光が霧雨にけぶる

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by leea_blog | 2008-10-14 22:22 | Comments(0)

日の門から風がふく イェイツ

強大な妖精族 絢爛の領土について

【心のゆくところ】という短い劇で、フェヤリイが歌う歌である。
ほとんど、呪文である。最初の六行は特に。

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日の門から風がふく
さびしい心の人に風が吹く
さびしい心の人が枯れる
そのときどこかでフェヤリイがをどる
しろい足を輪に踏み
しろい手を空に振って
老人もうつくしく
かしこいものもたのしく物いふ国があると
わらひささやきうたふ風をフェヤリイはきく
クラネの蘆がいふ
風がわらひささやきうたふ時
さびしいこころの人が枯れる

「イェイツ    松村みね子訳 仮名使い等そのまま」
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フェヤリイとは、フェアリー、妖精のことだが、小さくて可愛い陳腐な代物ではない。牧師と霊力バトルを繰り広げて新婚の花嫁もさらってゆく、人間の力を越えた、強大な古い種族なのである。

私の手元にあるのは角川文庫のリバイバル版【鷹の井戸】収録、「心のゆくところ」だが、短い作品なので読んでもらうに限る。 
レアすぎて見つからない? うむ、そういう時に図書館が役に立つのだ。

新婚の花嫁は夫を愛してはいる、しかし一般家庭で嫁に求められる物事になじめない。牢獄と感じているのだ。
冒頭では、皿を洗えと姑に命じられて、屋根裏から本を持ってきて読んでいる。抑圧の毎日に、内側に隠ってしまったらしく、彼女のセリフは多くない。

「神父様、わたしは四つの言葉にあきあきしました
あんまりこすいあんまり賢い言葉と
あんまりありがたいあんまり真面目すぎる言葉と
海の潮よりもっとにがい言葉と
ねぶたい愛に充ちた、ねぶたい愛と私の牢屋の話ばかりする
親切な言葉に、あきあきしました。」

四つの言葉は、舅、神父、姑、夫を表している。

そこそこの財産と、物のわかった賢い舅と、働き者の姑と、美男で愛に満ちた夫。普通に暮らせば普通の充実した人生が手に入る環境だ。それは劇中でもしばしば強調されている。

が、イェイツの作品には、「本心と引き換えに得る平穏な幸福」を尊ばない気配が立ちこめる。

遊んでばかりで働かず、本など読んで頭を妄想に満たしていると、妖精がやってきてお前をさらってゆくよ。その時に後悔しても、もう遅いよ。死んでしまうよ。そうした表面的な教訓の形を取りながら、表面的な欺瞞がいかに奴隷的であるかを、無理なくイメージさせてゆく。

人間族の血脈の中で、ときおり何世代かを置いて浮上する、飼い馴らす事の出来ない、上古の血を持った者たち。シー(妖精)にさらわれるのは、そうした者たちなのだ。

イェイツは、理論や理性を駆使して、理論や理性では割り切れない神話的世界の扉を、かつては日常的に行き来可能であった通路を通れるようにしたのである。

これらの劇は、民衆の啓蒙用の為、割り切れ無さを前面に出している。賢かったり真面目だったり、愛に満ちているなら良いではないか? 現実と折り合いをつけて平穏な日々を愛しなさい。言葉を駆使できない人々は、「そうじゃないんだ」と言いたくても、相手や世間に通じる言葉を見いだせない。あるいは、文学に身を沈める詩人らは言葉の真の味わいを知っている、つまり魔術の心得のある人々向けの作品をものして後世に黄金の糸を繋げようとする。

文字表現の魔術の心得にうとい人たちにも、焦燥感が伝わるには、この花嫁のセリフはが必要なのである。

ここまではイェイツの話だ。
ワタクシは、後世の人間だ。境を無理やり造って日々の労苦を忘れなくてはならない現状を、日常と非日常が更に融合するように、もう少し解体して揺り戻しをかける策を練るのである。
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by leea_blog | 2008-10-11 13:08 | Comments(0)