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秀明館  箱根・姥子温泉の隠れ宿 その2

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↑女湯。しめ縄が湯の表面に映り込んでいるのがわかるだろうか。


(昨日の続き)
箱根の日帰り入浴施設、秀明館は、十二部屋しかない。
土日は早めに出かけた方が良さそうだ。

私は平日に年休を取り、朝一番で出かけた。平日はすいていた。
湯治場だった部屋に横になって鳥の声を聴いていると、ここは箱根ではないようだ。もっと首都圏から離れた土地の、湯治旅館に来ているような錯覚。

提示される風景が、違うのだ。箱根は観光地だ。だが、秀明館の景色は、観光地ではなく静かな湯治場の気配。時間の流れ方が違う。

スパでも、観光旅館でも、普通の湯治場でも手に入らない、不思議な感覚。重要度に換算しきれない時間がそこにあった。「これが重要なのだ」と、単純に位置づけるのは、時間の切り売りと重要度の瞬時のしゅん別に慣れきった弊害ではないか。換算や分類を、ともかく投げ出してみる。雑念を湯で清めてみるのだ。大地の深い辺りから昇ってきた湯は、それらを洗い流す。


鶯の声が満ちる。車の音も人の話声も無い。ただ空間の遠近に野鳥の声。
極楽。リズミカルな木の音がした。窓からそっと外をうかがった。きつつきをはじめて見た。トントントントン、と木をつつき、虫を食べているらしい。

湯から上がった疲れた体。人の話し声か、と思ったのは、ぶんぶんと遠くでうなるあぶの羽音と、炊事場跡に絶えず流れる水の音だった。泉鏡花の作品に紛れ込んだ心地がする。

帰りは、岩肌に草木も生えず、噴煙が地獄さながら硫黄臭をたなびかせる大涌谷まで、歩いて行こうと思った。むき出しの土を踏んで歩く機会は滅多に無い。ほとんどが舗装されていて、鉢植え用の土も買わなければ手に入らない土地の住人である私は、土の上を歩きたかった。

が。帰るべく、秀明館の玄関に立った途端に、新緑を叩いて雨が降ってきた。
これは。風邪を引くだけではなく、遭難しそうではないか。

やむなく、大涌谷まで歩くのは次回にした。
秀明館を訪ねられただけで、この度は大きな収穫だったのだ。
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by leea_blog | 2009-04-29 19:49 | Comments(0)

秀明館  箱根・姥子温泉の隠れ宿 その1


東京のスパの残念な所は、源泉掛け流しではない所、消毒薬の匂いが鼻につく所だろうか。

そうは言っても、温泉地でさえ、循環無し、消毒無しの源泉は少ない。湯治は闘いである。薄めた温泉など薄めた酒、薄めた薬に等しい。

ガイドブックに載っていない、マニアには有名な温泉、箱根の秀明館に出かけた。

箱根のロープウェイで芦ノ湖方面に乗り、噴煙の立ち上る大涌谷で乗り換える。その次の駅が姥子だ。
緑深い姥子の、片側には富士の見える露天風呂で名高い、グリーンプラザ箱根が見える。ここの露天風呂は、富士見酒が飲めるのだ。グリーンプラザ箱根の反対側に、どう見ても湯治宿にしかみえない建物群がみえる。他に建物も無い場所だから、結構目だつ。「あんな所に古めかしい建物が。ガイドブックにも載っていないし、どこかの保養所かしら」と、気を引かれて見ていた。そこが、秀明館だったのでした。

昔は旅館だったらしいが、今は日帰り温泉のみで営業。個室、浴衣、バスタオル付きで2300円。3000円、4000円の広い部屋もある。個室にはお茶セットも有り、すっかり滞在湯治の気分だ。

お湯は暗く澄んで浴槽に溜まり、奥の、むき出しの赤い岩に渡された注連縄が、湯の表面に映り込む。ミョウバン泉との事。ほのかに暗い浴室に、高い窓から自然光が差し込む。お社の内側の心地。

