陋屋日記・人形愛に傾斜して行く日々



住民税の案内が来た。

住民税は、

前年の収入を元に計算されるので、

収入が途絶えた時に注意しておかないと、大変だよ、と、

よく耳にした。


本当に大変だった!

金額に度肝を抜かれて、

問い合わせの電話をした。


一月から五月までの分を収めなくてはならないとの事で、

要は、先払いだ。

後で人づてに聞くと、

払えない人は分割払いにも応じてくれる、との事だったが、

そういう事を知らない私は、

かき集めて払った。


一月分の厚生年金と、

健康保険の請求も来た。

金額の計算方法が、

実際の収入に基づくのではなく、

「普通に働いていたら、この金額になる」というものなので、

痛手である。


ちゃんとした人なら、

この手の出費は想定内で、

「より節約に励む」のであろう。

私はこういう出費でお金がなくなるストレスがあると、

「節約なんかしても、無駄だ。

貯金したところで、

こんなに持って行かれてしまうのだ。

いくら節約した所で、焼け石に水過ぎる」

と、感じてしまう方である。


うーん、高すぎるでしょう、住民税。

厚生年金も、健康保険も。


普段、私は、給与明細を、詳細に見ない。

額面と手取りの落差を見ると、

真剣に意気消沈してしまうためである。


それらが、ちゃんと使われているのなら、

国民の義務感も湧くのだが。



必死に、大金を?振り込み終わり、

人生お先真っ暗な気分で夜を迎えた。



台湾のSさんから、

中国の人形屋の、宮無后情報があった。

画像を見て、

魅せられた。


ウチに居る宮無后は、

黒目の部分が大きくて可愛い系だが、

それは、美人系であった。

帽子を被っている正装版と、

帽子を被っていない普段版の、

二人いてもいいな、と常々思っていた所だった。


魅せられた、とあっさり書いているが、

「脳に直接活性薬を注射されたら、きっとこんな感じ」という位、

いきなり頭が活性化した。

自分でも驚いた。


私にとって、

宮無后人形と言うものは、色々な点で、

特別の存在である。

素還真も、多くの点で、特別だが、

宮無后は、人生史上初、の特別さである。


私は職場のパワハラで、心を病み、

強度な自殺願望を患っていた。


自殺願望は、何かの魔法かと思う位の一連の出来事で、

消えて行ったが、

「自殺しないで良かったと思うか?」

と人に聞かれれば。

「いいえ。死んでないから生きているだけ」

としか言えなかった。



が。

宮無后人形と毎日接するうち、

江戸川乱歩の短編、

「人でなしの恋」のような、

人形愛が内部に育まれて行った。


単に人形を愛でるなら、

経験はある。

しかし、人形愛は、

これまでの人生で、初の体験である。

素還真は友達人形だが、

宮無后は、ちょっと、言葉に変換しかねている。


そして、根が深い事に、

宮無后は、

私の表現者としてのテーマにも、

深くからんだ設定なのである。



私の作品に、

「人さらい」シリーズがある。

宮無后は、

「異界にさらわれた子供」、その後の一つなのであった。

そして、私の創作テーマと密接に関わりながらも、

絶対私では描かないような、キャラクターなのである。


私の心に様々な神話的な作用を及ぼしながらも、

台湾の人形屋で約束通りに出来上がって来た素還真と異なり、

宮無后は、

長い納期が来ても、出来て来ず、

更に待たされ続け、

督促すると、

とうとう人形屋から

前金の返還を申し出られてしまった。


台湾のSさんのご尽力で、

返還された前金を元に、

別のルートで確保。

私は大型台風襲来で台湾中の交通がストップする中を、

迎えに行ったのであった。。。。


言葉も習慣も分からない私にとって、

宮無后人形は、

「あ、あの、お金なら払います、売って下さい」と言っても

手に入らない存在の象徴の一つであった。

それが、手に入った。

お金では換算出来ない、価値である。




そもそも、

人形劇の人形が、原寸サイズで売っている、など、

まったく想像もしていなかった!

