谷崎潤一郎「麒麟」あらすじ・孔子対サディスト貴婦人



谷崎潤一郎の初期短編に、「麒麟」がある。

きりんは、中国の伝説の霊的な獣で、

聖人が現れる時にすがたを見せるとされる、瑞獣である。


孔子が、衛の霊公を訪れたエピソードが元になっている。

が!

品行方正な人は、立ち入り禁止である!



谷崎潤一郎の短編は、

濃密な悪魔的美の世界が構築されており、

お薦めである。


初期の作品では、

有名な「刺青」も素晴らしいが、

この短編「麒麟」も、大いにお薦めである。

美しい、鍛えられた文章で、

残虐と耽美が描かれる。


中国の春秋戦国時代。

孔子と弟子たちは、

遊説の旅に出る。

老子の門弟との遭遇を経て、

衛の国の都に入る。

その都の有り様が、以下に語られる。


「其の人々の顔は餓えと疲れに痩せ衰え、家々の壁は嘆きとかなしみの色を湛えて居た。其の国の麗しい花は、宮殿の妃の目を喜ばす為に移し植えられ、肥えたるいのこは、妃の舌を培う為に召し上げられ、のどかな春の日が、灰色のさびれた街をいたずらに照らした。そうして、都の中央の丘の上には、五彩の虹を縫い出した宮殿が、血に飽いた猛獣の如くに、死骸のような街をみおろして居た。其の宮殿の奥で打ち鳴らす鐘の響きは、猛獣の嘯くように国の四方へ響いた。」

のどかな春の日差しと、圧政に死骸の如くなった街、

五彩の虹を縫い出す、血に飽いた猛獣の如き宮殿の対比が、

生きた絵のように広がる文章だ。

さらに、其の宮殿の奥で打ち鳴らす鐘の、まがまがしさ。

その都に入ってきたのが、聖人孔子と、その高弟たちゆえに、

まがまがしさが際立つ。


「由や、お前にはあの鐘の音がどう聞こえる。」
と、孔子はまた子路に訊ねた。
「あの鐘の音は、天に訴えるような果敢ない先生の調べとも違い、天に打ち任せたような自由な林類の歌とも違って、天に背いた歓楽を讃える、恐ろしい意味を歌うて居ります。」
「さもあろう。あれは昔衛の襄公が、国中の財と汗とを絞り取って造らせた、林鐘と云うものじゃ。その鐘の鳴る時は、御苑の林から林へ反響して、あのような物凄い音を出す。また暴政に苛まれた人々の呪いと涙が封じられていて、あのような恐ろしい音を出す。」
と孔子が教えた。



天に背いた歓楽を讃える、恐ろしい鐘の響き!
素晴らしい。

続きが読みたくてたまらなくなりませんか。

しかもそれは、国中の財と汗を絞り取って造られ、暴政に苦しむ人々の呪いと涙が封じられていて、物凄い音を出すとは!!!

何と云う不吉な、血みどろな、苦悶と快楽を約束する語り口であろう。


江戸川乱歩が「残虐への郷愁」で述べた通り、

現代では、タブーであるが、蒼古よりの残虐への郷愁は、

芸術と戦争でのみ可能なのだ。


古い時代に暴君が君臨する国では、

死者、恨みの声の多さは、圧倒的である。


そうした時代を題材にとり、谷崎は筆を進める。

衛の霊公は、孔子の一行が都に入ったのを知る。


「その孔子と云う聖人は、人に如何なる術を教える者である。」
と、霊公は手に持った盃を乾して、将軍に問うた。
「聖人と云う者は、世の中の凡ての智識の鍵を握っております。然し、あの人は、専ら家をととのえ、国を富まし、天下を平らげる政の道を、諸国の君に授けると申します。」
将軍が再びこう説明した。
「わたしは世の中の美色を求めて南子を得た。また四方の財宝をあつめて此の宮殿を造った。此の上は天下に覇を唱えて、此の夫人と宮殿とにふさわしい権威を持ちたく思うて居る。そうかして其の聖人を此処へ呼び入れて、天下を平らげる術を授かりたいものじゃ。」