ここは、石鹸もシャンプーも使ってはいけない。よく掛け湯をして汚れを落とし、浴槽に入る。

人里離れた山間に、古い湯治宿の跡、注連縄を見上げながら、水垢離のような立ちより湯。これはなかなかくせになる。(続く)



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by leea_blog | 2009-04-28 23:47 | Comments(0)

黄金週間が始まった  高橋源一郎の『文学王』 

黄金の週間が始まった。
成田は出国ラッシュらしい。

私は積ん読状態の本の山から、高橋源一郎の『文学王』を手に取った。

ブログを書いている人は気付いているはずだ。
紙媒体とネット媒体では、読みやすい文、面白いと思える文が違う。見どころが違うのだ。
泉鏡花のような文をブログで読んでも、味わいが伝わらない。紙媒体でネットのような文章を見るのは、退屈だ。

うん? どっちもイケる携帯小説があるだろうって?
文学じゃないので除外だ。高級な物を文学と思っている訳ではないが、文章や文字表現に力点が無いと。

『文学王』は、本や作家の紹介だが、もう、エッセイでも評論でも無い。ブログで山無し落ち無しご免で書いた文の如し。
作中に高橋源一郎に向かって「お前の書くものはなに一つ認めないぞ」と啖呵をきる雑誌編集長が出てくるが、読者にも「こんなん文学じゃないだろ」とぼう然とする人は多いだろう。

私も最初はぼう然とした。
次に、思った。「文学が苦手の人にも、面白おかしく取っつきやすく文学に触れる機会を提示している。バカ文章の振りをして。やるじゃないか」

バカ文章とは? 引用しよう。
『葛西善蔵と口述筆記  —手を抜いたっていいじゃないか—
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「田山さんが、いつかの『新潮』だったかに、僕の『蠢く物』の事をいって、酒呑みのクダのほかに何があるんだ?と言っていられたようだが、蓋し、至言と言うべきである。僕の小説から愚痴とクダと嫌味とをぬいたらなにが残るんだ? 何もありゃしないじゃないか。俺の小説から、愚痴、クダ、嫌味—それを抜いたら何があると思うんだかな。愚痴に始まって愚痴に終わる—クダに始まってクダに終わる—嫌味に始まって嫌味に終わる—そんなものじゃないですか(中略)」「愚痴とクダと嫌味」

な、なんだ、こりゃあ、おまえさん、酔っぱらってんじゃないのお—そう思うでしょうが、ホントに酔っぱらってるんだな、これが。この酔っ払いは葛西善蔵である。ずばり、日本の私小説の神様である。』

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いやいや、葛西善三も凄いが、高橋さんも十分なんだこりゃあだぜ。
えらい、と思ったのは、読み捨てられるブログのバカ文章みたいなノリで、ぐいぐい読者を引っ張って、文学嫌いも葛西善蔵を読んでみたくなるこの持って行き方である。

文学マニアは高橋源一郎氏のバカなノリに意表を突かれて、それはそれで「文学王』のページをめくってしまうのだ。
『文学王』金色夜叉の解説の、「よくいうよな。バカじゃないの。勝手に死ねば?」などなど、ブログ文どころか、掲示板の荒らしみたいな語調がふんだんに盛り込まれている。これで、文学マニアはびっくりして、そのまま一冊読んでしまうのだ。


私もしばしば「文学嫌いにもわかるようなノリで文学を紹介して」と言われるが、意図的にやろうとするとかなり難しいのである。(リクエストが多ければやります)


お得だったのは、高橋源一郎が、『現代詩を書かないが現代詩を読む』作家だったことだ。
あまり知られていないが、現代詩の読者はひたすら少ない。読者=作者=批評家の、人口の少ない世界である。

「書かないが読む、評する」、という人の意見を聞く機会など滅多に無い。
後日引用してみる。
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by leea_blog | 2009-04-25 14:34 | Comments(0)