台湾人形劇PILIの人形たちの特別なところは、

実際に動かす事を前提に作られている、という点だ。

これは、観賞用に作られた通常の人形とは、

人形作家が込めた魂の種類が異なる。


と、いうことで、


長く生きていると、

今までに無い経験がまだまだ体験出来るよ、とは、

言えるようになった。






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# by leea_blog | 2017-02-01 13:55 | Comments(0)

人形愛・冬限定バージョン

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素還真「無后さん、良い事を教えてあげましょう。

    公主は、毛皮フェチです。

    毛皮をまとっていれば、

    公主がほおずりしてくれる面積と時間が、

    三倍くらいになるはずです」


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宮無后「暖かい。。。。スベスベする。。。

    これはこれで、

    公主がほおずりして下さらなかったとしても、

    何だか気持ちが良い。。。。。」



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# by leea_blog | 2017-02-01 13:03 | Comments(3)

人形愛・髪の手入れ


今日は、日中の気温が20度を観測し、

四月並みの暖かさだった。

暖気に誘われ、春のような日差しの射し込む窓辺で、

台湾人形劇、PILIの人形の、髪の手入れをした。


主人公の素還真と、

薄幸の美青年、宮無后の二人がうちにいるのだが、

PILIの人形と来たら、

実に髪が絡まりやすいのだ。


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膝の辺りまである髪が、すぐもつれるので、

上記のように、髪用のゴムやリボンで、途中でまとめておいた。

にもかかわらず、

かなり絡まっていたので、

一人ずつ膝に乗せて、

髪を手櫛で解きほぐしてゆく。

痛まないように、そっと。

根気よく。

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↑宮無后

陽気が良いので、久々に、埃除けに着せていた長襦袢を脱がせた。

スナップを撮ったら、陰のある美青年、的な画像が撮れたので、アップする。↑

うわー、思い切り、不幸そうな眼差しに撮れてしまった。。。。

これはいけない。

私の愛情が足りないのか???



それでは、人形同士、語り合ってもらおう。。。



と、急遽、素還真に慰めてもらう事にした。

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素還真「では、素某が童謡を歌ってあげましょう。

    紅いべべ着た 可愛い 金魚

    おめめをさませば ごちそうするぞ」
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素還真 「ほかの歌もありますよ。
    
     ぱちりこ ぱちりん なんだろな

     おめめを さました うさぎの ぼうや」

素還真が壁ドンしているようにしか見えない画像。。。










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# by leea_blog | 2017-01-30 21:03 | Comments(18)

耽美と女人崇拝の系譜・谷崎潤一郎「二人の稚児」あらすじ


谷崎潤一郎を再読しているが、
びっくりするほど古びていない。

そして、味わい深い文体は、
安心して耽読出来る。

昔の文豪は、
文章そのものを、
実に鍛錬したのである。

あまり知られていない短編に、
「二人の稚児」というものがある。

私は大好きな短編である。

入門編として、
「人魚の嘆き」とセットで読むのがお勧めである。

人魚の嘆きについては、
過去日記をご参照下さい。

http://leea.exblog.jp/25091842/

(拙ブログは、セキュリティーの観点から、
直接リンクが貼れません。
URLをコピーし、ペーストして飛んで下されたし)