こうして、孔子の一行は、衛の霊公にまみえる。

「公がまことに王者の徳を慕うならば、何よりも先ず私の欲に打ち克ち給え。」

孔子はそのように説き、その日から霊公の心を左右するものは、夫人の南子の言葉ではなく、聖人の言葉になる。

徳政に取り組む、霊公。

「一日、公は朝早く独り霊台に上って、国中を眺めると、野山には美しい小鳥が囀り、民家には麗しい花が開き、百姓は畑に出て公の徳を讃え歌いながら、耕作にいそしんで居るのを見た。公の眼からは、熱い感激の涙が流れた。」

おお!

孔子の進言に依って、霊公は徳政を敷くようになるのか。


いやいや。

そこに、遠ざけられていた、寵姫の南子が現れる。


「あなたは、何を其のように泣いていらっしゃる。」
其の時、ふと、こう云う声が聞こえて、魂をそそるような甘い香が、公の鼻を嬲った。其れは南子夫人が口中に含む鶏舌香と、常に衣に振り懸けて居る西域の香料、薔薇水の匂であった。久しく忘れて居た美夫人の体から放つ香気の魔力は、無残にも玉のような公の心に、鋭い爪を打ち込もうとした。

「どうぞお前の其の不思議な眼で、私の瞳を睨めてくれるな。其の柔らかい腕で、私の体を縛ってくれるな。私は聖人から罪悪に打ち克つ道を教わったが、まだ美しきものの力を防ぐ術を知らないから。」
と、霊公は夫人の手をはらい除けて、顔を背けた。」


美夫人の様子が、香気が鼻を打つかのように描かれる。

罪悪には打ち克てても、美には抵抗しがたいのだ。

以下のように、南子夫人の凄まじさが現れてくる。



「ああ、あの孔丘という男は、いつの間にかあなたを妾の手から奪ってしまった。妾が昔からあなたを愛して居なかったのに不思議はない。しかし、あなたが妾を愛さぬと云う法はありませぬ。」


夫人の怒りは、夫の愛情が衰えた事よりも、夫の心を支配する力を失った事にあった。

公は、それでも心を奮い立たせ、夫人に対します。


「私はお前を愛さぬと云うではない。今日から私は、夫が妻を愛するようにお前を愛しよう。今迄私は、奴隷が主に仕えるように、人間が神を崇めるように、お前を愛していた。私の国を捧げ、私の富を捧げ、私の民を捧げ、私の命を捧げて、お前の歓びをあがなうことが、私の今迄の仕事であった。けれども聖人の言葉によって、其れよりも貴い仕事のある事を知った。」


どうです。

世間の人には、「家畜人ヤプー」を百回読むより、谷崎潤一郎を一回読め、と常々言っているが、
君主がすべてを捧げて夫人の歓びをあがなおうと尽くす姿が、奴隷と主に例えられる、との根源的な姿tがあるからだ。

夫人は、霊公への支配力を取り戻す力のある事を述べ、では孔子の魂を捕虜にしようと、去っていく。



ちなみに。

夫を愛していないが、夫に服従を求める南子が描かれているわけだが、

アーサー王の円卓の騎士に、ガウェイン卿という人物が居るのをご存知だろうか。

ガウェイン郷がラグネル姫と結婚するエピソードに、同様の謎掛けが出てくる。

ある魔術的な悪い騎士が、

アーサー王に謎掛けをする。

女性が真に望む事は何か。

アーサー王は、答えを探し求める。

美か?愛か?地位か?