へいけうたのあかり 平家物語辰巳本のこと



歌人の辰巳泰子さんの朗読を聞きに、新宿のジャズバーサムライに出かけた。

洗濯物も干しっぱなしで駆けつけたが、やや遅刻した。

トレンチコート姿の歌人が、心地よい声で平家を物語っていた。
平清盛の長男、重盛が、武装した父をいさめてかきくどいているところであった。

トレンチコート姿は、物語の進行に従い、ランジェリー姿、着物姿と変わってゆく。


ところで。私は、重盛とその息子達が好きである。
初めて平家物語を読んだ時、はじめの方は半分寝ながら読んでいた。気がつけば、異常にかっこいい人が登場している。その名も「小松殿」。「小松殿って誰?」と、慌てて最初から読み直したのだった。清盛の長男、小松の内大臣、重盛(しげもり)の事だった。

更に保元・平治物語を読んで、若い頃の重盛が戦もできた事を知って狂喜した。

顔から火が出るほど恥ずかしいが、知っているひとから突っ込まれぬ内に自分から言う。小学五年生くらいの時、重盛の出てくるバカ漫画を書いて、クラスの子達に見せて回っていた。真面目な歴史漫画ではない。バカ漫画である。重盛だけ真面目で、他の登場人物、平家源氏双方、おバカなのである。平家一門は延々と滅亡せず、笑いを振りまくのである。
深刻な話は、深刻なだけでは負担が過ぎる。ミハーに息抜きしないと、「死に際哲学」をぶつばかりでは能がない、と当時思ったのかどうかは記憶にない。ちなみに「死後哲学」もぶっていた。死んだら崇徳院のように天魔と化したり、平家一門のように竜宮暮らしをしたり、太平記の連中の如く天狗や悪鬼となって豪勢な暮らしをするのである。限りある人間の身より楽しい、本来の姿に返った生活。


話を戻そう。朗読はどうだったのかって?

良かったんです。重盛が、お父さんの清盛にかきくどいているんですが、深い悲しみに溢れていた。一重詰んでは父の為〜、という地蔵和讃が挟み込まれ、小松の内府重盛は、賽の河原で父恋いながら崩されてしまう石を積んでいく無力な幼子に重なってゆくのですね。

清盛もね、原作でも憎めない人なんですが、辰巳本でも結構良い人で、重盛の機嫌を取ろうとする清盛の様子は可愛かったですね。重盛の死後、哀しみと怒りに沈む清盛も良い。

語りの合間に挿入される辰巳氏の短歌も、物語との相乗効果抜群。

後半の朗読、源頼政一党自刃、宮のご最期も、ともかく深い哀しみの語り口に貫かれ、それは、これ見よがしな哀しみではなく、ひたひたと伝わる血肉を備えた哀しみなのでした。

こうした試みは、小説の映画化にも似て、読者の間には既に個別のイメージや解釈ができ上がっている為、マニアなファンのウケがいいとは限らない。歴史小説は、大抵がマニアな読者の為、突っ込みを盛んに入れながら読まれているだろう。「これはこうじゃないだろ」などなど。

が、辰巳ヴァージョンは、その自然体もあいまって、心を打つ。自分のイメージとの違いを、素直に聴ける。それは特筆したい。

何より触発される。
自分と他との違いは、面白いのである。
では私は太平記を、後南朝の物語を、と思うが、平家物語辰巳本の前には二番煎じの試みとなるのが情けないので、今は純粋に人の朗読を楽しみたい。

そして、平家物語を取っつきにくいと思っている人にも、おすすめできる。よくわからなくても大丈夫。物語の断片も、面白いのだから。
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by leea_blog | 2009-04-21 00:05 | Comments(2)

リルケ/ 神様が嫌いな人にもおすすめ、「神様の話」 


「神様の話」といわれると、何とかして話題を転換したくなるものである。「いかに相手を傷付けずにお断りするか」の、精神的重労働しか待っていないからである。丁重にお断りしても、本気で信心してる相手にはこちらのいらいらが伝わらず、こちらもしまいにけんか腰で相手の無神経をなじる事になる。

