走り書き的かんそー・「王の帰還」映画版、ちょっとなぁ編

映画版「王の帰還」。
見るに値するとは言わないまでも、まあまあ良かったんじゃないか、に続いて、【ちょっとなぁ】編です。


☆原作を思い出すと苛々がつのるので別物と考えましょう、と提案したが、まるで思い出さないのは無理というもの。私は原作が好きだから映画を見たという程度なので、「ちょっとなぁ〜」を書き出してみれば、どれも原作と比べた不満でした。


期待しなかったはずなのにそれでも「これはあまりに安っぽいだろ!」と、愚痴に似たフレーズが繰り返される悲しいファン心理の走り書きになった。映像は安っぽいとは言えないが、話の内容が、そのう、、、、。
分かっていても、「もしかしたら凄く良い場面もあるかも知れない」と見てしまうファンの業と言いましょうか。



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【ちょとなぁ、のところ】

☆灰色港から出航するエルフの船がちゃち。 船にはお偉方(エルフの三つの指輪の所持者)ばかりではなく他のエルフも沢山乗るであろうに。去って行く者が壮麗だとラストシーンが損なわれるという考えか?  

☆ゴラムの、「わしら」というのは「本人」と「いとしいしと」の事じゃないか? 「善い自分」と「悪い自分」をわしらと言っている映画版は、一つの指輪の力を描くことを捨てて、分かりやすい「ゴラムの苦悩」になっている。説明的で安手。

☆指輪の幽鬼がただの怪物。
彼らの真価は人間の理解を超えた恐怖と絶望を運ぶ所なのだが、映画ではその恐怖が「戦闘能力の高い化け物と闘う恐怖」に堕ちていて興が醒める。

原作は。ローハンのエオウィン姫はアラゴルンに愛を受け入れて貰えなかった。その絶望のままに、死地を求めて男装し、ナズグルの首領の前に立ちはだかる。絶望ゆえの怖れ知らずのみがなし得る行為であり、凄惨で美しくもある。
映画では姫を駆り立てる絶望がカットされて、「大切な人たちの為に恐怖に立ち向かう女戦士」に堕ちている。映画の、「勇敢だけど非力な姫が怯えつつ闘う構図」は、申し訳ないが安っぽい。
しかも美人じゃないし、、、、。

ナズグルの首領が男装のエオウィンに邪魔だてすると殺さぬぞと脅しを掛ける場面も省略されていた。死は戦さに付き物だが、中つ国では殺されずにモルドールに(シルマリルリオンの時代ではアングバンドに)引いて行かれる方が死よりも恐ろしいのである。その脅しのセリフがあるのと無いのでは全然違う話になる。

原作的には冥王や指輪の幽鬼は、怪物的な外見は必須ではない。映画では単純に『怪物対人間(良い妖精族がちょっと人間を援助)』のようにシンプルにしたかったのだろう。

☆シュロブとその洞窟もただの怪物映画。。。。
原作のこの辺りは結構好きな部分で、真の闇と深淵の絶望の中でこそガラドリエルの玻璃瓶の光(エアレンディルの星の光、シルマリルの遠い輝き)が意味を持つ。が、ただの大蜘蛛との闘いに堕ちている。期待しなかったが、、、、。面倒くさい心理描写より大蜘蛛の動きの見事さの方が、お客に受け入れられるという考えなのだろう。

原作では、玻璃瓶の光に、“アイヤ エアレンディル エレニオン アンカリマ”、と、知らないエルフ語がフロドの口を突く、あたかも別の声が彼を通して叫んだように。読んでいて震えるような場面である。フロドは伯父のビルボからエルフの歴史やエルフ語を習っている。エルフ語の知識はあっても、どうして今そんな言葉が出たのかわからないという意味で未知の言葉である。おそらくは上古のエルフ達が口にしていた、呪術的な詩の一節。

自分ではない何かが深淵から叫ばせる言葉。それは意識の遙か底の部分が、生きた神話伝説の時間と通底する瞬間で、ガラドリエルの玻璃瓶の光がその水路を開いたのである。呪言としてのエルフ語。呪術としての星の光。

続くサムとシュロブの死闘でも、サムの喉を突いて迸る、エルフの言葉がある。サムはフロドと違い、エルフ語は知らない。(知識のあるフロドに作用した深淵の力より、さらに強い力となっているのを読者は知る)

