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北欧神話【エッダ】より、【巫女の予言】篇

2009/12月の。
冒頭部分だけ。

北欧神話の内容は知っている人は多いと思うが、
語調、語り口の感覚をごぞんじないかたにも、
是非聴いて頂きたい。

これは、私の創作ではなく、
新潮社版【エッダ】の冒頭部分である。(訳・山室静)
が、読んでいて自分の作品か既存の古典なのか、境が分からなくなった。

まこと、詩人が、自分個人だけの体験と想像力で物を書いていると思うのは、
思い上がりである。
血の中に受け継がれた、膨大な何かが一つの作品を、
氷山の水面下の部分の如くに支えているのである。


北欧神話【エッダ】より、【巫女の予言】篇
(例によってコピーしてペーストして、跳んで下され)
  ↓

http://rossa.no-ip.info/~tanaka/mp3/leea/2-2.mp3
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by leea_blog | 2010-07-30 00:24 | Comments(0)

【ひとさらい】/【うろくずやかた】篇/2009年12月の音源/言葉と音を溶け合わせる異国の酒場


【ひとさらい】
(例によって、コピーしてペーストして跳んで下されたし)

   ↓
http://rossa.no-ip.info/~tanaka/mp3/leea/1-2.mp3




【うろくずやかた】  詩の後半部分のみを朗読。
(例によって、コピーしてペーストして跳んで下されたし)

   ↓
    
http://rossa.no-ip.info/~tanaka/mp3/leea/2-5.mp3
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by leea_blog | 2010-07-29 00:09 | Comments(0)

文字表現者と朗読/生の場の力

自分の朗読は、
自分では聞けない、その場に居た方の感想が
何よりの励みであり、助けです。

辰巳泰子氏から下の日記の一首朗読の感想を頂いた。

「近江宮に漂う、傷みの霊魂、そんな感じの朗読でした。」

ありがとう、辰巳さん。




現代詩の世界は、
比較的朗読が盛んだ。

勿論、「文学者の朗読などカラオケに過ぎない」と、
考えている詩人が大半と考える。


が、思い出して欲しい。
文字が生まれる前には、音声しかなかった。
音声にて、神々や地霊に捧げ、祈り、交流する詩歌が有った。

そして、パソコンに表示される文字などは、
そのなれの果ての更に果て。

紙質も筆跡どころか、インクの匂いも紙の匂いも、紙をたぐる触感も無い。

五感の衰退は避けえない。

インターネットの普及した今となっては、とてつもなく貴重となった“時間”、と金と体力を使って、どこかの場所に赴き、音声を聴く。
酒と、場合によっては煙草とともに。


詩の世界の朗読も、
盛んだけれど、「変わっていれば良い」「インパクト有れば良い」と
いう風潮も否めない。

一番困るのは、役者の朗読を手本にする人々だ。
それらに出会うと、こんなことを言って申し訳ないが、
とてもわびしい気持ちになってしまう。

役者の修業を日常的にしている人々にかなう訳が無いのだし、
他業界の基準を導入した【読み】は、自分の必然性を押しだす朗読になっていないからだ。

役者は役者としての基準が有る。
文学者が自ら朗読をしなければならないとしたら、
押し上げてくる必然性は【訳者の立場や基準とは異なる】

数少ない百合歌の読者が考えるきっかけにしてくれれば。

私の朗読は、
気楽に、異国の酒場に紛れ込んで地霊に捧げる詩を聞く心地で、
肩を抜いて頂けると嬉しい。
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by leea_blog | 2010-07-23 22:52 | Comments(2)

忘我のよりしろと化す事/壇之浦/締めくくりの事



これは、自分の為のメモとして書いておこう。
歌人の辰巳泰子氏の【へいけうたのあかり第七弾】の、締めくくりとなる。

直後に新鮮なまま書いた文章を、コピーしてアップする。
理性や社交辞令の手が入る前の、感想だ。


(【へいけうたのあかり第七弾】「八島壇の浦」の回は、
詳細は過去分をブログ内検索してね)