が。リルケの短編集なら大丈夫。大いにおすすめなのである。
唯一神が嫌いな多神教徒のあなた。汎神論のあなた。無神論のそこの人。これは読まないと損、とも言えるのだ。

大体、唯一神の宗教は口うるさい。勝手な「お話」を創造すると、権威筋から睨まれて宗教裁判に掛けられたり魔女裁判に掛けられて、、拷問の末火あぶりにされてしまう。自分しか神はいないというくらい、傲慢で了見の狭いお方を信じるわけだから愛の観念はまことに自己中となる。

タイトルで読む気が失せる人の気持ちもわかると言うものだ。

が、この珠玉の短編集は権威筋から睨まれそうな、勝手なイマジネーションに溢れて縦横無尽。民話を元に美しいお話を作ったかと思うくらいである。

「ティモファイ老人が歌いつつ世を去ったこと」「石に耳を傾けるひとについて」「死についての物語ならびに筆者不明の追記」「闇にきかせた話」は必読である。



詩人の本領発揮の、美しい表現に溢れて、それらの描写だけでも舌に転がして味わいたい。
以下、引用して見よう。

「ところが、僕がただいまお話しする時代には、素絹の上に色彩を置いた、明るい絵が一般に愛好されていました。したがって、人々にもてはやされ、さながら鞠のように、美しい唇が、太陽に向かって、投げ掛けていた名前、そうです、その名前はまた、細かくふるえながら、落ちてくるところを、愛くるしい耳に、受け止められてもいましたが、じつにその名前こそは、ジャン・バティスタ・ティエポロだったのです」
「ところが、ある本に、どのみち、古い本なのですが、読みふけっているうちに、うっかり、時を過ごしてしまって、きがついたときには、はやとっぷりと、暮れていました。そのすみやかなことと言ったら、なんだかロシアにおける春の訪れと似ています。つい一瞬まえまでは、部屋の中も、隅から隅まで、見通しだったのに、いまでは、ありとあらゆる物が、ただ薄闇よりほかに、なにも知らないふうを、装っています。いたるところに、暗色の大輪の花が、咲き開いて、そのビロードのようなうてなのまわりを、なごりの光が、さながら蜻蛉の翅に運ばれるかのように、流れていました」(「神様の話」リルケ著/谷友幸訳・新潮文庫)

装飾的な文章も、血が通い、確かな感受性に支えられて柔らかく、新鮮な水が咽喉を下る心地である。

時間の切り売りをして心が疲弊している時こそ、おすすめしたい短編集である。
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by leea_blog | 2009-04-16 00:00 | Comments(0)

辰巳版平家物語、「「へいけうたのあかり」第三弾のこと

次の日曜、歌人の辰巳泰子氏の、辰巳版平家物語、「「へいけうたのあかり」第三弾がある。大変面白そうである。

俳ラでおなじみのジャズバーサムライにて。
あまり知られていないが、ワタクシは平家物語のマニアックなファンでもある。是非出かけたい。
日曜だし、その頃は揺蘭入稿も終わっている(はず)。平家物語にちなんだ歌を一首持って行ってもいいかもしれない。

平家物語や太平記について語りたいお人がいたら、現地で会いましょう。

2009年4月19日(日)16:30から18:00、
JazzBarサムライにて、
「へいけうたのあかり」第三弾。
おおさか弁の平家物語、辰巳泰子本。

【演目】巻四「競」「橋合戦」他。短歌は「辰巳泰子集」他から構成。
【作・出演】辰巳泰子
【合戦曲】加藤尚彦
【料金】1500円(ワンドリンク付)、
【余興】投稿作品の朗読あります。(希望者は一首または一句を当日ご持参ください。内容自由)、飛入の朗読歓迎。
【会場案内】JazzBarサムライ
〒160-0022 新宿区新宿3-35-5 守ビル5F(JR新宿駅東南口階段下り高架沿い直ぐ)
Tel 03-3341-0383
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詳細は以下。
http://www.geocities.jp/tatumilive/utanoakari.htm
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by leea_blog | 2009-04-15 22:37 | Comments(0)