ホビット達のあずかり知らない、人間誕生以前に遡るエルフ達の歴史、神話の一部。その帯の端が生き物のように暗黒の場キリス・ウンゴルに届いている。
(なぜなら玻璃瓶の光に閉じこめられた星の光は、天空を船で渡るエアレンディルが額に結びつけた宝石、シルマリルの光。シルマリルとは中つ国から遙かに隔たった神々の土地アマンにて、フェアノールが作成した三つの宝石。フェアノールはノルドール族の始めの王フィンウェの長子であり、シルマリルはアマンを照らした二本の木の光から作られ、その木は、、、と、人間が此の世に生まれる以前、月と太陽が現れる以前までたやすくしかも一気に遡る)

そのように知らず喉を突いて出たエルフの言葉はサムを自分自身に立ち返らせ、立ち向かい難いものに立ち向かわせるのである。
映画では、そういう話は完全に無視。期待しなかったが。。。

☆サムが主人のフロドが死んだと思い違い、自分が指輪廃棄の旅を続けると決断するにいたる葛藤も、大人になってから読み返すと心を揺さぶられる場面である。
原作では「サムワイズ殿の決断」と題して一章を割いている。フロドの世話をするため&エルフ見たさで付いてきた庭師のサムが、“サムワイズ殿”と呼ばれるに値する存在に変化してゆく重大な場面である。真の闇(物理的な闇でもあり、フロドを失って一人きりになったサムの心の闇でもあり、中つ国の深部に澱む力を持つ闇でもある)の中、おのれの卑小さを一枚、一枚脱ぎ捨ててゆく。

が、映画では。
「フロドを指輪ごとオーク達に奪われてすべてがお終いと思われたが、実は指輪はサムが持っていた」(!)という話になっている。期待しなかったけどあまりに安手ではないか。。。。

それにしても、大人になってから読み返すと、昔は気に留めなかったサムの描写にひどく心を揺さぶられる。愚かしいまでの無償の献身がエルフの宝石の如く貴重なものだとは、大人になって理屈抜きにわかるものだ。酒みたいなものです。

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そういう訳で。
原作があると考えなければいいのかも知れない、この映画の三部作は。冒険アクションファンタジーとしてなら、別にとりわけひどい内容でもないのかも。風景綺麗だしね。しかし、私だったら、この映画を見てから原作を読もうとは思わないだろうな。。。。

いや、映画見て原作を読みたくなった人も多いと聞くし、文句言う事ないんだけどね。。。
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# by leea_blog | 2003-03-13 04:17 | Comments(0)

シルマリリオン再読で痛手を受ける事。飲めや踊れの時間が人間には必要、ということで。


はあ、、、。

シルマリリオンを読み返していたら、映像イメージが広がって何も手に着かなくなった。膨大な登場人物(登場するのは人はわずかでほとんどエルフだが)の一人、フェアノオルの夢を見て、目覚めがやや良くなかった。疲れていた。


「他人の創ったイメージを見ることによってあく抜きしよう」と思い立ち、ロード・オブ・ザ・リングの第二部を見に行った。
シルマリルの物語は、指輪物語より前の神話や歴史のお話なのである。


映画は他者の作品であり、他者のイメージしたものだ。文字は、映像、音、質感、匂い、時間の感覚、悲嘆も歓びも、果てなく想像させる。そこが素晴らしいわけだが、まあ、今はシルマリリオンでトリップしている時間の余裕と心身の余裕がない。そこで、他者の作品で自分の内部にひたすら生まれるあくを抜こうとしたのだった。しかも早急に。出かけるのに時間調整が必要な私としては異例の早さで見てきた。


エルフが人間より俗っぽい映画をもって、エルフが此の世の何よりも美しい物語から受ける痛手を癒そうとしたのだった。物語によって「此の世のものとは思われない!」、と激しく揺さぶられたあとには、むしろ安心して見ていられる。実際、安全であった。