どれもありふれており、答えでは無さそうだ、

その正しい答は、

すべての男性を支配する事。

ちょっと出典がすぐ出て来ないが、

現代の女性なら「違うと思う」と即座に言いそうである。

その答には諸説がある。

しかし、世の男性には、

女性に君臨される事への恐怖、

或いは快楽の視点がある、あるいは、

そう思う人もあるのだな、と感心した記憶がある。





南子夫人は、宦官を遣わして、孔子一行に伺候を求める。

謙譲な孔子は其れに逆らえず、南子の宮殿に挨拶に出向く。

柔らかい言葉で、孔子の心をぐさりと刺すべく南子と、聖人孔子のやり取りが描かれる。

そして。


「先生がまことの聖人であるならば、豊かな心にふさわしい、麗らかな顔を持たねばなるまい。妾は今先生の顔の憂いの雲を払い、悩ましい影を拭うて上げる。」


「妾はいろいろの香を持って居る。此の香気を悩める胸に吸う時は、人はひたすら美しい幻の国に憧れるであろう。」


そう言って、美しく装った七人の女官に、香を焚かせる。

しかし、聖人の顔の曇りは深くなるばかりであった。

夫人は、次に。聖人の体にくつろいだ安楽を与えようと、美しく装った七人の女官に、酒と盃を運ばせる。

しかし、聖人の眉の顰みは濃くなるばかりであった。


更に夫人は、美しく装った七人の女官に、様々な鳥と獣との肉を運ばせる。

しかし、聖人の顔の曇りは晴れなかった。


「ああ、先生の姿は益立派に、先生の顔は兪美しい。あの幽妙な香を嗅ぎ、あの辛辣な酒を味わい、あの濃厚な肉を喰ろうた人は、凡界の者の夢みぬ、強く、激しく、美しき荒唐な世界に生きて、此の世の憂いと悶とを逃れることが出来る。妾は今先生の眼の前に、其の世界を見せてあげよう。」



それは、どのような世界か?

幻影ではなく、南子夫人が庭のきざはしの下に実現している、その世界は、以下。

孔子一行は、何を見せられたのか?


「階の下、芳草の青々と萌ゆる地の上に、暖かな春の日に照らされて或いは天を仰ぎ、或いは地につくばい、躍りかかるような、闘うような、さまざまな形をした姿のものが、数知れず転び合い、重なり合って蠢いて居た。そうして或る時は太く、或る時は細く、哀れな物凄い叫びとさえずりが聞こえた。ある者は咲き誇れる牡丹の如く朱に染み、ある者は傷つける鳩の如くおののいて居た。其れは半ばは此の国の厳しい法律を犯した為、半ばは此の夫人の眼の刺激となるが為に、酷刑を施さるる罪人の群であった。一人として衣を纏える者もなく、完き膚の者もなかった。其の中には夫人の悪徳を口にしたばかりに、炮烙に顔をこぼたれ、頚に長枷を嵌めて、耳を貫かれた男達もあった。霊公の心を惹いたばかりに夫人の嫉妬を買って、鼻を削がれ、両足を断たれ、鉄の鎖に繋がれた美女もあった。其の光景を恍惚と眺め入る南子の顔は、詩人の如く美しく、哲人の如く厳粛であった。」


炮烙に顔をこぼたれ、というのは、
顔を焼かれた状態ですね。

うららかな春の日差しと、香り高い若草の青々とした庭と、酸鼻を極めた罪人等の姿。

「あの罪人たちを見たならば、先生も妾の心に逆らう事はなさるまい。」


上記の描写だが、

言葉を尽くして具体的に詳細を描く手法もあろうが、

谷崎のように、文章を押さえて香り高く濃厚な血の香気を立ちのぼらせる手法は、
純文学作家の力量がないと、不可能である。

そして、鍛え抜かれた文章は、
脳裏に深い想像を掻き立て、心に残るのだ。


そして、

南子は、霊公と席を並べて車で市街を行く。
その後には、悲しそうな顔をした聖人、孔子の一行が乗っていた。
街の人々は、それを見て、
南子の勝利を知るのだった。


「其の夕、夫人は殊更美しく化粧して、夜更くるまで自分の閨の錦繍のしとねに、身を横たえて待っていると、やがて忍びやかな履の音がして、戸をほとほとと叩く者があった。
「ああ、とうとうあなたは戻って来た。あなたは再び、そうしてとこしえに、妾の抱擁から逃れてはなりませぬ。」
と、夫人は両手を拡げて、長き袂のうちに霊公をかかえた。其の酒気に燃えたるしなやかな腕は、結んで解けざる縛めの如くに、霊公の体を抱いた。

