三月 都市 繊月

三月都市繊月
さんがつ とし せんげつ
下弦・上弦 血の色の


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夜の住宅街で道に迷った。
昼ならともかく、夜。迷路状。ランドマークは無い。
地図も磁石も無く、道を問う人通りもない。


行きがけ、赤い繊月を見た。
いま、月は、どっち? 月の位置で大体の方角を確認しようとした。


ぶじ、帰宅した。天体に詳しくない自分でも、とっさにそんな行動をするのだ。

ちなみに北極星で位置確認するのは基本だが、この辺りでは期待できない。星が見える夜が少ないのです。空全体が、曇ってぼーっと発光している感じ。下界の灯りが雲に反射して、夜空が明るいのだ。


昔の人なら、天体のみならず、空気の流れや、植物のわずかな伸び具合で、「こちらが北、こちらが東。都心に向かってあれがこうだから、すると、赤塚の駅はここからうんたらのなんたらの方角」とわかるのだろう。


便利に慣れると、そういう感覚が日常から遠ざかる。道に迷うことを、おおいに歓迎したい。
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# by leea_blog | 2002-03-16 00:59 | Comments(0)

Holly Warburton


リンクのコーナーにホーリー・ワーバートンさんのHPを追加しました。


映像表現ホームページは、語学力を必要としないだけにインターネットの恩恵を痛感します。
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# by leea_blog | 2002-03-16 00:59 | Comments(0)

家々に 花が。

罌粟を買ってきた。


花瓶がないのに気づいた。ペットボトルの首の部分を切り、即席の花瓶にした。安定感が悪いので、花を壁にもたれるようにして、置いてみた。なかなかいける。ペットボトルの、厚みのない透明感と水の光の加減、不安定さ、植物のしなだれかかる曲線。


散歩していると、家々に花が溢れているのが嬉しい。
「ガーデニングが流行だからって、何処もかしこも陳腐に取り入れやがって」
などなど、文句も聞こえてきそうだが、こればかりは、流行に飛びつく国民性を嬉しく思う。
家々の花は、通りすがりの目の保養。無関係の通行人にもお裾分けする心意気、いいじゃないですか。


ところで、昨年。物件を内覧中に、大阪出身の不動産屋さんいわく、「東京は駅の近くでも木があって驚きましたよ」
街路樹や“災害時の避難場所”といった体の公園のことなのだが、大阪って、そんなに木が無かっただろうか?
吉野熊野に詣でるさいに、しばしば大阪に立ち寄ったが、緑の気配は濃厚だった。少し目を上げれば山があるしね。私、答えて曰く、
「大阪は駅を少し離れれば山も海もあるから、駅前に木を植える必要が無いのでは?」
関東平野は、晴れた日の朝方と夕方に、遙か彼方に山が見えれば良い方。駅前に無理にでも木を植えなければならない事情が有りそうだ。

大阪人のご意見はいかに。


都内の公園には、苦情を言いたい。土が不自然で、木があっても、「一応植えました」といわんばかりの風情。やる気を無くすことおびただしい。
土が平に踏み固められている、あるいは、小砂利が敷かれている、あるいは空いているところにむりやり芝が植えてある。人工環境のオフィスを離れても、植物の有るところに来た気がしないのだ。管理されすぎ。空気が悪くて植物も元気というわけにいかないだろうが、入園料を払うような公園なら、もう少し気を配って欲しい。


景気がよろしくないと、人心も荒れてくる。こういう時期こそ、植物動物に触れ直して、鋭気を養う余裕が欲しいものだ。
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# by leea_blog | 2002-03-09 00:58 | Comments(0)

風邪には、葛湯(くずゆ)

風邪を引いた。
葛湯(生姜・黒砂糖入り)とレモネードでしのいでいます。


   葛根湯(かっこんとう)ではなく、くずゆ。


葛の根からとれる葛粉を水で溶いて、弱火で透き通るまでかき混ぜます。とろりとした食べ物。ほのかで上品な味わいがあります。見た目も美しい。

お好みで、砂糖、蜂蜜、生姜、ミルク、コーヒー、ココア、抹茶などで味付けします。葛粉は、原材料の表示を確認しないと、「甘薯粉」だったりするので注意。吉野葛100パーセントだとなお可。

風邪を引いて食欲がないとき、体を温めたいときに、おかゆがわりに作ります。


葛根湯も、葛の根を使った漢方薬なので、似たような効果があるかもしれません。


  レモネードは、檸檬をしぼってお湯で割り、蜂蜜を
                     加えただけ。

モロッコのマラケシュ滞在中、風邪を引きました。何か食べないと悪化する一方、と、ホテルの一階の食堂に行きました。
ホテルと言うより宿(やど)と言った方が正しいかも知れない。欧米風建物じゃなくて、地元の建築様式。お湯を頼んで持参の葛根湯を溶いていると、相席したイギリス男性いわく、「風邪の時はレモネードですよ。すぐ治ります。子供の頃母がよく作ってくれました」
熱でもうろうとしながら、「日本の玉子酒みたいなものか」と感心しました。