優れた物語は、毒であり薬である。深部に作用するものは毒だけか薬だけかということが無いゆえに。



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蛇足メモ

3/10  フェアノオルの譲渡の夢

森の中の庭。狭いが立体的、薄緑のもやに包まれている。知人が来る。知人の領する大気の一角をケーキを切るように切り分け、持ってきてくれたのだ。「これがフェアノオルだ。あなたが好きなのではないかと思って持ってきた」と、譲ってくれる。
何と貴重な物を譲ってくれるのだろうと嬉しかったが、夢では私は淡々と受け取る。だが、譲られた火種は私の庭にはとどまれない。火が消えてしまったのを見て、知人は今度は土を銀のシャベルで掘り崩し、火のように燃えている一角を根こそぎすくって譲ってくれる。土は、溶鉱炉で溶かされてゆく鉄のように黄金に燃えている。そこから半透明の姿が立ち上って、三十センチくらいの像となる。白い衣をまとった男のエルフで、何かしきりと叫んでいる。こちらのことは見えていないようだ。
知人は心配そうに言う。「火の性質が外見と一致している。火が強すぎてどこでも持て余している。処分するわけにもいかない。あなたはどうだろうか」
あちこちたらい回しにされたらしい。見ただけで騒動の種だとわかる。いくつか世界が壊れかけたようだ。私の領国は知人たちのところと少し性質が違うので、やっかいとは思わない。「貴重なものは大抵はそういうものです」と言って受け取る。
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# by leea_blog | 2003-03-12 01:49 | Comments(0)

パソコンが普及すると眼の安らぎにキャンドルが必要になる。部屋の中に焔のかげ。そして《揺蘭》


近々、『揺蘭』のコーナーが新設される予定です。


《夢限海域迷宮領国》にちらりと載っているだけで、《ゆりのうたたね》でもさっぱり触れられてないし、なかなか正体が不明な冊子であります。正体をあからさまにしない執筆人が多いのも特徴でしょうか。


いま現在の執筆人の中で、インターネットにアクセス出来る環境はりりな・りりあなだけなので、拙ホームページの一角に場所を提供しました。


インターネットに関心薄い人、私の回りには多いのです。
電磁波だの静電気だのの関係で体質的に苦手(要するに嫌い)な人や、苛々するから苦手(やはり要するに嫌い)な人、アナログ生活が多忙でネットで時間裂くのが煩わしい人、必要をあまり感じない人、あるいはまーったく関心無い人。
パソコンは必要だけどインターネットはしない、という人も意外と多い。。。
(私もADSL化の前はそれに近かった)

かく言うりり野りなりなも、FAXと携帯メールを導入したのがほぼ一年前。導入を固辞し続けるそれぞれの事情はよくわかります。もちろん、「あると便利!」の側面も、恩恵にあずかっているだけにわかる。
携帯電話やらFAXは、ひたすら普及してるので、導入しないでいるのはかえって大変でした。導入すると、「無い」生活はもう考えられないですねぇ。

ちなみに、《揺蘭》現執筆人の中でFAX導入している人は私と日嘉まり子氏のみ!
緊急の用件で「頼むぅ〜、近くのコンビニからFAX送ってぇ〜」と要請する私に「これからポストに入れます、あまり変わらないでしょう」で応える人もいて、頼もしい限りと言えよう。。。。


パソコンがこれだけ普及すると、むしろ、身体の時間が贅沢品になってくるようです。そんなわけで、《揺蘭》コーナーの原稿をメールで受信できたら便利なんだけどなぁ、というぼやきは口にしないで済んだのであります。
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# by leea_blog | 2003-03-07 01:46 | Comments(0)

梅花の季節。知人宅での鑑賞、旅の仲間映画版。


ろーど・おぶ・ざ・りんぐ、見ました。第一部ですが。
知人の家で、DVD。夕食をごちそうになりながら。
この場をお借りして歓待の御礼を申し上げます。


背景が美しかった。景色を見てるだけでもいいかもしれない。
フロドが大変美しかった。美しいものは目を歓ばせ、心を歓ばせる。
火が美しかった。火は元々美しく力があるから、火が退屈な映画は論外だ。
アラゴルンの立ち居振る舞いに妙な色気があって、これは良かった。

「面白かったか」と聞かれれば。
面白いから是非見て〜、とは言いかねる、微妙な線。


ええと、綺麗と言えばすごく綺麗なんですよ。
エルフ以外は。。。。。。
どうしてエルフ族を必要以上に判りやすく俗っぽく描かねばならなかったのか?
人間を越えたものに対する想像力が足りなかったか。
或いは人間以上の美しく力に満ちた存在が許せなかったか。
唯一神の教会に通っている人々には神々しいエルフ族は冒涜になるので差し障りがあったか。
エルフを俗に描かねば他の登場人物たちがかすんでしまうと判断したか。


