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真昼のミントティー


ベランダでハーブを育てている。青々とよく育っている。

梅雨の晴れ間、異様な暑さだった。
低体温、低血圧の私にはいささか酷だった。

モロッコに居る気分になれば、しのげるかも知れない、と、ベランダのハーブを摘んだ。

モロッコでは、市場で新鮮なミントが大きな束で売っている。ガラスのコップに何本も逆さに押し込み、熱湯を注ぐ。待つ事五分ほどで、さわやかなミントティーができ上がる。日本のように、葉を何枚か入れるのではない。茎ごと、束にして突っ込むのだ。贅沢だ。お茶一杯の為に、朝取りミントが大量に犠牲になるのだった。

ミントティーはポピュラーな飲み物で、どこでもお茶感覚で安価に飲める。モロッコ人から見れば、日本の茶は、茶の木から手摘みし、干して煎って湿気ないように密封容器に入れた、手のかかった物を飲む贅沢、と見えるかも知れない。

あまりの暑さに、お湯を沸かして、ミントティーの準備をした。
ここは日本だ、茎ごと押し込むような贅沢は許されない。香り高い葉を何枚か採って、ガラスのコップに入れ、お湯を注いだ。見る見る内にお湯には淡い緑がかかり始める。

その時、いなずまの如く思い出した。ベランダのハーブはミントではなく、バジルだった!!!!!

暑さの所為である。
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by leea_blog | 2009-06-27 18:49 | Comments(2)

贅沢貧乏のマリア/夢の領域と夢の島奇譚

群ようこの「贅沢貧乏のマリア」を読み終わった。

貧乏臭いのが嫌いで、美しい物を好む森茉莉の部屋生活は、多くの読者の憧れだろう。が、なかなか凄い

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「ああいうのって、いいですよね」
私はある編集者にそう言った。すると彼女は、
「でも実際は、すごかったらしいですよ」
と声をひそめた。(中略)

その後、茉莉は住み慣れた倉運荘の取り壊しに伴い、新しい住まいに引っ越すことになる。小島千加子氏の『作家の風景』という本に、その一部始終が書いてある。引っ越しのために公にさらされた部屋の中は、小規模な夢の島と化していた。

群ようこ著「贅沢貧乏のマリア」より。
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アームチェアが埋もれるくらい物が重なり、アームチェアの足元のゴミが土と化して脚を固定し、びくとも動かない有り様が、一例として出てくる。

しかしまぁ。夢の島とは、余計なお世話な表現ではないか。
私の部屋もかなりの凄さだが、住人にとっては狭いのを除いて問題無しなのだ。

まったく、有名になると他人に何を言われるかわかった物ではない、と気の毒になるのである。森茉莉の夢のような生活=実は夢の島状態、というギャップで買い手の注意を引こうと言うのだろうか。ううむ。

大体、散らかっているよね、表現者系の人たちの部屋。やる事や注意を向けるべきことが、他に多過ぎるのだ。勝手に掃除されると、どこに何があったかわからなくなるし。

さて、この本の面白い所は、森茉莉のファンだった群ようこ氏が、だんだんと冷静に、自分の日常を顧みつつ森茉莉を見てゆく所だ。

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学生の頃から茉莉の本を読んでいるが、最近は歳をとって行く者のひとり暮らしについて考えるようになった。本だけを読んでいると、茉莉の感覚のおこぼれにありつけるので、うっとりしたり笑ったりしている。ところが周辺の人々の苦労もわかるような歳になると、
「こりゃ、自分さえよければいいというわけには、いかないんじゃないか」
と首をかしげてしまうのだ。
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ははは。群ようこ氏のまっとうさに、ほっとする。

が! やっぱり、人はそれぞれの役割がある。よい文学を書いて、性格も良ければ言う事は無いが、天はニ物を与えず。べつに、良い作品を書いているなら、あるいは書くかもしれないなら、奇人変人、どうしようもなくたっていいではないか。

正確には、私はそういうものだと思っていた。
ゴッホが自分の耳を切り落としてゴーギャンに送ったりと、子供の頃からそんな話を聞かされているので、茉莉さんなどは大して迷惑を掛けた内に入らない。

 無くて七癖。迷惑はお互い様、で行こうではないか。
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by leea_blog | 2009-06-24 22:59 | Comments(0)

