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大晦日だ。  政権も変わったし、と言う人多し

大晦日だ。
今年もあとわずか。

新年が近くに来ている。

大晦日のデパ地下は大変な混雑だった。
いつもは行列などない店にも行列ができている。帰省土産を求める人たちだろうか。

都内居残り組みの一人、ワタクシはデパ地下の混雑振りに驚き呆れ、買い物せずに通過するだけにした。何しろ、2日からデパートはやっているし、近所のスーパーは元旦の十時から普通に開店する。

年賀状の葉書が足りなくなったのでヤマダ電機に出かける。
旧三越池袋店跡に入居しているヤマダ電機の売り場の広さにびっくりする。
ここもかなりの人出だ。

帰宅し、年賀状を印刷している途中でインクが無くなった。
続きは元旦にやろう。新年の息吹と共に、「あけましておめでとうございます」と書きたい。

ところで、昨日知人から電話が有った。
元気かと聞かれたので病休中だと話した。知人の知人はうつ病で自殺したと言う。話の流れで、「ああ、私も何カ月か前しようとしたよ」の話しになった。
知人は「自殺は利己的だ」という。「いや〜、自分の為だけではなく、世の中が少しでも変わるように、ニュースになるような死に方します」「何も変わらないよ。(断言)官僚は社会主義だから」

官僚と言うよりウチは下っ端役人の世界である。末端役所の管理職が政治家並みに自分の悪さを一職員になすりつけるのが、我慢できないんだってば。演技付きで捏造話を展開するのを目の当たりにした私としては、猿から「お前は人間じゃない」と言われたくらい腹を立てている。職場が突然、動物園と化したのだ。いや、動物に申し訳ない。動物はもっとシンプルな生き方をしている。

以前、この知人には「金銭絡みで名誉を傷つけられても生きていたいような奴は、卑屈だ」と心情を打ち明けた。今も、その思いは変わらない。被害者が自殺もせずに出勤するのは、加害者との闘いの一部である。

人は言う。「政権も変わったし、様子を見て見ようよ」。
この時期、政権が変わったことに何らかの期待感を持っている人は多い。内閣支持率が急落したとはいえ、今まで長年存続した壁が崩れて行く心地の人は依然多いだろう。

とりあえず、新年は、三日までは文学のことを第一に考えるつもりだ。
四日からは、また別の風が吹くだろう。
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by leea_blog | 2009-12-31 21:35 | Comments(0)

職場と言う名の戦場

職場は、私にとって、生活の糧を得る為の場所である。

普通に仕事をし、出世欲も抱かず、日々誠実に仕事をこなしているわけだが。

実の所、戦場でしかない。

しかも、背後から撃たれるような不快な戦場だ。
背後から撃つ人は、手柄を自分のものにする為であったり、いくばくかのなにがしかを懐に入れる為であったり、動機は様々だが、自分が撃ったとは言わず、他の人が撃った話をでっち上げる。

私を撃った者は、私の息の根を止めるだけの技量が無かった。
血まみれになりながら振り返り、自軍の指揮官になぜ私を狙ったのかと詰め寄る。

参謀本部からの指示らしいのはわかったが、なぜ私を後ろから狙い撃ちに?
善意でやったとか、どんなまぬけでも失笑を禁じえないような言い訳をしてまわっている。
善意で撃つかよ、この狂人。

満身創痍のワタクシは、抑うつ状態との診断書を庶務課に持って行った。
「釈然としないだろうけれど云々」とおっしゃる庶務課長に
「釈然としない? これだけ明確に違法行為が行われて、私の発言まででっち上げられている。
これで寝込まない奴はいませんよ」と。

当該加害者の鼻の穴に針金を突っ込んで、くさった脳みそを掻き出して監察に回したい。

しかし、つくづく思う。企業戦士という言葉が有るが、戦士は仕事をするだけではないのだ。
思わぬ所から思わぬ手段で足を引っ張る、同僚や上司からも身を守りながら仕事をしなければならないとは。
仁義無き軍隊。

自分が経験するまでは、ドラマか小説の中の出来事と思っていたが。
実際はそういうことが多いから読者の共感を呼び、ドラマや小説になるのだなぁ、と。
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by leea_blog | 2009-12-30 01:41 | Comments(0)