指輪物語にとってエルフは、植物が光合成をするための光のようなものである。

主人公たちの素朴な里では、エルフにあこがれたり、エルフ語を解したり、エルフの友だったりするのは、常軌を逸した、分別の足りない事とされている。『ホビットの冒険』の主人公ビルボも、ビルボの養子フロド・指輪物語の最重要人物も、フロドの下男サムも、上記に該当しておりホビット庄では神隠しにあって当然の気質を備えていた。

物語全編を通して、エルフの登場場面はそれ程多くはない。
にもかかわらず、主人公たちが苦難に見舞われる折り知らず発せられるのはエルフの言葉であり、身に帯びるのはエルフの剣であり、語られるのはエルフの思い出であり、長い行程の間中、口にするのはエルフの食べ物であり、ビルボやフロドが中つ国を去るのはエルフの船でエルフたちに伴われてであり、物語の最後に、暖かい我が家に帰ったサムが膝に抱く幼い娘にはエルフの花の名が付けられており、と、簡単に拾うだけでもエルフの髪にきらめく微光が物語を浸し尽くしているのがわかる。それは、遙か彼方につながる光である。

著者J・R・R・トールキンによれば『とりわけこれをわたしに書かせようとしたのは、主として言語学的な関心であり、エルフの言語に「歴史」的背景を与えるために始めたものだからである。』とのことで、当然なのであった。


そのようなわけで、ロード・オブ・ザ・リングに出てくるエルフが俗である点は、背景が美しい点以上の話題となったのであった。
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# by leea_blog | 2003-02-18 01:46 | Comments(0)

三月並みの。すでに昨日の事であるが。そして指輪物語の映画を見ていない。


さんかんしおん。山間紫苑。燦感熾音。
いえいえ、三寒四温。


寒さに弱い生物である私は、裾長の英国のコートに獣毛の襟巻きでお昼ご飯から戻った。口紅をひきながら「寒いですね」と型どおりの挨拶をすると、その場にいた人たちは口々に「今日は暖かいですよ〜」「三月上旬の陽気だそうですよ」と返してきた。そうなのであったか。冷え性の私はわからないが、冬らしからぬ暖かさであるらしい。

この時期、街の人通りは、春めいた彩りが混じる。素材は冬物でも、明るめの色彩を選ぶ人が多くなるのだ。
三日寒い日が続いても四日暖かい日があり、そのうち、全部が暖かい日となる。
春の嵐に悩まされ、五月の、夏かと思う陽射しに射られ、梅雨どきの湿気と寒さに音を上げるうちに、夏がやってくるのだ。

獣の毛皮を寄り合わせた襟巻きをなでながら、この手触りとももうじきしばしのお別れか。来冬まで、虫に食われずに生き延びておくれね、と心に呟くのだった。なめし革の手袋とも、羊の毛皮の敷き布ともお別れか。
水鳥の掛け布団は、夏でも必需品、冷房の寒さを防ぐために、さまざまな絹のストールや、レースの手袋が衣装箱から引き出されるだろう。

四季の国。
また、都市部の夏の異常な暑さを嘆くのであろう。
輪の時間。


*****   *****  **** 

やり過ごしはぐる。

実は、『指輪物語』のファンである。映画になったのを見に行かないかと声を掛けていただいたが、ひたすら時間が無かったのと、腰痛で二時間も同じ姿勢は耐え難いのとで、一作目は見ていない。

関心が全くなかったわけではない。
しかし。「ロード・オブ・ザ・リング」って何。
先頭にも「ザ」が入るのでは? リングス、と複数形なのでは?
題からして「期待するな」と言わんばかりで。

そして。文字を映像化すれば「イメージに合わない」と苦情が出がちなのを差し引いても! エルフが普通のおっさんやおばさんやにいちゃんみたいであっては、論外である。容姿が好みかどうかは別の問題で、まずエルフは人間族とは違うのだから。洋物時代劇の地方豪族か、SF映画の異星人っぽくては、話にならないのであります。

指輪物語はエルフの物語だと私は思っているので、たとえ他がむちゃくちゃでもエルフ役さえエルフを見た気にさせてくれるなら、万難を排して見に行くのだが。
表情が人間くさくなければ、人間以外の感性を表せるはずではないか?  