夜の帰宅にくちなしが香る  甘い季節

夜の帰宅にくちなしが香る

辺りが闇に沈むぶんだけ、香りが際立つ。
遠くからも香る、山梔子。
路地を曲がれば、緑濃い闇に、ほの白く浮き上がる、造花と紛う山梔子の花。遠くと近くでは香りの気配も異なって面白い。

この季節は甘い。百合の香、薔薇の香。雨の香、土の香。
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by leea_blog | 2009-06-23 21:59 | Comments(0)

森茉莉という快楽 /贅沢貧乏の美意識


『贅沢貧乏』。
高校生の頃、同じクラスのひろさきくずみに、「りーあさんの将来を見ているようだわ」と薦められた。

私は、『枯れ葉の寝床』で、文章の魔力にくらくらする一方、しょうもない美少年と美中年の濃厚な世界に、困惑していた。ボーイズラブ小説の草分けである。今のボーイズラブ・やおい小説のような露骨な描写は無いが、雰囲気が激しく露骨であった。露骨な描写は単に露骨な描写でしかない。エロティシズムは、別の所にある。脳の中である。森茉莉はそれがよくわかっていた。

私は、貧乏は懲りている。贅沢したいとは言わないが、貧乏暮らしはストレス暮らしだ。

『贅沢貧乏』は、貧乏臭いのが嫌いだが勤勉も嫌い、とろけるような怠惰と独自の美意識で日常を『私の美の世界』と化す、森茉莉の生き様であった。

森茉莉は必読である。が、長い小説やエッセイを読むのは面倒、という横着な人々にも朗報だ。

森茉莉のエッセンスを集めた森茉莉語録、『マリアのうぬぼれ鏡』という文庫本が有る!

筑摩文庫の紹介文、以下。
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「女というものにとって、うぬぼれ鏡と、褒め手とは絶対に必要なものである」「濃い薔薇色の、縞のある敷布と、深いオリイヴに薄茶の小もようのある掛けぶとんとの中に、私の天国が、あった」…毒舌とユーモアだけにあらず、好悪の精神とそれを表現しきるレトリックの芸は追随を許さない。どこから読んでも刺激的な、極めつきの森茉莉語録。文庫オリジナル。

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語録が取っつき難いと感じる人には、『贅沢貧乏のマリア』(群ようこ著)があります。角川文庫の紹介文、以下。
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昭和62年、安アパートの自室でゴミの山に埋もれて孤高の死を遂げた作家森茉莉。父森鴎外に溺愛された贅沢な少女時代。結婚、渡仏、離婚などを経て自立。 54歳で作家となり、独得の耽美な小説世界を発表した後半生の貧乏ぐらし—。「精神の贅沢」を希求し続けた84年の生涯の頑なで豊かな生き方を、人気作家群ようこが憧れとため息をもってたどっていく全く新しいタイプの人物エッセイ。
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携帯世代にも読みやすく、群ようこが案内してくれます。群ようこの人生観も織り込まれて、笑えます。


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「私にとって『贅沢貧乏』の茉莉は憧れの人であった。でも今回、結婚生活という、他人や他人の家族とかかわりあう話を読んでみて、私はこの人とはお友だちにはなれそうもないなと、ちょっと感じはじめたのである。」(『贅沢貧乏のマリア』より)
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才能深い人は意外と付き合いにくいものです。
群ようこさん、そういうところも受け入れないと(笑)。
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by leea_blog | 2009-06-19 22:32 | Comments(0)

SNSの感情労働 /その2   文学病から見た携帯詩の世界

SNSの感情労働 /その1は、こちらです。
  ↓
http://leea.exblog.jp/10265247/

知人の誘いで、SNSのGREEに登録した。
携帯でアクセスしている人が大半という点が特徴だ。

小さな画面に、コミュニティのタイトル、メール、伝言、自分の書き込みに対する他者のコメントが、刻々と変化しつつ映し出される。

パソコンのSNSにも付いて行けなかった私なので、携帯からのSNSに、早くも引いてしまっている。
世界が小さい。しかもどうでもいい事ばかり。
小さくてどうでも良くない事なら大歓迎なのだが。
面倒くさいから文庫本でも読みたくなってしまうよ。。。。

GREEで、携帯小説ならぬ携帯詩に遭遇した。
携帯小説と硬派幻想文学くらいに、
携帯詩と現代詩は隔たっている。

つまり、携帯詩は、文学として何かを提示する事を、まるで目的にしていないのだ。
好意的な感想以外、コメント禁止のところがほとんど。
表現は練られていないし、構成も適当、語彙も少ない。
言葉への愛より、自分への愛ではないか。。。。。。。。