テレビのデジタル移行反対。。。。。。

消費意欲が湧かない。

今年は賃貸住宅の更新の年で阿呆みたいな出費があるので、消費意欲があったらあったで困るのだが。

もうじき新春バーゲンだというのに、ワクワクしないのだ。ドキドキするほど欲しい物があって、買い物をする、健全な歓びが、今、無い。

消費意欲が落ちる→企業が儲からない→不景気。悪循環だが、つつましく暮らす、という意味を噛みしめ直すのには最適の状況だ。

そんな「つつまし」意欲が高まっている中、ケーブルテレビの案内に、来年春でアナログ放送を打ち切る、とあった。うっそー。地上波のデジタル移行はまだ先なのに、早過ぎるだろ。

ウチのテレビは、まだまだ使えるし、不満も特にない。
デジタル移行するから買い替えてね、と言われても、「新しいのが買える♪」という気分には到底ならない。買い替えたくないよ、と腹が立つだけだ。

ケーブルテレビが来春でアナログを打ち切るなら、アナログのウチは対応できないので契約は解除するしかない。客の都合より自分の都合を優先させる企業と、お付き合いしたいと思わないもんね。
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by leea_blog | 2009-12-28 20:59 | Comments(0)

電車の中の読書プチ復活のきざし

いっときは、電車に乗るとほとんどの人が携帯に向かっていたものだ。
溜まったメールの返事、データの整理、乗り換え案内と格闘中、携帯ゲーム。。。。。。。

が。このところ、本を読む人の姿が増えてきた。
大変嬉しいことだ。

文学はもう一つの体験、なのである。

味わうに足る文章は、アナログ世界にまだ生き延びている。
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by leea_blog | 2009-12-27 00:13 | Comments(0)

赤い葡萄酒とローレライ伝説。東方の夢。

聖誕祭ということで、久々に血の如く赤い葡萄酒を飲み耽っている。

心地よく酔った。

基督の血、赤葡萄酒で酔いが回り、血行が良くなって人並みの気力が出た私は、思い切り「ローレライ」を口ずさんだ。なんで「清しこの夜」じゃないのだろう。そうだ、ワタクシは異教徒だからだ。

異教徒は基督教以前の神々を讃えるのである。
ついでに吉利支丹の皆さんの弾圧の歴史にも敬意を表する。
神が殺される話は、異教徒的に大変共感できる。

そして、聖人聖女の皆さんが拷問を受け、公開処刑されてローマ市民の娯楽となった凄まじい歴史も、共感できる。まことに葡萄酒は私の愛するディオニュソスの賜物である。異教の基督教徒にも共感できちゃう。

ところで、葡萄酒を造るさい、収穫した葡萄を素足で踏んで潰した。
単純労働なので中々辛い。で、吟遊詩人が即興で同じ節に異なる歌詞をつけ、歌い、それに併せてリズムよく葡萄を、娘達が踏みつぶした。

昔、録画されたそのワンシーンを見たことがある。
ホメロスの「ムーサよ、歌え」同様、私の心の故郷に激しく訴えた。

録画技術が有る時代でも、ディオニュソスを讃え、素足で葡萄を踏みつぶし、北欧のエルフのいくさの舞いさながらに、詩人が即興で歌い続けるのだ。血が騒がないわけがない。知っていたけど見たことがない物の一つだった。

私がギリシアを訪れたさい、地元の音楽屋をしらみつぶしに回って、置いてないか聞いたのは、アポロンを讃えるイエーパイアーンの歌と、ディオニュソスを讃えるティチュランボスだった。「知らない?ギリシアでは有名な古典ではないのか?」と落胆する私に、「あんた学校の先生か」と突っ込みが。ううむ、外人が日本の通行人に信長が舞った「敦盛」の売り場を聞いたり、源氏物語の詳細を聞いたりするのとおなじことだったのだろう。

古代のアゴラで、日向ぼっこする亀をひっくり返し、自分も仰向けに古代の大理石に身を横たえて和んだあの時間が戻ってくる。

は〜れるや、はれるや、はれるや、はれる〜や。
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by leea_blog | 2009-12-24 23:02 | Comments(0)