そのようなわけで、関心はすぐに消えた。

しかし。最近、第二部も映画化されて、タイではDVDが売っていた。上映前なのに、さすがである。そして、日本では毎日の通り道に、やたら大きなポスターが貼ってあり、毎日見てる内に、何となく気になってきた。背景以外は相変わらずあか抜けないが、背景は第一部も良かったような気がする。
よく見ると「ディズニーランドじゃないんだから!」と突っ込みたくなるから、さらりと見るのがいいかもしれない。で、エルフ語聞くだけでもいいかもしれない。

調べてみたら、まだ上映していないのである。
え、まだなの? 見たいと思った時が旬なのに。
気を持たせるほどの玉か!?、と、ついつい口が悪くなってしまう自分がいた。
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# by leea_blog | 2003-02-08 01:44 | Comments(0)

一時避難の南の海ぎわ、瑞々しいココ椰子が運ばれる

タイに行って来ました。
骨の髄まで凍える日本の冬に音を上げて。
ろくに食事も取れないほど参ってしまい、
娯楽と言うより緊急避難の様相。



    渡航場所の条件。
        ↓
暖かい。マッサージが毎日受けられる。空気が良い。飛行機による移動時間が少ない。食べ物が健康的。

消去法でいくと、タイだったんです。呪術者の故郷、バリは捨てがたかった、しかし、遠方過ぎました。
ホアヒンの海ぎわで毎日マッサージと健康的な食事、久々の養生生活でした。
連れの女性は、介護資格を持っているし、個人旅行派だし、ありがたいことでした。私も役に立たなかった訳ではない。彼女は筋金入りの方向音痴だったのである!

毅然とした様子で間違った方角へ歩いていくYさんを見て、気がついた。
こっちでよかったのかな、と迷いが出るなら、方向音痴とは言えないのではないか。
迷いが出れば、確認するからだ。確認しつつ歩けば、めったに間違えない。Yさんは先に立って歩く癖もあった。
方向音痴の人は、「間違っているかも知れない」と思わないのだ。私は大抵ポーチに磁石を入れていたので、彼女にも薦めてみた。Yさんが磁石に関心を持ったかどうか、未確認である。


『私上最悪』について。
成田出立当日、意外なそそっかしさを発揮したYさんは囁いた。
「りーあさん、今回は最悪の旅になりそうな気がします」
どこかで聞いたセリフだと思ったら、私もいつも「今回は私上最悪の旅になりそうだ」と旅行メモに書き付けているのであった。おもわず微笑んだ。
一人旅なのに英語の練習もしていなければ、目的地の地図も無い、現地情報もほとんど無い、ホテルは現地で自分で取るのだが、成田を発つ前に既に吐き気がするほどの体調の悪さ、という酷いときもあった。
どんな旅でも、準備万端というのは望めないし、望むのは間違っている。あらゆる状況に対応しようと準備をしても、旅は安直な予想を簡単に覆す。

可愛い子には旅をさせよ。自分にも旅をさせよ。




++++++++++++++++++++++++++++++++++


いままでは、旅は、内宇宙の均衡を取り戻す為に必要だった。
今回は、身体の回復の糸口を見つける、寒さで動かなくなった骨を休める、というと穏やかすぎる表現で、実のところ、吹雪に遭った動物が岩穴に退避して狩猟を続行する体力回復を待つような、やや差し迫った感覚だった。

暖かい国の人々の、猫のような体重の移動をぼんやりながめ賛嘆しつつ、手が自動的につける旅メモを、今回は意識的にやめた。
肩と腕と手がやられているのだ。書くな、描くな、暖めよ、ついでに読むな、ページをめくる動作も指に負担だ、と、南国の海ぎわでなければ苛立ちがつのるような、自らへの規制。

書かない時間は、快復には直結しない。が、それは真に、余暇である。
疲労した身体が、真の余暇を、果実のように、ひとくち、ひとくち、味わっていく。

私にとっては、実に六年ぶりの、「特に予定のない日々」なのだった。
多大な自由に溢れているかの自宅療養中は、会社員より暇がなかった。寝るのも起きるのも食べるのも、入浴も娯楽も、すべて病気療養のため。残業に疲れた仕事人が、1週間振りで帰宅するときの、「ああ、帰れる」という一瞬の開放感も無いのである。オンとオフが無いのである。


余暇とは何と貴重な果実であることか。
力ずくでいろいろなものを押しのけないと、手に出来ない。
『余暇』が生活必需品と認められれば、供給も増えるのだろう。
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# by leea_blog | 2003-01-20 01:43 | Comments(0)