振り返れば、【八島/壇之浦】の回に、余興の飛び入りという形で、(実は事前の約束がある)締めくくりの場を賜ったのは、大変光栄な事だった。

が、それは「振り返れば」、の話で、私は悲惨な日常から走って来た逃亡女郎、純粋に無名の客人。「我」が欠け落ちていた。我が無くなった私は、「平家の亡霊の一人」として客席にいた。

そして。平家物語関係の演目で、涙腺が緩むという事は、予測不能の事態だった。


辰巳泰子氏に促されるまま、ほとんど忘我の、どうしていいのか分からない状態のまま、舞台に上がった。

どんな一首を読むか。事前に検討しまくっていたはずが、憶えていない! 
涙ぐんだ時に、一緒に流れ落ちてしまったのだ。

 候補に入れていなかった昔の作品が、液状化した私の深淵からたち上がり、
この場にふさわしいか否かの検閲意識が働かないまま、口からこぼれ出ていた。

   《    足元の 崩れる時間 雑踏に 知る人も無し めまいの都  》

十代の頃の連作の一つ。
一体、何。

お客さんは、へいけうたのあかりの締めくくりにする意味がわからないではないか。大体、これは連作だから意味がある歌だ。

いや。検閲機能が麻痺した時に、それが選ばれたのは意味があった。
その意味を今はくどくどと述べまい。

たとえばタロットカード。
伏せたカードの山をかき混ぜる時、自分を無にする。
無意識の先入観その他を、どれだけ排除できるかが占者の力の一つだ。かき混ぜる手が重くなり、自然に止まるのを待つ。手が止まった時に、拾い選ばれるカードで占いの結果の、おおかた決まる。思えば、小中学生の頃、依り代となりカードを混ぜ、拾い上げる時間を重ねた。

涙で自我が液状化し、無となった私が拾い上げたのが、その一首だったのだ。

先ずは、言葉の意味が聞き取れる形で音声とし、次に、普段は、「言葉が自ら押し上げてくる音として声に乗せる」のだが、この日は。茫然自失のため、私の目は、薄闇と薄光に紛れた、会場に漂う気配に、助けを求めた。

頼りなく会場を見渡しながら、私は、私である事を放棄していた。そういう状態でしか感じ取れない光の粒子、闇の粒子、そして、座す皆様の背の後ろに、音を押し上げてゆく何かがが集まってきた。


憶えていない。
遠い都のあるや、なしや。
質量に満ちたサムライの空間に、自らの重みを自ら解いて、崩れる自分が、あった。

それは、液状化し気化し、どこかに帰ってゆく、「西野りーあ」ではない、誰でも有り、誰でも無い、「女性の形をした何か」なのだった。
女性の衣を着た何百年も前の男性かもしれないし、自分が誰かを忘れた亡霊達の集合体かもしれないし、地霊が、つまりその場の地の霊が、なにがしかを呼んで憑依せしめた何かだったかもしれない。

「それでも表現者かっ! 」と、これを書きながら自分に言う。
「茫然自失の時こそ真価を発揮するものではないか!」

が、おそらく、意図を越えたああいう音声化は、二度と出来ないだろう。


出来の良し悪しはもはや、別である。
あれは、あの読みは、あの時限りの、「場への供物」であった。

 ああした「読み方」は後にも先にも、私には無いであろう。

 
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by leea_blog | 2010-07-20 00:10 | Comments(0)

世の中の不思議な縁と、杉本一文氏のトークショー

実家の整理に行く身が、
急きょ。隅田川の川風の薫る浅草橋へ。

某方面からのお誘いを受けたのだ。
行き先は、夜想のギャラリーとして知っている人も多い、
パラボリカ・ビス。

   ↓

http://www.yaso-peyotl.com/archives/2010/07/post_786.html


アスファルトから照り返す熱気が桐下駄の底を焦がすような真昼であった。

銅版画の展示会が行われていた。
それに合わせて、「杉本一文」氏のトークショーが行われた。

角川文庫の「横溝正史」シリーズの表紙で名高いデザイナー兼イラストレーター兼銅版画師である。

(ああ、ごめんなさい、横溝正史は一般教養程度にしか読んだ事が無いのです、
存じ上げませんでした)

が! 横溝正史シリーズ以外の作品、つまり、銅版画を見るにいたって、
「存じ上げず失礼いたしました」ではない事を思い出した。
「御作品は存じ上げております。お会いできて大変光栄です」だったのだ。

ご記憶の方も多いであろう。
私が「故・山本六十三」氏と「アルフォンス井上」氏の銅版画に、
身分不相応な大枚を注ぎ込み、
「入れ揚げるなら他人の作品にではなく、自分の作品にしろ!」と、
諸方面からお叱りを受けた事件。

まったく、もっともなお話である。

その時期、銀座のスパンアートギャラリーで
   ↓
http://www.span-art.co.jp/index.html
見た、残部希少の銅版画集。

「杉本一文銅版画集」。

おおっと!