聖誕祭  —冬の魔力への対抗の祭り—   

毎年のことだが、吉利支丹でもなんでもないワタクシには関係がない。

街のイルミネーションが美しい、というだけだ。

そもそも最新の説では、基督の誕生日って12月じゃないらしいし。

だが、一説によると、キリスト教以前の原始的な祭祀の名残とも言う。
冬の力が一番強まる時期に、冬の力=闇の力に対抗する為に祭を執り行っていたとのこと。
古代の宗教と新しく来たキリスト教が混じりあって、聖誕祭として祝っているというのである。

段々日が短くなって、寒さもつのり、この冬を越せるのだろうか、という古代の人の心細さ。

私も、アロマキャンドルに火を灯し、血のように赤い葡萄の酒を玻璃の杯に汲んで、最大になる冬の力に対抗するとしよう。

そして程なくして、新たな年がやって来るのだ。
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by leea_blog | 2009-12-24 21:34 | Comments(0)

桑原弘明展、手のひらの小宇宙のこと。暮れの銀座のにぎわい

銀座のスパンアートギャラリーに、桑原弘明展を見に行った。

普通の絵画、立体作品とは違う。暗幕を垂らした展示スペースの壁に、小さな箱が取り付けて有り、観覧者は箱の正面の小さなレンズから中をのぞく。作品の傍らに立ったスタッフが、白手袋の手にペンライトを持ち、作品の別のところからライトを当てて、中の光景を変化させるのだ。

レンズの向こうには、バルテュスの部屋、デュシャンの部屋、巨大な天球儀を囲んで椅子の並ぶ部屋、石がはがれ落ちた廃虚の廊下などが。

大変美しく、心地よい部屋が、ペンライトの灯によって夕暮れになったり、夜になったり、別の部屋の人影がみえたり、変化を見せるのだ。さてその小宇宙は、凝縮された少年の夢のごとし。

ちょっと、こちらで画像をご覧いただきたい。
  ↓
http://www.edogawa-art.jp/scope/index.html

暗幕の内側は大層な人出で、暗い中で並んで箱をのぞく順番待ちをしなければならないが、その甲斐は有る。

さて、この展覧会は、見せ物小屋のように開演時間が決まっている。
少し早く到着し過ぎた私は、暮れの銀座・有楽町界隈をふらついた。

賑わっていた。
有楽町駅前にある交通会館には、地方物産店が沢山入っているのだが、どこも混雑していた。
沖縄県の特産品を扱う店も近くに有り、ハブ酒を買おうと思ったが、酒は重い。展覧会の帰りに買おうと思って、そのまま忘れてしまった。

それにしても、みんな、何しに出てきているのだろう。
銀ぶら? 買い物? 画廊巡り?
何となく華やいだ人々のいでたちが、クリスマスが近く、大晦日と新年が近いことを感じさせた。 
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by leea_blog | 2009-12-20 00:07 | Comments(0)

炎なだれる時間 聞き慣れぬ歌心地よい —妖異の時代と、ハーンの日本の面影—

12月6日の朗読イベント「妖異の時代〜百物語2009〜」では、リハの結果削除されたり、新たに投入されたりしたメニューがあったわけだが。

当日、音楽の田中一夫氏は「やる予定?」の状態で、私は「感触が【あまたのほむら重ねて来たれ】と似てる為削除」とした出し物がある。
【花のかんばせ—天蛇のごとく—】という詩だ。

これの最後に、以下のようなリフレインがある。

炎なだれる時間 聞き慣れぬ歌 心地よい
  見知らぬあたりに帰ってゆくから   
      見知ったあたりに帰ってゆくから

聞き慣れぬ歌、つまり日ごろ聞いているものとは違う音楽、あるいはそのまま「歌」でもよいが、そうしたものが、単に体験を憶えているより深い所にある、霊的な記憶を呼び覚まし、見知らぬあたり=見知ったあたりに橋がかけられ、帰還する心地になる、そうした連だ。
(少なくとも、表面の文字的意味合いは)。