「人魚の嘆き」は、
支那の国に生まれた貴公子が、
有り余る財力と見識眼で集めた美女と
退廃耽美の暮らしをしており、

この世の快楽を汲み尽くそうとして
ついに、
人間では到達出来ない美と悪徳の生きもの、
「人魚」を、オランダ人の商人から手に入れる。

そして、これまでの生活を捨て、

人魚の故郷、
オランダ人の商人の話によると、
「人魚など特に珍しくない」という、
異郷、欧羅巴へと旅立ってしまう。

と、あらすじを書くとつまらなくなるが、
文章には、美に耽溺する香りが濃厚に立ちこめ、
美酒のような短編だ。


「二人の稚児」は、
日本の比叡山が舞台である。

女人禁制の聖域に暮らす、
幼い頃に比叡山に入れられて、
俗世を知らない、
そして女性を見た事が無い、

二人の稚児。

清冽な文章の合間に、
魔的で、菩薩のようにも見える、

恐ろしくも美しい「女人」への、
想像と、誘惑と、耽溺が濃厚にあらわれてゆく。

いくら幼い頃に比叡山に来たと言っても、

実際は、比叡山の生活は、
もっと世俗的で、

寵愛争いも、
地位争いもあれば、

美しい稚児さんへの、
恋文なども、
僧たちから届けられたりするであろう。

そして、
女人を見た事が無い稚児さんがいたとしても、

僧たちがよってたかって俗世体験を語るであろう。

が、そこは、人魚の嘆きと同じく、

禁欲の地に住む善良な二人の稚児さん、という、

童話のような、

谷崎マジックに酔いしれるのがお勧めである。

美しい二人の稚児は、

比叡山のふもとに広がる俗世を色々想像し、

語り合う。

仏典から女人を描写した部分を見つけては、

想像を交換する。


以下、引用しよう。


「二人は幼い頃から習い覚えた経文に依って、女人と云うものが如何に獰悪な動物であるかを、よく知っている筈であった。しかし、女人が、いかなる手段で、いかなる性質の害毒を流す物であるかは、殆ど推測する事が出来なかった。
「女人最為悪難一。縛着牽人入罪門。」(にょにんはもっともあくなんをなすこといちなり。ばくじゃくしてひとをひいてざいもんにいる)と云う智度論の文句から察すれば、女人は男子を高手小手に縛めて、恐ろしい所へ引き摺って行く盗賊のようにも考えられた。」

ううむ、凄い。続けよう。

「けれども、又、「女人は大魔王なり。よく一切の人を食う。」と、涅槃経に説かれた言葉に従えば、虎や獅子より更に巨大な怪獣のようでもあった。「一とたび女人を見れば、能く眼の功徳を失う。たとい大蛇を見るといえども、女人をば見るべからず。」と、宝積経に書いてあるのが本当であるとしたら、山奥に棲むうわばみのように、あの体から毒気を噴き出す爬虫類でもあるらしかった。
千手丸と瑠璃光丸とは、さまざまの経文の中から、女人に関する新しい記事を捜して来ては、それを互いに披露しあって、意見を闘わすのであった。


たんたんと描かれているが、
こうした恐ろしい記述は、
抹香臭いと言うよりは、
幼い子供たちにとって、
冒険物や探偵小説を読むかの如き興奮をもたらした筈である。

引用を続けよう。

「そなたは唯識論の、その先の方にある文句を知っているか。女人地獄使、永断仏種子、外面似菩薩、内心如夜叉(にょにんじごくし、ようだんぶちしゅし、げめんじぼさち、ないしんにょやしゃ)ーこう書いてあるところを見ると、たとい心は夜叉のようでも、面は美しいに相違ない。その証拠には、この間都から参詣に来た商人が、うっとりと麿の顔を眺めて、女子のように愛らしい稚児だと独り言を云うたぞや」

「まろも先達の方々から、そなたはまるで女子のようだと、たびたびからかわれた覚えがある。まろの姿が悪魔に似ているのかと思うと、恐ろしくなって泣き出した事さえあるが、何も泣くには及ばない、そなたの顔が菩薩のように美しいと云うことだと、慰めてくれた人があった。まろは未だに、褒められたのやらそしられたのやら分からずにいる。」
こうして話し合えば話し合うほど、ますます女人の正体は、二人の理解を越えてしまうのであった。」