横溝正史シリーズのイラストレーター様と同一人物であったのか!

会場は沢山の人が詰めかけ、熱気に汗が腕を伝う有り様。
杉本氏の人柄の良さそうなお話しぶりを聞く内に、
身の内に、視覚表現への意欲が剣呑な様子で身をもたげた。


ところで!
他の作品も好印象の物が多かったが、
このトークショーで驚いた事は!!!!!!!

スタッフが古書を段ボールで持ち込み、
(つまり、杉本一文氏の表紙のものは絶版になっているため古書しかないのだ)
お客が好きな本を選んで、
杉本一文氏にサインをもらえる上にツーショットを撮ってくれるのだ!!!!

入場料はワンドリンクオーダーだが、
最後のそれは、無料企画。

スタッフのこまやかな心遣いに衝撃を受け、
表紙が素晴らしい「獄門島」を手に取ると、
有り難くサインを頂いた。

またここで、
「こら〜、他人様にサインを頂いている場合か!」と
諸方面からお叱りを受けそうだが、

このサインは、

急きょ声を掛けて下さった某氏、

こまやかな心遣いに満ちたスタッフ兼作家の皆さん、

ぎすぎすした世間を一時忘れさせてくれたトーク振りの杉本一文氏、

この時間のすべてに対する敬意、

そして、突然銅版画作品を見て思い出した別の時間の別の出会いの不思議さ、

すべてに対する敬意として、お願いし、大切に持ち帰ったのだった。

ありがとう、杉本一文先生、そして関係者の皆様。

その後、謎の無政府主義者風某氏と、
イザベラ・バード著の【日本奥地紀行】に描かれた浅草を散策し、
川を下って臨海副都心部の海際に出る予定だったのが、
不思議な成り行きで不思議な話へと続いたのだった。

イザベラ・バード著【日本奥地紀行】に関しては、また後日。
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by leea_blog | 2010-07-19 01:41 | Comments(2)

骨董装身具/真に大切なものとは何だろう

螺鈿に蒔絵、鼈甲細工。

揺蘭費用を捻出する為にオークションに蔵書を出品しているはずのわたくしは。

間違いを重ねて、
落札者になって赤字を重ね続けている。

だが。

思う、真に大切なものとは何か。

現代では、金と時間と手間と技術力の関係で、
生産は不可能になったような、職人技の装身具などを見ていると、
文学と同じだと痛感するのだ。

詩は、キャッチコピーや歌詞、「お茶の間に飾られるような詩に見えるもの」とは、
異なる。

時間や金や手間やで換算できない作品なのだ。
おびただしい駄作の砂浜の中の、一粒の金剛石。

「これを書くために生まれた」と言って、笑ってこの世を去れる作品が
出来るのか。いや、出来ないと分かっているなら、去れ。

私は書く事からは去らないだろう。
他の事で人生を去っても、来世でも書いているだろう。
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by leea_blog | 2010-07-16 00:12 | Comments(0)

人生が無意味になる瞬間など/昨今の若者をしかる人がいない

はぁ。。。。

私の人生は既に終わった。
何年も前に私は殺されたのだ。

そういうわけで、ただの屍(作品を書く以外は)のワタクシだが、
ただのシカバネがさらに白骨に近くなる事も多々ある。

深刻な職場の不正事件は、今はおいて置こう。

今日は、上記に比べれば笑って済むほどの、
「生きて居ても無駄だ」事件が有った。

不正経理事件で神経衰弱に陥りながらも、
気分を換えねばならぬと、
急きょ出かけた。

実家に。
借り手様が掃除に来ていると連絡が有ったのだ。

もう死にたい。
病身に鞭打って廃虚と化している実家に通い、
「捨てていいもの」「絶対駄目なもの」を、
必死に別けて、捨ててもいい物はまとめておいて、
わざわざ「捨てる」と張り紙をしたのだ。

が!!!!!!