いやいや、けなしているのでは全く無い。
携帯派にとって、「詩」は自分の感情を伝える手段なのだった。
そして、本名も知らない見知らぬ誰かと、絵文字たっぷりの短いコメントで繋がる手段。

「私」という一人称が、決して「西野りーあ」ではない、自分の願望でもない、物語の主人公でしかない「文学の世界」とは、果てしなく離れている。

携帯詩を立て続けに読み、それら作品へのコメントもひたすら読み、
めまいをおぼえて後ずさった。こ、こ、こまった。
「詩」と区分けされる表現なのに、もはや宇宙の果てと果ての心地になった。

だが!

現代詩の中にも、携帯詩のような作品が増えていないだろうか?
ブンガク脳のワタクシのような者も、「これって詩じゃないじゃん」とか困惑するばかりではいけない。

携帯詩はコミュニケーションの手段なのだ。そして、日記を行分けしたようなゲンダイシも、作者はコミュニケーションを求めているだけなのかも知れない。。。。。

小説より見やすく、コメントもしやすい感情表現としての、詩かぁ。
あるいは、日記としての、詩。。。。。。
コミュニケーションツールの進歩により、詩という形は、ブンガク以外の目的で盛んに書かれ、読まれているのだ。

「古語を使おうと七五調を使おうと、現代人が書いたら現代人の感性以外の何物にもなりえない。それは現代人の書いた詩としての現代詩である!」と、譲らなかったワタクシも考えた。

現代人の感性云々言うなら、現代詩以外の携帯詩の方が、「現在的」である。現代ではなく、現在なのだ。

ワタクシはブンガクフェチなので、日記としての詩は、書くのも読むのも他人にお任せしたい。
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by leea_blog | 2009-06-16 00:55 | Comments(2)

詩的映像と楽の音、神話の時間/silence 『サイレンス』  モフセン・マフマルバフ監督

美は人を癒す。ついに手に入れました。

『サイレンス』。イランのモフセン・マフマルバフ監督の映画作品だ。瑞々しい詩的映像とほとばしる楽の音。

美少女ナデレーの華麗な民俗衣装は、平安時代の貴族のごときシルエット。姿も此の世の者離れして美しいが、所作も美しい。

特筆すべきは、音楽。雑踏に紛れる楽の音に魅かれて、主人公の盲目の少年コルシッドはついてゆく。そして道に迷う。残忍だが美と躍動に溢れた此の世の迷路に。少年に寄り添い導くナデレーは人に身をやつした精霊か。楽器職人の親方の所にいるが、仕事と言ったら職人達に水を配る事、少年の調律の手伝いをする事くらい。四つに分けた神々のようなお下げ髪と、優美な衣装、色を差した爪は、工房の下働きというより王宮の侍女見習いか高位の女官の娘。はたまた王女か、巫女。精霊。

そして赤い衣の巡業の楽士。少女と同様に、此の世の者ならぬ気配。
人柄も音楽脳とでも申しましょうか。浮き世離れしております。家賃を払わないと大家に追い出される、という主人公の差し迫った状況に、「君の家に行って大家さんに演奏を見せて許してもらおう」と解決策を提示するのでした。にこにこしつつ。「みんな音楽はすきだよ」、と。コルシッドやナデレーのような子供すら、大家が音楽よりもお金を愛しているのはわかるのに。

そんな提案は此の世の現実に効果は無いよ、と言わんばかりに、コルシッドのお母さんは大家に、荷物ともども家から出されてしまうのだ。そして、コルシッドは遠くに行く決心をする。残されたお母さんはどうするのだ? 楽士達に馬の音楽を頼み、その音楽に合わせて駿馬の如く水際を走り去る盲目のコルシッド。

さて、その赤い衣の楽士。良い物を聞き分ける心を持つ者を、楽の音で引きつけ、そのままさらって神隠しに遭わせてしまう精霊の伝説のような。

古来、妖精、精霊が人間をさらう場合、どうでも良い者は選ばない。さらわれる者は、彼らの世界と美を理解する能力を持った、選ばれた者なのだ。

攫うほどアグレッシブでも無い巡業楽士は、此の世でも浮世離れした生き方で、金も追わずに水辺で動物達を呼び寄せる。オルフェウスか。サイレンスは、それらの意味で、神話の原形に忠実な作品とも言える。

