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「音」としての詩歌朗読・つれづれ


言葉の意味を追うことを放棄して、脳が捉えた単語を拾うだけで、可、な朗読を試みている。
言葉を音として解放してみるのだ。
半分眠りつつ聴いてもらうのも良いだろう。

朗読会は、朗読を純粋に楽しんでもらう為、テキストは配付しなかったり、朗読終了後に配布したりする場合が多いが、上記朗読の時は、テキストは事前配付の予定だ。

内容が気になって聴く事に没頭できないと困る為だ。

これが、見知らぬ異国語なら、言葉の意味を追わずに聴くだろう。
なまじ知っている言葉だと、頭が理解しようとがんばってしまう。

朗読に向かないと言われる作品も多い。文字の視覚面を重要視したり、耳慣れない言葉が多いと、音声化した時に伝わり難いのだ。

そもそも、言葉は長く引っ張っていると、みんな母音に帰ってしまう。
中世ならともかく、現代では、詩の意味を追いきれないだろう。

「異国の旅先で半睡に陥った時に、壁の向こうから聞こえてくる、見知らぬ口ずさみ」、のような朗読を試みている。作品の意味を追うのは、後で良いような朗読。
朗読というより、「ポエトリーリーディング」。

うむ、ポエトリーリーディング以外に、もっと的確な表現は無いものか。
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by leea_blog | 2009-05-30 17:53 | Comments(0)

「文学という名の幸福」辻邦生   そしてブログ時代の困惑

辻邦生 静謐な死闘で少し触れた、苦労人の文学者に辟易?していた辻邦生の文章を見つけた。いきいきとして面白いので、以下に紹介する。

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当時、小説家になるには、貧乏すること、病気で苦しむこと、女で苦労すること、と言われていたが、私はどれもいやだったから、とても小説家などにはなれないと思った。すくなくとも、こうした「血を吐く思い」をする日本流の小説家にはなりたくないと、つくづく思っていた。しかし文学青年仲間でそんなことを言えば、それだけで、もう文学的才能は無いと思われるような雰囲気だったので、私は小説家になりたいなどとは口にしたこともなかった。まして、そういうような文学青年の集まる同人雑誌に誘われると、困惑の果てに断ったし、文学酒場で論じ合う「血を吐く思い」の文学論はたまらないので、いつも逃げだすことにしていた。(辻邦生「生きて愛するために」より「文学という名の幸福」から)

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当時は、文学を喜びとして読めなかったのだ。そういう発言は、大衆文学的として軽蔑されたとのこと。

私は、どちらかというと血を吐く経験系だ。が、そんなものは好んで実体験しなくてもいい。そもそも、体験した事でしか文学的世界観を広げられないなら、ろくな物ではない。一人の人間が体験しうる事など、一生を費やしてもたかが知れているからだ。

それでも、現代でも、作家の実体験を追う事で作品を理解するタイプの「読み方」、あるいは、「自分をもっと知ってくれ」的な創作姿勢の作者が沢山いる。

血を吐く系の私でも、「俺が俺が」「私が私が」的な昨今の傾向からは逃げ出したくなる。

「見ている物が半径一メートル」、と突っ込みを入れたくなるのだ。

ただ、ブログや日記の繁盛ぶり(?)を見るにつけ、逃げ出していたのが立ち止まって、眺めはじめるに至っている。文字を読む事にかわりはないが、文学ではない、しかし、文学嫌いでもブログの新着記事はチェック、という人は多い。ううーむ。

二つに別れた枝で地面をなぞって、地下の水源を探り当てるというオカルトめいた探知方法が、最近までつかわれていたという。幻想文学というのは、表面はファンタジーめいていても、そういう現実的な物だと考えている。
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by leea_blog | 2009-05-28 21:43 | Comments(0)

なまの時間   朗読のスタジオ練習

インターネットが普及して、
メールもチャットも、画像や音楽のダウンロードも手軽な今。

生身の時間は、どんどん貴重になってゆく。

情報の収集と発信は、ネットで済ませる方が、時間も金銭も掛からない。

しかし、生身の五感、六感は、使わなければ退化する。
使った方が、より多くの物を血肉にできる。

芝居や音楽ライブならともかく、
詩歌朗読という、生ものの中でもマイナーなジャンル。足を運ぶ事は重要だ。
目が、子供の頃からの黙読に慣れてしまっているからこそ。

敢えて言おう。
ただ活字を音読するだけなのは、聞く側からするとちょっと勘弁なのである。
詩人にとって、音声化する必然があったはず。それを伝えて欲しい。音声で。
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by leea_blog | 2009-05-25 00:32 | Comments(0)