「私はお前を憎んで居る。お前は恐ろしい女だ。お前は私を亡ぼす悪魔だ。しかし私はどうしても、お前から離れる事が出来ない。」
霊公の声はふるえて居た。夫人の眼は悪の誇りに輝いていた。」


明くる朝、
公子一行は、衛を離れる。


霊公が、気弱な、しっかりしていない君主に描かれていはしない。

太刀打ちしがたい美と残虐と官能とよこしまの化身に、

敗北する悦楽を語っているのだ。


そうした悦楽は、谷崎の作品には、繰り返し描かれるのである。
















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# by leea_blog | 2017-05-07 23:10 | Comments(0)

どうでもいい内容の日記・飼い猫に赤ちゃん言葉使う?



夕立だ。

洗濯物を干したまま出かけた人は、ショックだろう。

いつの頃からか、

東京は、熱帯か亜熱帯のように、

スコールに見舞われる地域となった。

夏はヒートアイランド現象で酷熱、

冬はコンクリート冷えで極寒。


以前より暮らしやすくなった点は、

夏の冷房温度が、節電の観点から、

適度になった事だけだ。

東日本大震災の以前は、

携帯カイロと膝掛けは、

夏の冷房対策必需品であった。

電車内、オフィス、デパート、

ギンギンにひやしていたものだ。

冷えたビル内から外に出ると、

気温差が激しくて、

大変辛かったものだ。







今日は後で、

谷崎潤一郎の短編、「麒麟」を紹介する。

残虐、鬼畜、耽美の世界である。


ネットでニュースをチェックするのが日課であるが、

ついでに、

どうでも良い話題も読んで、

気分の転換をしている。


先日、どうでも良い話題に、

「彼女と別れた変わった理由ランキング」のようなものを読んだ。


その一つに、

「電話で彼女と話していたら、彼女が飼い猫に赤ちゃん言葉で話しかけて、
怖くなって別れた」、

のような内容が載っていた。


あれれ?

猫を飼っているお家では、

みんなやりませんか?

赤ちゃん言葉。


「よちよち、いい子でちゅね〜」

「しゅきでちゅよ〜」

「(撫でながら)ここでちゅか〜?」


比較的近所の友人宅でも、

独身社会人の息子さんが、

猫を構いながら赤ちゃん言葉やってます。


私も遊びにいって猫にゃんを構う時には、

つい赤ちゃん言葉してますね。


犬だと、上下関係があるので、

赤ちゃん言葉は使わないかもしれない。

猫以外にも複数動物を飼っていると、

やらないかもしれない。



猫だけを飼っているお宅は、大抵そういうものだと思っていたので、

思わず笑ったのであった。


まあ、その程度の事で一々彼女と別れていたら、

ちっとも恋人ができないような気がするぞ。





かく言う私も、

本当は秘密だが、

最近は、人形相手に、


「無后にゃん、可愛いでちゅね〜」とか、

言ってしまいます。

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男児用着物を着せ、つくづく見ると、

腰の辺りはあたかも「尻」があるかのような形である。

実際は、服の下には、尻は無い。

宮無后、胸騒ぎの腰つき。


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特にファンという訳でもないが、原無郷のバッグ。

可愛い。

pili直営店で、買ってしまったものの、

いい歳をした熟女がこういうバッグで外出する訳にも行かず、

室内で観賞用にしていた。

友人曰く。

「大丈夫。
私たちくらいの歳になると、
見る人は、
娘のバッグを借りてきたのだろう、と思うから」


なるほど!