さらに同氏は、檸檬も蜂蜜も、何処でも手に入りやすいことを指摘。それにも感心。モロッコでは人家の庭に檸檬が実をつけていました。もちろん、市場にもあります。


効きます。
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# by leea_blog | 2002-03-02 00:57 | Comments(0)

この閉じられない文構造こそ。。。

    「読書百遍意自ずから通ず」


子供時代、よく聞かされたことばだ。いかにむずかしい本でも、何度も繰り返し繰り返し読めば、自然に意味がわかってくるという。昔は、書物は貴重品だった。そんな昔のことではなく、30年か20年前くらいでも、だ。書物は、「百回でも二百回でも再読されて当然」、といった前提で本屋さんにいた。買う方も、一冊買うのに、買おうかどうしようか悩み、何度も本屋に足を運んだ。小学生〜大学生にとって、価格千円単位の書物は高価品だった。出費の痛手に見合う内容じゃないと、えらいことだ。吟味に吟味を重ね、一大決心で購入する。。。。はぁ〜、貧乏くさい。。。
 

 いえいえ、貧しい時代の話をしたいのではない。書物は、「単なる活字」「ただの言葉」ではなかったのであります。動物としての人間の一生は長くて100数年、書物は(正確に言えば書かれたものは)軽々と動物の時間を超えて行く。万葉集や平家物語やイリアスが書き留められたのは、私の祖父母も生まれていなかった頃だ。百回位読み返して読むたびに新たな扉が開けるなど、実に当然なのだった。



現在は、書物の選択肢が多すぎて、「どうでもいいもの」のなかから「どうでもよくないもの」に出会うのが大変だ。インターネットの普及にともなって、事情はさらに変わっていくだろう。
文章の質は「同一読者に百回再読される」ものを目指さなくなるかも知れない。文字情報の快楽の質が、変わっていくのではないか。

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さて、『幻想のオイフォリー』は、小さな古書店で見つけた。ぱらぱらとめくっただけで、即決で購入。インターネットで見つけても、大量の情報のなかで、自分が立ち止まれたかどうか怪しい。

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高桑法子氏の評論集、『幻想のオイフォリー 泉鏡花を起点として』、から「華麗な妖怪たち—『草迷宮』」の最終部分を引きます。


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レミニサンスとしての手毬歌は、たんに母への回路としてあるのではなく、むしろ生誕の場に働いていた促しや牽引の力のすべてではなかったか。作品の〈自己〉とは、そのような過去と相同的な生を持つにいたった、文学営為の場における限りでの仮構的作者の自己であり、こうした創造を行いえてはじめて、手毬歌は正しく甦り本然の意味で唄うことができる。本稿のはじめに掲げた魔族の出立の情景が比類なく華麗であるのは、創造の場で汲み上げられた作家の想像力が、さえぎるものなくダイレクトに作品空間へ噴き出そうとしているからであろう。あの奔流となった言葉は、どんなストーリー的完結も、登場人物への還元も目指すことなく空間をおおい尽くし、閉じる地点を知らない。


最切(いとせ)めて懐かしく聞こゆ、とすれば、樹立(こだち)の茂(しげり)に哄(どつ)と風、木の葉、緑の瀬を早み・・・・・横雲が、あの、横雲が。


 作品最後に置かれた、この閉じられない文構造こそ、物語の終わりにではなく、核心に到達し、そこに立ち尽くす作家の姿を如実に映しているのではないだろうか。


(高桑法子 『幻想のオイフォリー 泉鏡花を起点として』)

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# by leea_blog | 2002-02-18 00:56 | Comments(0)

田遊び

ううー、寒いよ〜、痛いよ〜、雑務に追われすぎるよ〜、今年はまだ梅の花も見ていないよ〜、と、つい愚痴が出そうな引っ越し前後。


二月十三日は『赤塚諏訪神社の田遊び』祭事の日(国の無形重要文化財)。
地元神社に挨拶くらいしておこう、と出かけました。宮司さんや氏子さんに、という意味ではないですよ、人間の思惑以前に存在する、土地の神さんに、という意味です。

『赤塚諏訪神社の田遊び』とは?

検索して見つけたところに挨拶無しでリンク張ってごめんなさいまし、こちら、「祭り語り」をご覧下さい。


http://www5a.biglobe.ne.jp/~sinwa-k/taasobi.htm
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# by leea_blog | 2002-02-13 00:55 | Comments(0)