朗読イベントのテーマには合っており、リハも何度かしたが、結果、割愛した。

ラフカディオ・ハーンの【日本の面影】を、少しずつ読み返す内、はたと気付いた。

お客さんのRYOU氏が書いて下さった感想は、まるで昔からゆりのうたたねを読んで下さっているかのように、まさにその点を突いているから、余計にありがたかったのである。ちなみに氏は、ワタクシの「謎の友好関係」の一人であり、互いに詳細は知らない。

ハーンの【日本の面影】は、親密な優しいまなざしで異国日本の日常を、明治時代の外国人という他所から来た人の視点で丹念になぞってゆく、味わい深い随筆である。

そのなかの「門つけ」。三味線片手に家に歌いに来た庶民階級の女の歌に心を激しく揺すぶられ、ハーンは自分がなぜ揺すぶられたのかという部分に降りてゆく。そして、唐突に、二十五年前の夕暮れにロンドンの公園で聞いた「さようなら(グッドナイト)」という声を思い出す。その声を思い出すと、それとともに楽しい気持ちと苦しい思いが同時に沸き起こるのだが、それは、何かの記憶に基づく感情なのは確かながら、ハーン先生は、その記憶は「この世に生きているわたし自身のものではなくて、前世のものなのである」といきなり言ってしまう。

一神教の習慣の中で生きてきたはずの異人さんが、前世の記憶。うむ、疑いなく、偉大なひとであるが世間的には「変なガイジン」に見えたであろう。

ワタクシは、元々輪廻転生譚がごろごろころがる東洋の日本に生まれ育っている。見知らぬ記憶がどうにも見知った記憶である確証があり、「前世の記憶」と言ってしまうあたりには、言語や生活環境、民族の違いを超えて、人間の深部でわかりあえるような、ほっとした気持ちになる。前世というのは、前世や来世が有るか否かの議論は他人に任せておいて、詩的比喩として、言いようの無いものを言い表そうとする表現である。

そんなこんなで、RYOU氏のご感想が、自分のイベントの主旨にまさに合っていた、と、はたと気がついてありがたく思う訳であった。

感慨というのは、理由がすぐにわからないことも多い。
水の底に錘を降ろして行くように、自分の心の深い部分に自分で沈んで行って、原因を探して見る。そうした作業の繰り返しが、言葉にならないものを言葉に表す視点の、鍛練の一つであるとも思う。
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by leea_blog | 2009-12-18 20:47 | Comments(0)

蜜柑   橙色の奇跡

【揺蘭】の日嘉まり子さんから、蜜柑をいただいた。

箱に入った蜜柑という贅沢な眺めは、子供の頃以来だ。

木で完熟させた後に収穫したという、手間ひまかけた蜜柑だ。

おいしい。何より、鮮やかな橙色のやや潰れた球状のものが大量にある眺めは、素晴らしい。

昨年は、温泉に入るついでに、蜜柑狩りをした。
冬の景色の中、濃い緑の葉陰からたわわに覗く蜜柑の色彩は、何かの奇跡のようにみえた。
冬に燃え立つ、蜜柑の実の色彩。

都市部に暮らしていると、冬でも鮮やかな色彩に囲まれているわけだが、蜜柑農園のある場所は、しずかな冬景色の中だ。冬の太陽の光が凝って玉になったよう。

蜜柑で連想するもの。炬燵。

蜜柑は、炬燵で食べるのが楽しい。が、手狭過ぎる当家には、炬燵を出す場所が無い。キッチンの椅子に座り、見事な形と色具合を愛でながら食べている。
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by leea_blog | 2009-12-17 20:00 | Comments(0)

典雅な妖精の国、異国日本    —日本の面影—ラフカディオ・ハーン

神話伝説の荒々しいまでの魅力から、日常に気持ちを引き下ろしてゆくため、ラフカディオ・ハーンの『日本の面影』を、少しずつ再読している。

明治時代の日本の、市井の風景を、詩的情緒と典雅な文章で綴ってあり、はっとし、ほっとする。

異人さんから見た、あこがれの東洋、日本。
ハーンの、繊細で穏やかな美意識が、柔らかく脳を刺戟する。
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by leea_blog | 2009-12-15 22:23 | Comments(0)