と、言う訳で、

最近は外出にも使っている。















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# by leea_blog | 2017-05-07 19:27 | Comments(0)

台湾人形劇の人形と迎える、端午の節句



今日は五月五日。

端午の節句だ。

ウチにいる台湾人形劇の人形たちに、

柏餅を買ってきた。

彼等は人形だし、男の子なので、

雛祭りも端午の節句も、

両方祝えて良いものである。


柏餅を皿に並べながら、

歌った。


「柱の傷はおととしの

五月五日の背比べ

ちまき食べ食べ兄さんが測ってくれた背の丈」


昨今の住宅事情では、

特にマンションでは考えにくいが、

私が子供の頃は、

子供たちの背の丈を柱に刻んだものだ。

どれくらい背が伸びているか、子供にも分かる。

端午の節句が近づくと、

子供の居る家ではどこも鯉のぼりを上げる。


朝、紐で庭に建てた柱の上の方に上げ、

夕方には紐で鯉のぼりを降ろすのだ。

それを毎日繰り返し、五月五日を迎えた。



のんびりした、おおらかな時代だった。


うちの両親のように、

財産の無い薄給の会社員、

妻は専業主婦、でも、

庭付きの家を買えて、

豊かな生活とは行かなくても、

子供も三人育てられたのだから、

現代とはだいぶ違う。


現代だと、色々と様変わりしているが、

思いつくだけでも、

都内では、

マンションの平均価格が、

「誰が買うんだろう???」という金額になっている。

昔は郵便貯金の利率が高く、

利息で老後を過ごす人も居た。

現代では、

老後の生活資として、

貯金と定年後の労働を薦められるものの、

モデルプランの貯金額が、

「そんな貯金額を持っている熟年層がどれだけ居るのか???」という

金額になっている。

非正規雇用が増えている現代で、

「結婚して家を持って子供を育て、老後を何とかしのぐ」モデルプランが、

頑張っても難しそうな状態になっているのだ。

若い世代が人生に夢を抱けなくなりがちなのは、

様々な理由があるわけだ。

更に、

私の子供の時代は、

貧しい家庭が珍しくなかった。

学歴も、高校卒で働く人も多かった。

「相対的な貧困」、という観点から見ると、

貧しくてもそれほど深刻にならないで済んだわけだ。



その代わり、

女性の就業機会は、当時に比べて増えている。


気持ちを切り替えて、

ウチの人たちと柏餅を食べよう。



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男の子の節句のせいか、いつもより凛々しい、
素還真と宮無后。

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宮無后に黒地の男児用着物を着せたら、
何のキャラか分からない状態になっている。

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宮無后の得意技、
「もの思わしげな眼差し」。
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正面から撮ってみた。
色気の具合が、いつもと別人。

これはこれで、
一撃必殺。












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# by leea_blog | 2017-05-05 21:13 | Comments(2)

ヘルマン・ヘッセ「幸福論」幸福とは?



世には、沢山の、幸福について書かれた本が有る。

幸福とは?

幸福の基準は、人の数ほどあるだろう。


人が自分で幸福と感じなければ、

他の人から「あなたは幸せな人だ」と幾ら言われても、

意味が無い。

また、人から見れば、

不幸に見えようとも、

本人が幸せだと思っていれば、

それ以上の幸せは無いのだ。


とはいえ、

お釈迦様の時代の前より、

人生は苦しいものであるらしい。


ヘッセの「幸福論」。

新潮文庫の、エッセイ集である。

たった13ページだが、

幸福についての極めて貴重な、

美しい言葉と深い考察で書かれた、

素晴らしいエッセイである。


同文庫に収められた話はどれも素敵なのだが、

13ページの幸福論を読むためだけに買っても、

おつりが来るくらいである。


過日、江戸川乱歩のエッセイ「残虐への郷愁」を紹介した。

江戸川乱歩は、古来の神話伝説にまで遡り、

残虐への郷愁を見つめ続け、考察を重ねた。


ヘルマン・ヘッセは、

人生で繰り返し、幸福とは何かを

自ら問い続けた。

それが短い文章に結実しているのが、

「幸福論」である。


ちなみに、

私にとって、人生で繰り返し問い続け、

ことあるごとに思い返し考察するのは、

「異界」、「異界との橋渡し」である。


そのように、その人が人生の中で、

長年かけて問い続ける「核心」を読むのは、

とても素晴らしい事だ。



私は現在、脳が「幸福ホルモン」をほとんど出さなくなる病気なので、

再読してみた次第である。


「いや、各個人にとっても、まだことばの無い原始世界、あるいは究極まで機械化された、そのためふたたびことばの無くなった現実に生きているのでないかぎり、ことばは人格的な財産である。ことばに対する感受性を持っている人、支離滅裂になっていない健全な人間にとっては、例外無く、語やつづり、字母や形、文章構成の可能性などは、特殊なその人固有な価値と意味を持っている。すべて真のことばは、それがわかるようにそれを持って生まれついたすべての人によって、まったく個人的に一回的に感じられ体験されうるのである。当人がそれを何ら自覚しない場合にも。」