雨天・詩歌朗読と音楽の事

音楽の田中一夫氏と、朗読の為の音合わせをした。

ストレスの為、肩と首と背中がガチガチで、腰回りの筋肉が衰えている。まずい。
こんな身体状態でまともな声が出る訳は無い。

原因は、職場のトラブルで寝込んでいる為である。
ワタクシの私生活まで脅かす、人権意識皆無の捏造管理職許すまじ。
自分は指示されてやっただけで責任は無い、等の発言もしている中間管理職も、同上だ。
何を指示されたのか言えと言ってるのだが。

はぁ。日常雑事は音合わせをしている内に何とか頭から消えて行く。

血の味甘し 猛霊の国、と吟じつづける内、自分の課題も明確になる。

ワタクシは、単なる伴奏ではなくコラボレーションを求める。
音楽は詩の朗読に「それっぽさ」を附与する位置づけではならない。
ああだこうだとうるさく主義主張をぶち上げるワタクシに、
田中氏はよく応えてくれました。

音楽脳と文学脳の違いを測りつつ、一人では見えなかった何かが見えてくる。

池袋の貸しスタジオは、順番を待つ若い人たちで溢れていた。活気があるなぁ。
音楽は、「音楽が好きだ〜ぁっ」という気持ちがストレートに力になるから、羨ましい。

今日は肩慣らしと霊感をもらう為、某K.Nさん作詞作曲の歌を歌ってみた。
K.Nさん、作詞作曲にカムバックして〜
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by leea_blog | 2009-05-24 22:19 | Comments(0)

世界俳句協会の事など

激しい雷雨の日曜日。

昨日は、新宿のジャズバーサムライの催し、
【夏石番矢のヴォイス・ワールド
 ~俳句朗読とトークの夕べ~】
に出かけてきた。

二次会の俳人方の激論が、帰宅しても頭の中に鳴り響いていた。
色々考えたが、それは後日機会が有ったら書こう。
昨日私の頭の中に激しく行き交ったのは、コミュニケーション論であって、表現論ではないからだ。

世界俳句協会の事を知った。
お客さんの一人に、入会するよう薦められた。
サイトを見たが、興味深かった! 俳画のコーナーは、大変良くて表現意欲も刺激される。

が。
詩人は孤城の主、お金を払って先生格の方に採点して頂くのは、なじみが無さすぎてとまどった。
非・同人制の揺蘭をやっているのは、結社・同人意識から距離を置く為でもある。

Mさんに誘って頂いてもとまどっていたのは、警戒心からで、他意は無い。
会の内容は大変面白いが、うっかり参加すると後が大変、というのを詩の同人でも沢山見ているからだ。大変、というのは、先生格の人がいて、雛壇式になっていて、中に入ると若いもんの発言権がやたら狭まる、とか、馬鹿馬鹿しい批評を馬鹿馬鹿しい人から頂いてしまう、とか、自分より若い人が入ってくると、駄目作品を書いている人も、弟妹弟子が入ってきたような気になって「上から目線」になる、とか、その他諸々、文学とは関係ない人間の醜悪さに大変な思いをするわけである。

トホホな話は置いておこう。
世界俳句協会のサイトは、無国境で楽しめる。俳画は羨ましい。
詩画にも取り組みたい。
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by leea_blog | 2009-05-24 21:49 | Comments(4)

SNSの感情労働

SNSというものをごぞんじだろうか。
ソーシャルネットワーキングサービスの事である。
利用者同士の情報を共有したり、コミュニケーションの幅を広げる、ネット上のミニ社会のようなもの。
mixiや、GREEが有名だ。

会員の紹介が無いと参加できないところが大半。各自のページには自己紹介、日記機能、コメント機能、メール機能がある。「コミュニティ」と呼ばれる、共通の関心で集まった掲示板が、無数にある。

自分のサイトの更新もままならぬ私が、SNSをやる暇があるのだろうか。無い。

mixiに入った時は、西野りーあの名前を使わずにハンドルネームを用いた。すると、飽きちゃうのだ。自分の筆名(裏の筆名でも良いが)以外で書く日記や書き込みは、自分にとっても重要ではないのだった。

言葉に責任を負わせたい。匿名では、自分も他人も「一見責任がありそうで実は無責任なやりとり」となるのである。興味と根気が続かなかった。

筆名で利用するほどの度胸も無いし、個人を特定されるような事は書けない。

当たり前の事だが、匿名でも、社会性と協調性が求められる。愛想の良い事を言わなければならない。無数にあるコミュニティーは情報収集に役立ったが、掲示板のやり取りを見ていると、人間のネガティブな部分がやたら目に付いてしまう。