同人誌ご用達の印刷所  

板橋区のコーシン出版に、揺蘭の見積もりに出かけた。
漫画同人誌ご用達の印刷所である。

揺蘭は純文学幻想まれびと冊子であり、同人制でもない。
漫画でも同人誌ですら無く、純文学の中でも超がつくほどマイナーな幻想・現代詩系である。幻想でも、ライトノヴェルや「ファンタジー」ならマイナーではないのだが、断固としてそれらとは違う。

漫画同人誌とは吸っている空気がまるで違う。
が、漫画同人誌の面々の、「安く、早く、きれいな印刷」への熱意は大変なものなのだ。ちょっとでも安くて早くてきれいなら、簡単に他所に依頼してしまうし、安く依頼しておいてせかしておいて、仕上がりがわずかでも良くなければ、二度と来ないどころか口コミで悪評が広まる。文芸同人誌の、「印刷は職人にお任せします」ののどかなノリではないのだ。

コーシン出版は漫画同人誌のニーズに見事に応えている。まれびと冊子であるワタクシども揺蘭も、そうした目利きに支えられた印刷所に、幻霊の如くにすべり込んでお願いしてしまう訳である。編集人りーあが、「安くて早くてきれい」にうるさい為だ。

確かに、金を払えば、それはいくらでも良いものが作れる。が、そこそこでしかないものに金は払えん。一万で一頁程、本人への配布も10冊程度の同人誌が、かなりあるのだ、現代詩は。いや、ギャラの事ではない。参加費である。ギャラ? 無いよ。

(ボランティアで書いているなんて偉いですね、と良く言われる。ボランティアではない。自由を金で買っているのだ。)

詩集が100万円程掛かっても、何冊も出せる人が多い世界である。次の詩集が出せるか否かは、書く能力というより経済能力だ。ワタクシは、自由を買うのに莫大な金が掛かる事に昔から疑問なのだった。国が文化活動に補助金を出せばいいのだが、それはそれで官製視点が支給審査に入りそうで困る。

そのようなわけで、そこそこの仕上がりでしかない自費出版物の一頁に、五千円〜一万円掛かるのは、編集・経理担当の怠慢である。数ヶ所の印刷所に見積もり出す事すら、大抵はやっていないのだから。

さて。印刷所はメールや電話、ファックスでの見積もりもできる。印刷用語が今一つわかっていないワタクシのような者は、現物を持ち込んで見てもらい、相談した方が早い。助言ももらえるしね。

揺蘭だが、表紙の裏に印刷しようとした目次が、目次だけでかなりかかる事が判明した。ページ数を増やす方が安くあがる為、一度持ち帰る事にした。ついでにプリントアウトの文字の薄いところ、印刷で潰れそうな文字の指摘もしてもらった。有効な助言が充実していた。

持ち帰った原稿と、またしばし再格闘だ。
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by leea_blog | 2009-04-11 23:33 | Comments(0)

大人には娯楽が必要だ    聖戦士ダンバインの最終回

揺蘭の編集をしながら、聖戦士ダンバインを見ていた。いわゆる異次元ロボットアニメである。
子供の頃に見ていたが、子供には今一つ面白くなく、途中で見るのをやめた記憶がある。

アニメや漫画は、絵柄との相性が物を言う。話が面白くても、絵柄が好みと合わないと、見られない。ダンバインは、絵柄の相性はまあまあ。好みと会わない所は、頭の中で適当に変換しながら見ればいい。内容よりオープニングを試聴するのが目的だった。

人生に疲れた大人の今、ケーブルテレビの再放送を何となく毎回見て、今夜は最終回だった。
登場人物が全員壮絶な戦死を遂げる。オーラロードを開いてバイストンウェルに帰るのではなく、玉砕なのか。そういう話だったのか。(一応、バイストンウェルは死後の世界で、死ぬ事によって彼らは戻って行ったのかもしれない、という含みはある)