借り主様方は、「捨てる」の張り紙など頓着せず、
一階のシロモノを、ぜーんぶ捨てなさったのだ。

勿論、絵と本は捨てられていないが、
それは、一番最初の重要な約束だから当然ぢゃ。

あのさぁ。
どこでどう「伝言ゲーム」が行われたのか知らないが。

常識的に考えて、まだ賃貸契約も結んでいない他人様の家の物を、
勝手に捨てますかさ!!!!!!


君らにはぼろ着やただの石ころ、小学生のノートに見えても、
当家の長ーい歴史が詰まった、宝物なのだ!

運の悪い事に、
私の都内の住まいは、大変環境が悪い。
大切な物ほど、実家に置いてあったのだ。

二度と手に入らない、貴重な物、
世界には同じ物が存在しない、大切な物。
長い時間の思い出が詰まった物を救出する為、
私は弟達ともしんどい交渉を続けたし、
実家に何度も足を運んだのに。
涙が止まらなかった。

「捨てる」と張り紙してある山と、
そうでないものが別れていれば、

「ホントに全部捨てちゃっていいンですか?」の1行でいいからメルすればいいのだ。
そうすれば
「捨てる張り紙の分だけお願いします」と返事が出来るではないか。

そして、
伝言ゲームの結果「捨てちゃっていい」と伝わっていたとしても。

クローゼットを開けた時に、
妙にちゃんと衣服が整っていて、
防虫剤もごくごく最近のものと気付けば、
「ねぇ、本当に全部捨てるのか、確認した方が良くない?」と、
だーーーーれも思わなかったのか。

お仕事でもボランティアでも、近所付き合いでも、
「ちょっと変だな、再確認しよう」と感づかなければ、
人生の色々なシーンで、重大なポカを重ね続けるだろう。

昔は、通りすがりの大人が、他人の子供や若いもんを叱った。
つまり、指導した。
そうやって、子供や若いもんは、人生の応用能力を付けたもんだ。


どうせ何年も前に殺された私だから、
こんなことで人生をあらためておりる事はない。

ただね、今医者に掛かっている途中の私が、
「不正野郎」を駆除するか自分が人生の苦痛からおさらばするかをやめて、
快癒しちゃったら。
他人の手で捨てられたそれらは、
必ず人生の再生に必要になるものだったのだ。

借り主様の所長が駆けつけて
ひたすら詫びた。

誠意は有り難いが、詫びが欲しいのではなかった。
何がまずかったか、認識して欲しかったのだ。

こちらも借りてもらう立場上、
「契約前にひとの家の物を捨てる所とは契約できません」と言えなかった。

何が原因か相手様が理解しない限り、
今後、こうした事は多発するだろう。

本当にお貸ししていいのか。

今は何も食べる気がしないし、煙草の味もわからない。







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by leea_blog | 2010-07-10 00:44 | Comments(0)

発熱と豪雨と、今しも世界中で書いている人々の切実など

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文章だけでは見る方も疲れるであろう。
拙写を貼っておく。



ひ、ひどい。
やる事山積なのに、
夏風邪を患って、熱が九度近くある。

メールを下さった方々、お返事が遅れて申し訳ない。
心から嬉しくお便りを拝見している。

が、【揺蘭】編集に集中するときは、
日常の心楽しいやり取りモードが消失する。

物語の魔の支配下に入るのだ。

私は、「書いてる私が主人」とは、思っていない。

紀元前の昔から、内側から押し上げてくる書かせる力は、
長くて100年しか生きない一個人の物ではないと考える。

いましも世界中で、
紙の無い場所では、砂の上に木の枝で作品を書く、
そうした、数える事が不可能なあまたの人が、
書いている。

その大半は誰にも知られずに消えるだろう。

きがるな行分け散文や、書き流しのブログの事は計算に入っていない。

詩の生まれてくる場所は、もっと切実だ。

魔に取り憑かれた、業な生き様だ。
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by leea_blog | 2010-07-05 20:35 | Comments(0)