感情労働なら昼間やっているので、夜は自分に戻るのだった。そして、アナログの日常の質量を測りつつ、葡萄酒を開けるのだった。
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by leea_blog | 2009-05-18 21:02 | Comments(0)

アナログ界まれびと冊子【揺蘭 】 めまいの宮居  —波—

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めまいの宮居  —波—。
揺蘭過去号の表紙をPhotoshopで加工してみた。
コラージュ・加工/西野りーあ
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by leea_blog | 2009-05-15 23:13 | Comments(0)

揺蘭『漂流ベッド はちす篇』 ちらし


ちらし。 『漂流ベッド はちす篇』
作画・加工/西野りーあ

トースターで炙られるかの真夏日だった。

大田区産業プラザに出かけた。空間の取り方の美しい建物だった。
第八回文学フリマに参加。詩人で画家の横山克衛氏、写真家のS村さんと合流した。

見本誌コーナーという、参加冊子の見本を置いてあるスペースは、立ち読みでチェックしている人がぎっしりだ。そのコーナーには撤収ぎりぎりまで人が居た。
詩歌俳句や、商業誌投稿以外の場所に、文字表現に熱心な人たちがこんなに居るのか。

じっくり見て回るには、時間が足りない。ざっと見て回る程度になってしまった。
ジャンルが本当にびっくりするほど多様なので、目当ての物を探すのが困難だ。揺蘭も、目指す人に手に取ってもらいやすいよう、ジャンルを表示した方がいいだろう。

印象に残ったのは、「幻想文学というと、誰のような作品ですか」と聞かれた事だ。
誰かと似た作品を書く意味があるのだろうか。それは亜流ではないか。「そうですね、西野りーあさんみたいな作品です」とうっかり言いそうになるのを呑み込んで、イメージしやすいようにかなり強引な例を挙げた。
「日本で言うと、泉鏡花。外国ならトールキンでしょうか」
質問者氏は両方ともご存知無かった。

後になって、質問者氏に、誰なら知っているのか聞けば良かったと思った。幻想文学と一口に言っても、高原に霧が広がる如くに幅が広い。そもそも揺蘭は幻想文学と言えるのだろうか。日常にするりと差し込まれるまれびと冊子。まれびとは幻想か? 否。魔術的現実に近い。

そんなこんなと、考えるきっかけをくれた皆さん、ありがとう。
詩歌俳句関係のイベントなら、考える機会に満ちている。が、同ジャンルの集まりで考えるきっかけが満ちているのは当たり前だ。

各ブースの個性を眺めながら、いろいろと感じ、考えた。
少し手を伸ばせば、色々な物がある。求めるものは違えども、新鮮な刺戟がある。
飛ぶように配布が終わるフリーペーパーもしかり。

自宅で好きな時にネットに接続できると、生身で出かけて何かに接する行為は、ますます高価な物になってゆく。質の高いブログ文も、無料ダウンロード文学も、増えているではないか?
それでも埋められない物が、生身の空間にはあるのだ。出会う効率の悪いリアル世界に、欲しい物を探しに行く人々の、静かな熱気。
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by leea_blog | 2009-05-10 22:14 | Comments(0)

遊行小径の追加   そして 文学フリマ宣伝

リンクのコーナーに、歌人の辰巳泰子さんのサイト、作曲家の長谷部雅彦さんのサイト、文学フリマの公式ページを追加した。

辰巳泰子さんは、平家物語の歌人バージョン朗読を展開中、サイトの読みごたえもたっぷりである。

長谷部雅彦さんは、拙作品を合唱・合奏曲にしてくれている。氏のチョイスに拾い上げてもらえた第一詩集表題作は幸せ者である。

他の才能と交錯するあたりから、硬直した日常に豊かな亀裂が生まれて、新鮮な水が湧きいでる。


五月十日は、大田区産業会館で文学フリマという催しがある。
「揺蘭」も参加する。
どんな雰囲気かは、過去ログをご参照下さい。

http://leea.exblog.jp/7926972

現在、開場限定のチラシ図案を作成中。
企画中の合同展の参加者様も、お手伝いにご来場予定。彼女は揺蘭コーナーにて、美しいイスラムタイルの写真を即売する。
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by leea_blog | 2009-05-07 20:56 | Comments(0)

香りの杯 薔薇のサラダ2

とろける色彩。香り立つ花弁のさかずき。撮影/西野りーあ
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by leea_blog | 2009-05-05 21:09 | Comments(0)