いや、一人だけ生き残る。海と大地の間の国、バイストンウェルの小妖精チャム・ファウである。

登場人物群の戦死も納得行かないが、一人残ったのが小妖精チャムというのも残忍で悲しい話だ。そして、チャムはバイストンウェルの物語を人々に語った後、月の夜にどこへともなく姿を消してしまうのである。

まるでシルマリルの物語である。
シルマリルの物語の残忍さは、主要登場人物達に悲惨が襲いかかった末の相次ぐ戦死だけではない。生き延びてどこへともなく姿を消すマグロールという伶人エルフが居るのである。

一人だけ生き残ってよるべなくさまようなんて、ひどい話だ。

シルマリルリオンは置いておこう。

ダンバインにはそれなりのハッピーエンドを期待していたのに、このいやな後味はどうしてくれる。視聴者の安直な期待を裏切るのは大いにけっこうなのだが、もう少し何とかならなかったのかな。

子供の頃なら、むしろショックではないだろう。「お話」だからだ。伝説巨人イデオンというアニメがあって、これも全員死ぬが、アニメで人が死んでもそれはアニメなんだし、お話なのだと思った。

だが、大人になると、人生が実に残酷であると実感している。死ぬ以外の解決方法が随時必要になって、大人は大変なのだ。安直なハッピーエンドはごめんこうむるものの、ひねったハッピーエンドは、大人にこそ必要なのだった。

子供は、恐怖、残忍、非道な描写には耐性がある。甘口の、都合の良い話はむしろ有害だ。子供には残酷な童話を読ませておいて、大人はひねったハッピーエンドで気分転換しよう。
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by leea_blog | 2009-04-11 01:11 | Comments(0)

花見日和  満開の桜

東京は薄晴れで、暑すぎも寒すぎもせず、花見日和。
折からの風で、花びらが、高みからちらちらと光りつつ舞い落ちる様も美しい。
用事で近所まで来た友人と、光ケ丘公園に「花見ウォーキング」に出かけた。

私の好みの、背の高い桜の木が居並んで、桜の高天上を作っていた。
落ち葉を踏みながら若芽の萌える様を見ながら歩き、さらに凝るような桜、雪のように風にまう桜を堪能した。

光ケ丘駅の方面には出店も沢山出ていた。
「スイートバジル」が一鉢100円だったので、トマト料理用に買った。

新鮮なバジルをベランダから取って刻み、オリーブオイルと塩、胡椒、少々のお酢を掛けるだけで素晴らしく美味な一皿になるのだ。

植物の力がしんなりと心身に入ってゆくような時間だった。
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光ケ丘の桜。携帯にて撮影。しばらくの間この画像をデスクトップ画面にする予定だ。
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by leea_blog | 2009-04-05 00:54 | Comments(0)

新年度と揺蘭の原稿  美しいハンドタオルのこと

新年度が始まった。

新年に何も変わらなくとも、新年度で周辺が激変する人も多い。
辺りは桜。今週末は花見のピークだろう。

日嘉まり子さんから揺蘭の原稿とともに、美しいハンドタオルが届いた。
裏と表で色彩が変わって楽しめる物が、二枚。

濃い桃紅と抹茶色の濃淡が落ち着いた春を表す具合に見入った。身の回りの美しいもので癒される日本人の感性。

揺蘭の編集中だが、突如スキャナが作動しなくなった。ワープロソフトが駄目になったり、原稿が消えたり、修正液が行方不明になったりと、「アナログ界まれびと冊子」の出現を邪魔する小障壁が多過ぎる。

めげずにこつこつと作業を進めている。
発行は五月初め。

大田区で行われる文学フリマに参加予定の為、それに合わせた発行となる。
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by leea_blog | 2009-04-03 22:01 | Comments(0)