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漂流ベッド 天空篇

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砂漠や水面をたゆたい航海する、漂流ベッド。

不眠症のため、眠りに入る準備に描き始めたシリーズ。
描いている内に眠気が起こるような絵を。

この天空篇は、見た目は眠くならない要素が沢山。特に今の季節、寒そうだ。
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by leea_blog | 2008-11-30 11:30 | Comments(0)

バラントレーの若殿 —疫病神的身内の恐怖・理性の愛情と虚々実々の心理戦—

実家からお宝本を一部救出してきた。

実家の本棚に「バラントレーの若殿」(スティーヴンスン著/岩波文庫)もあった。お宝というほどでも無いが、絶版なので、再会に感動した。

熱烈に読みたくなる事を予測して買った本(の一冊)である。
チベットの埋蔵経のようだ。本当に必要な時期に見いだされる、埋蔵経の個人版。

表紙の紹介文を引用する。
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『ジーキル博士とハイド氏』の3年後に書かれたスティーヴンスン(1850‐94)の長篇歴史小説。時代は18世紀の初頭、スコットランドの名門バラントレー家の世継ジェームスとその弟ヘンリーの凄まじい確執の物語。凶悪な兄と善人の弟の生涯をかけた争いが、スコットランド、イングランド、さらにアメリカの地で展開されるうちに……。
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上記を読んでも関心持てなかったら、現世に興味が無いと言えよう。長編だが、読み始めたら止まらない。

しかし、今回熱烈に読みたくなったのは、表紙紹介文の為ではない。「新アラビア夜話」(岩波文庫・絶版/作者は同)を再読したからだ。題で損をしている。現代のアラビアンナイト、という陳腐な印象ではないか。(バラントレーの若殿も「悪人と善人」という枠組みで紹介されると、面白く無さそうな印象になる)。
「新アラビア夜話」は異様な展開が美しい描写とともに繰り出され、物語に幻惑されるだけではなく、描写の見事さにくらくらとし、食い入るようにその描写を読み返してしまうのだ。
(ボヘミア王子フロリゼルが魅力的だ。花のような王子なのか?)

さて、バラントレーの若殿である。
新アラビア夜話のような華麗極まりない描写は無いが、他の魅力がてんこ盛りだ。美貌にして凶悪な兄(バラントレーの若殿)が、家督を継いだ弟(殿)から手切れ金をせしめようと、あの手この手の嫌がらせを、海を越えてまで行う! こんな身内が居なくて良かったと神に感謝するとともに、似たような悪因縁なら誰の回りにも転がっている事に気付く。

執事のマケラー氏が、大層頼れる。殿と奥方の駄目な部分を、いざという時に必死に補ってくれる。 執事は「殿にお仕えする」といっても、所詮、雇われた契約による関係だ。が、マケラー氏は殿(弟)に深い愛情と尊敬を注ぐようになる。理不尽な憎悪の嵐の中で、マケラー氏の理性的な愛情にはほっとさせられる。

若殿以外の登場人物達が紳士たろうと内的葛藤を繰り返す点は、現代人からみれば無意味に見えるかもしれない。乱暴な言い方をすれば、やくざに脅されて金を巻き上げられ続けているのに、哲学論を自問自答しているのと同じ。貴族・紳士を自負するならば、相手に応じた現実的な対応能力は、必須ではないのか?

自分の価値基準にしたがって、無欲、実直に生きるタイプの人は、自分を見つめ直す機会になる。主人公のヘンリー(弟)と語り手の執事・マケラー氏は、そのようなタイプだからだ。人がいいとか、実直さとかは、阿呆の同義語なのか。

人生において、悪意の魂の持ち主と「わかり合えるかも知れない」と思う事は無いか? 別の生き物だと思わなくてはいけない。わかり合う事など出来ない。相手の甘言や感じ良さに騙される奴は、何度でも騙されるのだろう。殿が兄の甘言を見切った後にも、語り手の執事はまだ、金で若殿を厄介払いできると信じる。本質を注意深く見極めようとするマケラー氏もこうなのである。いわんや凡人をや。