ものの価値観と経験と感受性が、人それぞれであるように、
ことばは、同じ言葉を使っている場合にも、
ひとそれぞれに意味合いが違う。

それを読み取ろうとすると、
自分の価値観や感受性と反応して、
合奏のような効果が生まれる。

人は時に同じようでもあり、
時にまったく相容れず、
同じ人は二人と居ない。

世界はそのように構成されている。

それは、大変壮大な事である。


「幸福の話と思ったら、

言葉の話か?」と、

諸氏は違和感を覚えるであろう。

ヘッセは、

「幸福」という言葉を取り上げて、

その蜜のような効果を考察するのである。

そのあたりが、

世間に溢れる「幸福とは?」の本と、

決定的に異なる。

そして、信頼が置けるのである。



「千べん使っても使い損ずるおそれのない日常語もあれば、どんなに愛していようとも、慎重に大切にして、荘重なものに似つかわしく、まれに特にえりぬいて初めて口にしたり書いたりする、別な荘重な語もある。

私にとっては幸福(gluck)ということばは、そういうものの一つである。」


こうして、幸福ということばがいかにヘッセにとって素晴らしい価値を持っているかが続いて語られる。

「それは、私がいつも愛してきた、好んで聞いてきたことばのひとつである。その意味についてはいくらでも議論をし、理屈をこねることができただろうが、いずれにしてもこの語は、美しいもの、良いもの、願わしいものを意味していた。この語のひびきもそれに相応している、と私は思った。

この語は、短いにもかかわらず、驚くほど重い充実したもの、黄金を思わせるようなものを持っている、と私は思った。充実し、重みがたっぷりあるばかりでなく、この語にはまさしく光彩もそなわっていた。雲の中の電光のように、短いつづりの中に光彩が宿っていた。短いつづりは、溶けるようにほほえむようにGlと始まり、uで笑いながら短く休止し、ckできっぱりと簡潔に終わった。笑わずにはいられない、泣かずにはいられないことば、根源的な魅力と感性に満ちたことばであった。これを正しく感じようと思ったら、この黄金のことばのそばに、遅くできた、うすっぺらな、疲れたニッケルあるいは銅のことばを、たとえば、所与とか利用とかいうことばを並べてみれば、すべては明らかだった。疑いもなく、それは辞書や教室から来たことばではなかった。考え出され、転化され、合成されたものではなく、一つで、まとまっており、完全であった。太陽の光や花のまなざしのように、空と大地から来たものだった。そういうことばの存在したことは、なんと良く、幸福で、心なぐさむことだったろう!そういうことばを持たずに生きたり考えたりすることは、しおれ、すさむことだろう。パンや葡萄酒のない、笑いや音楽のない生活のものだろう。」



文筆家は言葉の専門家である。

鉱物を鑑定するように、
言葉の真贋を見極めようとする姿勢に、

読者も、思わず、
幸福、という言葉そのものの持つ言霊に目を向けるだろう。


「完全な現在の中で呼吸すること、天球の合唱の中で共に歌うこと、世界の輪舞の中で共に踊ること、神の永遠な笑いの中で共に笑うこと、それこそ幸福にあずかることである。多くの人はそれをただ一度だけ、あるいは数回だけ体験した。しかしそれを体験した者は、一瞬のあいだ幸福であっただけでなく、没時間的な喜びの光輝やひびきのなにがしかをも得てきたのである。」