神話伝説嗜好が無くても、もちろん堪能できる。立ち並んでパンを売る女たちの華麗な映像、くだもの売りの娘らの衣と瑞々しい果物の映像、チャイハネで悠久の時間の一部のようにお茶を楽しむ人々、チャイハネで歌う吟遊楽士、バスの中の美しい小学生、民俗楽器を学ぶ子供たちの色とりどりの姿、市場の情景、水際で鏡を見る民俗衣装の美少女、それらをぼんやり見ているだけでも素晴らしい。

有る物から美を抽出する、生き生きとした感性。本来の力を蘇生させてくれる。

エイガ・ドット・コムにリンクを張っておこう。http://eiga.com/movie/1653/critic
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by leea_blog | 2009-06-13 16:17 | Comments(0)

だらだらまいにちのススメ←リラックマとストレス女性

だらだらまいにちのススメ 。これは「リラックマ生活」、という本のサブタイトルである。

リラックマは、女性を中心に愛好者が広がっているキャラクターで、だらんとした生活をまったり送る、着ぐるみのようなクマである。

リラックス熊の意味で、ルネ・ラリックの熊、またはラリっている熊ではない。

先日のお誕生日メールにも、リラックマのデコレーションメールを頂いた。ワタクシの周囲の、リラックマ愛好者は増えるばかりだ。ううむ、だらだらしたいけどなかなか出来ない人が増えているのだろうか。

勤勉で名高かった日本人は、だらだらした生活態度を「だらしない」と決めつけがちだ。

だが、化粧し身だしなみを整え、通勤ラッシュの電車にのり、仕事をこなし、同僚、上司、部下との摩擦に悩み、セクハラをかいくぐり、嫌がらせと闘い、ご近所と上手くやり、洗濯、炊事、掃除をやり、フィットネスに通い、と、普通の生活をしているだけで、高ストレスの連続だ。

常に戦闘状態である。その割には、誰でもそうであるように、人生は思うようにならない。

ねころがってだらだらした生活を送るクマから「まあいいじゃありませんか」と言ってもらいたいのである。
クマのセリフが丁寧語のところも、ミソだ。

これは、うさぎやリスなどでは駄目だ。
小動物は可愛いが、小動物に「まあいいじゃありませんか」と言われても、
相手を心配させまいと「そうだね」と社交辞令がでてしまうだろう。

リラックスするのは、相手ではなく、自分でなくては。これは、時代の要請だ。
ヒーリング音楽を聴き、リラックマのイラストを見てでも、チルアウトする必要が有るのだ。

戦闘モードを強制解除するために、だらだらをススメてもらうのである。
丁寧な言葉使いで。
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by leea_blog | 2009-06-11 01:05 | Comments(0)

真珠の月  誕生日月間-自分へのプレゼント


6月6日は、ワタクシの誕生日でありました。

お祝いメールを下さった皆様、ありがとうございました。嬉しかったです。
インターネット海の辺境、このコーナーを見て下さる皆様にも、深く感謝を申し上げます。

現在に至るまで、本当に色々な事が有りました。
懐かしく思い出されます。

これからも色々な事があるのでしょう。
よろしくお願い申し上げます。


さて、日ごろ自分に厳しいワタクシですが、今月は自分にプレゼントをしまくる事にしました。
ひと様にもお世話になっておりますが、自分にもお世話になっているのであります。それも忘れちゃいけません。

マンダラスパや、部屋で温泉に浸かれるホテルの一室などもプレゼントし、自分に大変喜ばれました。
栄養に配慮するたちの自分ですが、今月ばかりは、ジャンクフードやスナック菓子、偏食も好きなだけオーケーにしてみました。

体に良くない事は律して欲しいものながら、自分にはたまに甘くしないといけないなぁ、とつくづく思った次第です。自分は長女で甘え下手だしね。

頭を空っぽにする時間は、自分にも必要なのですね。
ただし、表現活動だけは、さぼるのはいかがか。かえってストレスを溜めるからでございます。

マイナスイオンたっぷり、しかし湿気がひどいこの月、皆様もくれぐれもご自愛のほど。

水底で真珠の如くのんびりつやつや丸まりつつ、夏を迎える体力を養いましょう。
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by leea_blog | 2009-06-08 23:32 | Comments(0)