無敵の若殿(兄)とその家来の来襲に、殿と執事のマケラー氏が必死に抵抗し闘う姿は、映画「エイリアン」のよう。勝てそうもない相手が、逃げても追ってくるのだ。殺しても(?)死なないし、悪意が楽しみなタイプで策謀に優れ、羞恥心と無縁、良心が欠如、演技が得意とくれば、怖過ぎるではないか。
他人がいる所では優雅で良いひとの振り、二人だけになると突然悪意たっぷりの嘲弄が始まるあたり、「いるよなぁ、こういう人」と嘆息する。周囲は若殿を「魅力ある人格者で、弟にも思いやりが深い」と勘違いし、非難は弟に集中する仕掛けである。
若殿はこんな悪意の計略ばかりして、彼自身疲れないのか? いやいや。疲れるどころか、自分の悪振りを誇示したり、奸計を練ったりするのがほとんど生き甲斐なのだ。

若殿とマケラー氏の心理的一騎打ちは、緊迫感に満ちている。ヘンリーは、若殿に太刀打ち出来ない感じですね。

強い印象を受けたのが、「騙す」・「騙される」、「信じる」事についてだ。
日本は「騙される」事、「愚か」な事に寛容である。理や智よりもおおらかな感覚を尊ぶ。日本語がそもそもそういった包容力をよく表現しうる。だが、キリスト教の伝統深い土地では、他人や自分に理や智の光を絶えず浴びせ、自分を律し、足下の地獄から身を守るのは「良き人」の勤めらしい。虚言を信じるだけでも、神の合わせたもうた試みに引っかかって、つまり引っかけ問題に引っかかって試験に落ちてしまうのだ。

万物に神は宿り、やおろずの神がおり、神仏習合の歴史の長い我が国は、イエスとノー以外の、中間の部分に重きを置く。「日本人はイエスとノーをはっきり出来ない」と英語圏の人は言う。日本人は「イエスとかノーとかの単純な話じゃないだろそんなのは前後左右・上下・将来の条件次第で変わるではないか。」という脳の作りなのだ。

さて。「騙される方が悪い」という考え方があるが、これまで理解できなかった。二百歩譲っても騙す方だけが悪いと考えていた。「それは嘘かも」という疑念を日常の人間関係に持ち込むのは、無用のストレスを産み、共同体のエネルギーの無駄使いになるから悪である。虚言癖の持ち主は共同体にとっての、錆やカビのような物。錆やカビを増長させたり、正当化したりする奴は同罪だ。

が。この物語では、若殿の虚言に騙される事は、騙されるだけで悪事に加担しているのである。騙される方が悪いのだ。若殿にとって「世間」は「詐欺師と盗人の森」。信頼関係を前提に理性で動いてゆくものではないのだ。世間を「詐欺師と盗人の森」と見なすなら、騙される方は確かに嘲笑に値する程に愚鈍であり、馬鹿者であり、愚かゆえその存在は悪であり、知らぬ内に若殿の手先にされてしまうのである。とほほ。

執事と若殿の心理戦の醍醐味もそこにある。執事が若殿の理論の矛盾を冷静に見極めて、抵抗できるか否かが、緊迫して描かれる。格闘技のようだ。殿への信頼を揺らがせただけで、ゾンビに殺され自分もゾンビになるのだった。

愚か=善良ではない、というエピソードも多数盛り込まれている。
弟は、領地の民らからも嫌われ、石まで投げられる。若殿の部下や、若殿に手を付けられた女が虚言を振りまいた為だ。彼らは駄目人間で愚か者なだけで積極的な悪ではない。若殿に手を付けられた揚げ句捨てられた女は、(若殿ではなく)弟に石を投げつける。殿から(若殿からではなく)年金を受け取っているにもかかわらず。殿に鞭で打たれたなど嘘を言いふらし、平民達の反感をあおるのだ。

虚言は、ちょっと人間観察力を使えば、わかるような事である。が。人々はいちいち真相に関心を抱かない。非難は楽だ。そうした人間の弱さと駄目さも、克明に描き出されるのである。読めばわかるが、そうした人間の弱さが自分にも無いかと省みるマケラー氏は、実に頼もしい。常に練習を欠かさないアスリートのごとし。

娯楽としても、一気に読める作品なので、憂さを忘れたい人にも大いにおすすめできる。文章と描写がちゃんとしている娯楽作品は、読んでいて安心だ。文章が駄目だといくらストーリーが面白くても、いちいちつまずいてしまう。陳腐な表現や使い古しの比喩が頻発する文章には、読んでいる途中で挫折されられる。

それにしても。悲劇的結末とわかっているのに、読み終わってぼう然とする一冊なのであった。

ハッピーエンドという訳でも無いのに幸福感の残る「貴婦人と一角獣」(以前のゆりうた参照)とは対照的な一冊だ。
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by leea_blog | 2008-11-26 23:29 | Comments(0)