どれほど悲惨にあえいでいる人でも、
過去に、一瞬も、一度も幸福と感じたことが無かったか、と言われると、
あった筈だと思い返すであろう。

苦しみにまみれ、
記憶の隅に押しやられていたとしても、

継続的ではなくともいいのなら、
常に幸福では無くてもいのなら、

一回か数回でも、
一瞬でもいいのなら、
経験した筈だ。


現代人にとっての、
「幸福を感じるハードル」が、
読むうちに大きく下がるのを感じるだろう。


「数日、数時間、あるいはほんの数分間の体験であったにせよ、私は幸福をいくども体験した。のちになってからも、年を取ってからも、数瞬間幸福に近づいたことがあった。しかし、人生の初期に出会った幸福の数々を呼び返し、たずね、吟味してみるたびごとに、そのうちの一つが特にはっきりと残った。それは私の生徒時代のことだった。その幸福との出会いの独特な点、純粋な点、根本的な点、神話的な点、静かに笑いながら宇宙と一体になっている状態、時間や希望や恐怖から絶対的に自由である状態、完全に現在である状態、それは長く続きはしなかった。おそらく数分間しか続かなかった。」



その記憶が具体的にその後に続き、

短いエッセイは終わる。


数分の幸福の記憶が、

その後の長い人生に、

幸福の照り返しを放射し続けるのである。


ヘタな幸福論を何冊も読むよりは、

ヘッセのこの短いエッセイを読むことを、

大いに推奨する。

なぜなら、

根源的であり、

多くの人の、幸福感の実践トレーニングにも役立つ為である。







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# by leea_blog | 2017-05-03 13:24 | Comments(0)