都市部の非日常 /汐留のマンダラスパ


前回のあらすじ
アジアのリゾートスパに行く体力も時間も無い。仕方ない、割高だが日本のスパに行ってこよう。


今回
そのようなわけで、マンダラスパに行ってきた。バリ発祥、南国リゾート地を中心に展開する、名門スパである。日本にも上陸し、汐留のホテル、ロイヤルパーク汐留タワーに入っている。
公式サイト

http://www.rps-tower.co.jp/mandara/index.html

日本のマンダラスパは、海外のマンダラスパより良い、と評判だったので、一度行きたかったのだ。

ハイドロバス(サウナ付き)と、飲み物が自由に飲めるラウンジがある分、確かに海外のマンダラスパより、疲労回復度が高い。施術直前に来て、終わったらさっさと帰る、という物でもないのだ。精神的な疲労が強いTOKYOのOLのニーズに応えるかのように、「ゆったりした時間」を楽しめる。

ハイドロバスだけでも五千円する(!)のが難点。施術を受ける場合は、ハイドロバスとセットになっている。


首も肩も背中もガチガチで、鉄筋入りかと思うほど凝っていた。イランイランの香り立ちこめる施術室で、スパイス系の香りのオイルを使って、背中一面と首回りをほぐしてもらった。
吐き気と腹痛もひどく、目も痛かったのだが、目の奥の凝りも取れた。
精神的ストレス性の身体不調に、整体、マッサージは、薬物よりも即効性が有る。何の魔法だろうか、と思うほど、効いた。両足の長さが違う(骨盤が歪んでいる)のが、きれいに揃った。

お値段は張る。が、私の医療費はもっと掛かっているのだ。医療費は治っても元に戻るだけだ。金銭をどぶに捨てるようなもの。それに比べれば、スパ系は、ホリスティック。自然治癒力、免疫力を高めるので、前より全体的な事が底上げされるのだ。西洋医学よりも私の価値観には合っている。

汐留のマンダラスパは、お値段の敷き居が高い分、人口密度が低い。施術は、ラクーアや庭の湯等に入っている店とは技術にかなりの差がある。接客も、海外のマンダラスパに劣らない。ここは異国か?と思うほどだった。チップを渡さないでいいのかなぁ、と一瞬心配になった。

帰り道では、目の奥の凝りが取れたため、辺りの景色がくっきり見えた。頭痛と胃痛が消えたので、ファーストフードの食べ物すら美味しく感じた。

海外のスパの良い点は、細部まで本物らしい所だ。日本では、工夫したところで、ビルの一室の「アジアンリゾート風空間」でしかない。たとえば、日本情緒を出そうとして障子を使うとする。日本人にはそのメリットや必然性がわかっていて使う事が出来る。日本の空気まで表そうと思えば出来るのだ。空気の再現と必然性の熟知。これが本物らしいか「○○風」かの違いだろう。

本物のアジアンリゾートに恋い焦がれる身には、現実に帰らせる部分が目に入ってしまう。
ああ、この恋い焦がれる気持ちがエネルギーになるのだ。
病状が良くなれば、南国でスパ三昧も出来るではないか。がんばるぞ。

体調が整うと、考え方まで前向きになる。脳から、全身の自然治癒を促進する物質が出ているのではないだろうか。
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by leea_blog | 2009-06-04 21:29 | Comments(2)

癒しへの欲望の事


南国のスパ。夜鳴く鳥。めまいがするほど欲しい、と気付く。

風が渡る海際のスパにたどり着く為に、欠けているのは時間と体力だ。
金は、その辺を掘れば出てくるだろう、きっと。
出てこなければ、身の回りの品を売ればいい。
人生は短い。

まだ午前の日差しの中で、挽きたてのスパイスが香るスパの入り口に立つ、あの心地が懐かしい。朝の光に鮮やかな、南国の植物。時間が溶けてゆくのだ。たおやかな手が、香り高いオイルを肌に伸ばしてゆく。生の切り花が水に浮かぶ。はちす。

疲労が溜まると、時間の感覚が、血管に老廃物が詰まったように悪く凝る。ああ、疲労を溜めてしまった。

日本のスパを探せば、海外に出かけた方が安く上がる価格に哀しくなる。よい空気と鳥の声と緑と水と、的確な施術は、日本では高く付くのだ。

海外? うむ、時間と体力が無い、、、、とまた堂々巡りになってしまう。
治療と思って日本のスパに行く事にしよう。
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by leea_blog | 2009-06-03 00:34 | Comments(0)