独演!俳句ライブ15ビデオ観賞会

俳ラ15のビデオ観賞会に出かけた。

自分のシーンは、やめておけば良かった、とこっそり冷や汗が出た。
反省が無ければ次も無い。

色々有意義な本質論が出来た。おなかが空くと思ったら、だいぶ話し込んでいた。

サムライのアイスコーヒーはちゃんと入れた濃いコーヒーで、ミックスピザもチーズがかりかりに焼けて美味しかった。
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by leea_blog | 2008-11-25 01:08 | Comments(0)

仕事が速いハッピーブログ様の件


ハッピーブログさんに日嘉まり子氏が連絡してくれて、編集人の名前が追加されました。
無料で掲載してくださるご好意だけでもありがたいのに、お手数までお掛けしました。両氏に心よりお詫びと感謝を捧げます。

揺蘭広告をクリックすると、揺蘭紹介コーナーに飛ぶ仕掛けです。
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by leea_blog | 2008-11-25 00:37 | Comments(0)

木枯らしの季節 揺蘭広告

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日嘉まり子氏のご尽力で、ハッピーブログさんに揺蘭が掲載されています。
(カレンダー下)
ありがたい事です。

寒さがつのる日々の中、明るいニュースでした。
http://www.a-happy.jp/index.php

アクセスする度に違う物が出るようです。
揺蘭広告をチェックしたい場合は、何度かアクセスしてみて下さい。
(うろくずHPにもその手の遊び性があると面白いかもしれませんね)


編集人が(その他)になっている件ですか?
編集人は地下基地で雑用係と通信係と会計と作者をやっているようなもの。同人誌の主催と、寄り合い制まれびと冊子の編集人は違うという事で不問。
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by leea_blog | 2008-11-22 00:53 | Comments(0)

「俳ラ15」ビデオ鑑賞会のおしらせ

天狗仮面こと宮崎二健氏から案内メールを頂いた。

朗読は、自分で思っているのと端が聞くのでは、だいぶ印象が違うものだ。以前はテープで録音して、聞き返しながら練習した。

コーヒーを飲みながら忌憚ない意見交換が出来れば嬉しい。

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寒くなってまいりました。
ひと時の文化的ぬくもりを共有できれば幸いと思い、
ささやかなビデオ鑑賞会のご案内申し上げます。

\\\\\\\\\あの感動をもう一度!//////////
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☆〜HAILA15 Comeback to Me.〜☆ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

   今秋2008.10.25(土)に、サムライで行われました
 <十周年記念>俳句朗読の豊年祭「独演!俳句ライブ15」の
     ビデオ鑑賞会を、行いたいと思います。
    本番を見逃した方、もう一度皆で見たい方、
(出演者は反省の糧として)是非この機会にご鑑賞下さい。
_____________________________

 ▽日時:11月24日(月・振り替え休日) 午後3時〜6時
 ▽料金:ジャズ喫茶Menu-1Drink 500円〜
 ▽場所:新宿三丁目 JazzBar サムライ 03-3341-0383

 ・出演者:二健、轟ひろた、     (演目めくり地図子)
      飛入り4名様(りょう、哲史、りーあ、ユウイチ)
      神山てんがい(口上兼任)、ギネマ (全約2時間半)
 ・モニター:29InchレトロTV/・撮影者:神谷/・窓口:二健
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 http://8217.teacup.com/samurai/bbs?BD=7&CH=5&OF=0#CID758
  ☆ご鑑賞後、忌憚のないご意見や感想を賜れば幸甚です。
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by leea_blog | 2008-11-19 01:16 | Comments(0)

機械仕掛けの人形 職人の悲しみ  贅沢の終焉—暗の部—


トーマス・オーウェンの短編集『黒い玉』、『青い蛇』を読んだ。オディロン・ルドンの石版画の表紙に、つい手に取ったのだ。期待していなかったのに、面白かった。

(トーマス・オーウェン 加藤尚宏訳)
『黒い玉』収録の『バビロン博士の来訪』や、『鼠のカヴァール』が印象深い。
後者はこの短篇だけでも、一冊分の代金を払っても良い。

鼠のカヴァールと呼ばれる、ぱっとしない、おどおどした貧しい老人が主人公。彼がいかにはた迷惑な存在か、容赦なく描写される。
前科者の息子が時折来襲して、老父から金目の物を奪い取り、辺りを破壊して去ってゆく。