馬鹿日記・賢人に相談してみる



人呼んで「書物の樹海」こと、当家には、

台湾人形劇の人形が二人居る。

半分神仙の素還真と、薄幸の麗人、宮無后だ。

素還真とは友達なのだが、

宮無后の方とは、

無后が髪を解いてから、

江戸川乱歩の「人でなしの恋」になりつつある。

禁断の、人形愛の世界に堕ちていくのだ。

いいのか?これで。

賢人の素還真に相談してみる。





りーあ「ねえ、素還真。振り返って見ると、貴方が無后に、白い長襦袢を貸した所から始まっているように思えます」

素還真「公主は見事に悩殺されましたね」

りーあ「いや、人形に二世の契りを迫られるのは、怖かったです。

そんなに真剣に思ってくれるとは、予想していなかったし。

あの時、色々葛藤があったわけですが、怖さの一つに、

今後私に恋人候補が現れたら、無后に祟り殺されるかもしれない、という怖さがあってね。」

素還真「公主は、過去日記でも書いておられるでは有りませんか。

恋愛対象の範囲がとても狭くて、該当者がほとんど現れない、と。

将来の事を心配するより、家庭内の愛に目を向ければ良いと思います」

りーあ「うん。あの時は怖かったけれど、

最近は、祟られたら祟られたで、それでも良いかな、と思うようになっているの。」

素還真「愛情を受け入れる気持ちになられて、良い事です」

りーあ「良い事かな? 最近は、無后のような人にしか恋愛出来ない気分です。

それって、困った事じゃない?」

素還真「公主の関心事に、人間との恋愛は入っていないでは有りませんか。特に困らないでしょう」

りーあ「リアル江戸川乱歩を実践しているわけですが、これでいいのかなあ」

素還真「人でなしの恋の夫は、それほど好きな人がいて、幸せだったと思います。誰かを好きになる事は、大切ですよ」

りーあ「私の気持ちが、こう、禁断の人形愛に傾いてしまうのはね、

一つには、散髪版になってからの無后、髪がすぐ乱れるので、

毎日丁寧に髪をとかしてあげる訳です。

すると、段々、私の心も、なんてかわいい子だろう、と傾いていくのです」

素還真「微笑ましいですね」

りーあ「散髪版になってから、お布団の隣で寝かせたり、抱き上げてそのまま、お腹の上に寝かせて、
手を無后の背中に当てるとかも、しているわけですよ」

素還真「親密度が増していますよね」

りーあ「無后は、体の作り方が柔らかいせいで、

そういう姿勢だと、無后の両手は私の脇腹に置かれてね、

小さい頭が、胸に押し付けられる感じで、可愛いのです。

でもそれは、衣の重さが分散されて、木製の頭が重いままだから、

頭を押し付けて来ているように感じられるだけでしょ?」

素還真「ははは。一々理由を考えなくても良いのに、

公主は、ただの人形だ、と思いたがるのですね」

りーあ「一々理由を考えちゃうわよ。蟻地獄の斜面をずり落ちていく感覚ですから。

無后は、肩と股関節が柔らかいせいで、

しっくりと体重を預けて来るんですよ。

それで、仰向けで無后をお腹に乗せているとね、

私の視界には、

安らか〜に呼吸して上下する、無后の可愛い後頭部が見える訳です。

そういうのを見ているうちに、人形に見えなくなっていくのです。

それは私が一々自覚しない、私の呼吸で動いているだけで。。。。

でも、普通の人形だったら、肩と股関節は固定されているから、

こういう感覚にはならないと思うの」

素還真「そのような良い人形をお迎え出来て、良かったじゃないですか」

りーあ「それはそうですが、日ごとに好きになってしまうのが、これで良いのかな、と心配になるのです。昨日など、お腹に無后を乗せて横になっていたら、気がついたら二時間も経っていたのです!」

素還真「公主は今とてもお疲れなのです。二時間横になっていた所で、

困らないでしょう。むしろ、公主がすぐやるべき事は、休息なのですから」

りーあ「その通りですね。。。でもね、人形だと言う事をしばしば忘れてしまうのは、

最近、無后が私の顔に触れて来るのです」

素還真「愛しているのでしょう。可愛いでは有りませんか」

りーあ「顔は、皮脂が付くからやめて欲しいんですね。それを言ったら、今度は耳に触れて来ます。

可愛過ぎて、何が何だかわからなくなります」

素還真「世間の人形愛の人がうらやむような、いい子では有りませんか。

幸福を堪能なされば良いだけですよ」

りーあ「ううーん。確かにそうですね。

素還真は賢いです」



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# by leea_blog | 2017-04-30 16:08 | Comments(4)

近況報告・


過日予想した通り、もう暫く休養するよう、診断されました。

復帰して異動を願い出ようと思っていましたが、

丁寧な口調で互いに殴り合うメールのやり取りに、

疲労困憊し、自分でも、「5月からの復帰は無理だな」と。

食事をしても気持ちが悪くなる状態では、

仕事どころでは無いだろう。




このようなやり取りを繰り返している為、

せっかく療養しても、また体調は振り出しに戻ってしまうのだ。


医師から以前から薦められていた通り、

今回の診断書には、

「管理部長と庶務課長が謝罪して対応を改めれば復帰出来ると言っている」話を、
明記してもらった。

診断書に名指しされたくらいでへこたれるような部長と庶務課長ではないと思う。

そもそも、中村庶務課長とは面識も無いし、

ここまでされるいわれは、

無い、と、

言ったら嘘で、

おそらく、揉めている労●局の指示だと推測している。

あるいは、中村庶務課長が、

サディストで、

面識有るか無いかは問題ない、という路線もある。



これも前から医師に薦められていることだが、

弁護士に依頼しなくてはならないだろう。

医師でなくとも、誰からみても、それしか無いだろう。。。

が、精神的にも経済的にも、依頼者の私の負担が大き過ぎる。

今は休憩して、

体力と気力を養わなくてはならないだろう。。。。



谷崎の再読と、

ヘッセの再読が大変面白い。

読みたい本が山積みになっているのだが、

庶務課長とのやり取りに、

完全にガス欠状態で、

栄養を付けようと買ってきた苺とベビーリーフを食べる気力も出ない。

復帰したとしても、

こういう目に遭っては、

定年までとても持ちそうに無さそうで、

心底、トホホである。


若い頃は、

いい歳まで企業に仕えたのに、

再就職が出来ないような歳になってからリストラされる昨今の風潮を見て、

「これは酷い。自衛策が必要だな」と思っていたが、

まさか自分がパワハラで似たような目に合うとは、

思っていなかった。

「生活力が無さすぎる」自分にも、がっくりである。







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# by leea_blog | 2017-04-29 21:27 | Comments(2)