非道の一人息子に加え、嫌な隣人も、短い作品に深みを出している。娘の重体を、悲しむふりして悦ぶのだ。人間の醜悪をえぐり出す。主人公も、周囲の登場人物も嫌な奴、漂う雰囲気は卑屈色、不快な短篇だなぁ、とページをめくっていけば。最初の二、三頁で読むのを止めた人は大損をする。

カヴァールは、かつては腕の良い錠前職人だった。特別な仕掛けのある注文品を一つ一つ作る、職人だったのだ。量産品が巷に溢れる時代となり、自分用の錠前を特注する贅沢な客はいなくなった。生活の為にやむなく時計屋にくら替え。その仕事も、金にならなくなった。

カヴァールの没落は、贅沢な時代の終焉でもある。
高度な職人技と独創的な発案の粋を集め、それを注いで一つ一つの物を作った時代の事だ。

カヴァールの素性が明かされてゆく辺りの素晴らしい描写で、鼠のような主人公が、零落した古代の神族の系に連なってみえてくる。
「おおっ、そういう話だったのか!」と驚愕し、膝を乗り出した。

エッダの妖精鍛冶ウェルンド、シルマリルリオンの天才エルフ・フェアノール、カレワラの英雄的鍛冶屋イルマリネンなどを先祖に頂く人間の一人。つまり、純血の人間族ではなく、神々の血がわずかだが混じっている、そうした人間の一人に見えてくる。零落した神々の伝説が二重映しとなり、物語の厚みが一気に増したのだった。

うらぶれたり「零落」したりは、否定的な意味で言っているのではない。
(今主流の神々には無い、煮詰められた真実を照射する状態である。別項で紹介するが、キプリング著『プークヶ丘の妖精パック』に、技芸神ウェルンドの零落と復活を香り豊かに語った章がある。)

今流行の神々は、流行音楽やベストセラー本のようなものだ。零落した神々やその子孫は、古書店で一部のマニアが血みどろの争奪戦を繰り広げる絶版本のようなもの。大変貴重な物なのだ。
金色インクではなく本物の金箔だったり、一つ一つ手で彩色されていたり。「おお!本物ではないか!素晴らしい技術!」と感嘆しつつ頁をめくる、貴重な羊皮紙書物のような。

そうした神々やその子孫は、たやすくは見つからない。姿を変えて住んでいるからだ。

話は戻って。
カヴァールは顧客の為ではなく、自分だけの為に、素晴らしい技量を注いで機械仕掛けの人形を作った。それを今も手放さずに持っていた。
ただの愚痴っぽい年寄りではなかった→いにしえの技術職人である→しかも、ほとんど「作家」だ。そして、今もその技術を保持している!(ここは重要! 才能が枯れた人とは別物である)→しかもとっておきの傑作を今も保持して密かに愛でている!
うわぁ、そんな凄い人だったのか。

歌舞伎に「義経千本桜」という話がある。船頭の娘「お安」、実は壇ノ浦で入水したと見せかけて、潜伏している安徳天皇!!!!!これくらいの驚きである。(「お安はないだろ、お安は。安直過ぎ」と笑う所なのだろうか)

話は戻って。少女人形の機械仕掛けの貯金箱で、硬貨が貯まると、カヴァールが作曲した歌を歌うのだ。錠前職人は、作曲までするのだった。が、硬貨は一向に貯まらなかった! 貧しいからね。

ある日、例の息子が来襲し、人形がとうとう破壊されてしまう。勿論中の硬貨も奪われる。優れた技術の粋、人知れぬ栄光の証し、密かな愛情を長らく注いだ少女人形は無残に壊された。彼にはもう作り直す金も、気力も、生きる希望も無くなってしまった! 

もの作り系の人なら、カヴァールに寄り添った読み方をするだろう。

シルマリルを略奪されたフェアノールの、あらゆる至福が無意味になる程の絶望。奪還と報復に燃え、一族を破滅に引き込んでも行動するあの力とは、コインの表と裏。表でも裏でも、同一のコインである。見え方が違うだけだ。

カヴァールが作っていた自慢の錠前も、単に守りが堅いのみではない。針が飛び出すなど、攻撃的な仕掛けが満載なのである。一つ間違えば、手の込んだ拷問器具を熱心な探求と卓越した職人技で開発しそうである。

盗人に報復する自慢の技術を、最愛の作品に付けなかったのは、大変な手抜かりである。それも、避けがたい破滅を、技術を極めた者の眼によってどこかで知っていた為であろうか。

短篇ゆえ、略奪者の息子登場の時点で、人形貯金箱も破壊されてしまうのでは、と予測が付く。予測通り最悪の結末に容赦なく突き進む。ただし。最後まで読めば、最悪の事態は、我ら凡夫が一生掛かっても体験できないとてつもない至福と共に有るとわかる。それはたゆまぬ精進と、苦痛の代償無しには、手に入らないものである。

だが、人はこれを至福と見るだろうか。
鼠のように惨めな人生にしか見えないだろうか。
作者は惨めな表層を描写しつつ、王侯の光輝を二重写しにして見せる。どのように読むかは、読者に任されている。
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by leea_blog | 2008-11-16 03:25 | Comments(0)

「貴婦人と一角獣」 トレイシー・シュヴァリエの絢爛


クリュニー美術館の貴婦人と一角獣のタピスリー、あれに魅入られた人は、詳細を知りたいと切望する筈だ。詳しい事はわかっていないのだ。長期間忘れ去られて田舎に眠っていた物の為、タピスリーにかかわる物語は、当時の人々の死去とともに永遠の忘却の中に消えた。

ああ、残念な。失われたならまた作って。作った物語を聞かせて。

と、餓えた私の前に現れたのが『貴婦人と一角獣』(トレイシー・シュヴァリエ作/木下哲夫訳白水社)。

ちなみにトレイシー・シュヴァリエは、画家フェルメールと、モデルとなった少女を主人公にした『真珠の耳飾りの少女』も良かった。映画化されたが、映画もフェルメールの絵のようで静謐な美に溢れていた。

話は戻って、『貴婦人と一角獣』。どのような人々が、どのような経緯でタピスリー誕生に関わったかを、絶妙な構成で展開してゆく。

貴婦人と一角獣のタピスリーの、どこがいいのか? 取り付く島に困っている人にも、「こんなに素晴らしかったのか」と読み進められる事、うけあいである。

純文学というより娯楽系なのかもしれないが、少なくともカプス君(ゆりうた2008/08/13リルケ教徒の悲憤参照)がこれを書いていれば、高安国世氏は悲憤や慟哭をしないで済んだだろう。それどころか、大衆向けでもリルケの信頼を得ただけある!と目を見張ったかもしれない。

思いきり俗な登場人物らにも関わらず、作者の美へのまなざし、人間へのまなざしが、この書物を甘美な陶酔で満たしている。高雅を無意識の内に求める人間性や、金にならない過酷な仕事を引き受けさせてしまう美の魔力が、自然に織り込まれているのだ。

今は失われた技や、金を出しても買えない貴重な何かが当時の生活に同居しており、それらは心地よい感覚で読者を撫でる。

タピスリーに埋め尽くされた装丁も素晴らしい。装丁を繰り返し眺めつつ読み進めれば、くさくさした気分も吹き飛ぶだろう。

ありがとう、シュヴァリエさん、と叫びたくなる書物である。
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by leea_blog | 2008-11-12 23:41 | Comments(0)

俳ラ15ポスター/コラージュ

宮崎二健氏が一晩で作り上げたという噂の「俳ラ15ポスター」、WEB版。
http://haila.seesaa.net/
コラージュの凝り方が、「揺蘭」表紙シリーズに通じる。見ていて楽しい。

「俳ラ」ポスターはデジタル技術を駆使しているが、【揺蘭】表紙は、アナログ技術に頼っている。コンビニでの拡大縮小コピー、ハサミやカッターでの切り抜き、糊での貼り付けなど。
次号こそは、デジタルでやりたい。うむ、前も同じ事を言ったような。

やってはみたが、デジタルだと、「画像の切り取り」だけで疲れ果ててしまうのだ。
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by leea_blog | 2008-11-11 19:53 | Comments(0)

一角獣と貴婦人 美の誘惑、五感の至福

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パリ・国立中世美術館の写真より


クリュニー美術館(現・国立中世美術館)に、一角獣と貴婦人のタピスリーがある。

くらくらとするような代物である。
石の館の薄暗い部屋に、六枚のタピスリーがかかっており、
美術館を訪れた者は、向かい合うベンチに座っていつまでも眺めていられる。

貴婦人たちの姿は、五感を表しているとする説が有力だ。
そして、謎に満ちた「私のただ一つの望み」のタピスリー。

リンクコーナーに、クリュニー美術館を追加をした。
フランス語が読めなくても、画像をクリックしていくと一角獣と貴婦人のタピスリーにたどり着けます。
部分のアップも必見。
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by leea_blog | 2008-11-08 23:33 | Comments(0)