上記のやりとりは、実に素晴らしい。

「外面似菩薩、内心如夜叉」。

ほおー。

若い頃、この文句が、実に頭に残った記憶がある。

西遊記にでも出て来そうである。

それが、妖怪でも何でも無く、

普通にその辺に居る女人を描写した所が、

この世が地続きで異界に接しているかのような、

西遊記の妖怪がその辺にいるかのような、

しかもそれが、

たまらなく美しく妖力を備えている不思議で恐ろしい存在であると言う事が、

実に味わい深かった。


リアル女人である私としては、

「酷い言われようだ」とまるで思わずに、

この世が異界と混じりあっており、

自分が菩薩のように美しく、

夜叉のような妖力を備えたものであるかのような、

満足した気分になった記憶がある。


子供にはよくある事に、幼い頃、

私は、どうも人間界に違和を覚え、

「私は妖怪なのではないか」と思った。

ボキャブラリーも概念も乏しい幼さの頃は、

「私は何の妖怪なのだろう。雪女かな。

寒いのが苦手だから、違うだろう。

きっと化け猫だ」

と、妖怪たちの絵を書いていた。

長ずるに従って、

神話の生きものになったり、

まあ、中学生の頃には、

「前世はエルフだな」と思ったり、

それが大人になっても、まったく治っていないのだが、

人からも、「本当は妖怪なのではないですか」と、

しばしば言われるので、違和感が無い。

そうした訳で、この二人の稚児の想像は、

神話的真実を云い得ているのではないだろうかと思う。

一方で、

男性という生きものが如何に不自由なものか、

女性で良かった、と思うのであった。



さて、こうした、憧れに裏打ちされて、

恐れたり、不思議がったり、という二人の稚児の女人談義であるが、

急展開を迎える。


歳上の稚児、千手丸は、だんだん、

女人の幻に責め立てられ、

つまり、単なる好奇心では無い、

煩悩が成長とともに生まれ、

怪しい憧れ心に、

夜な夜な、苦しんで過ごすのであった。


そして、ついに。

十六歳になった千手丸は。

煩悩の炎に苦しむあまり、

出家する前に、比叡山のふもとに下って、

実際の女人を一目見て、煩悩を払おうと決心する。

「そんな事をして、上人に叱られはしないだろうか」、と心配する、十四歳の瑠璃光丸。

なにしろ浮き世という場所は、

女人という妖怪が住むばかりではなく、

山賊もいて、命を奪われるかもしれない場所である。

叱られるで住めば良いが、生きて戻れないかもしれない。


が、千手丸は、昼までには戻る、と言いおいて、

山を下りてしまう。

そして。

戻って来ないのであった。


「一旦浮世へ出て行ったからには、大海の中へ石ころを投げたも同然。千手の体は、もうどうなったか分かりはせぬ」

と、稚児たちの師匠である上人はいう。

瑠璃光丸は、なぜ千手丸を止められなかったのかと思い、また、上人たちの話から、
一緒に行かなかったのは、仏の加護が有ったのだと思うようになる。


しかし!

ここからが佳境である。

千手丸が行方を断って、半年後!

瑠璃光丸に、話しかける奴僕風の男があった!

主から文を預かって来たという。

怪しむ瑠璃光丸だが、文は、千手丸の筆跡であった。

おお。千手丸は生きていたのだ。


千手丸は、山を下りてほどなくして人買いにさらわれ、売られ、苦労をしたようだ。

が。

とある長者に売られた所、美しい容姿を長者の娘に見初められ、その家の婿になったのである。

そして、

「浮き世は決して、山の上で考えていたような幻でもなく、恐ろしい所でもない。女人と云うものは、猛獣や大蛇などに似ても似つかない、弥生の花よりもきらびやかで、御仏のように情け深いものだ」と

文には書いてあり、千手は妻を得たばかりではなく、二十五菩薩よりも美しい遊女たちの群にかしずかれながら、蝶のような美しい毎日を送っている、という。


そして、山に残して来た瑠璃光丸を気の毒に思い、
従者に、瑠璃光丸も山から連れ出させようと思うのであった。


自分の一生を覆し、これまでの生活を無に帰するかの、
恐ろしい選択。

別人のような、手紙の千手丸の口ぶり。

眼もくらむような、戦慄。

何が本当で、何が真実では無いのか。

千手丸は、悪鬼に魂を食われてしまったのかもしれないし?

瑠璃光丸は、奴僕とともに山を下りる事は、

ようやくの事で思いとどまる。


が!

ここからも、佳境。

一旦はこの世の恐ろしい誘惑を断ち切ったかに思えた純真な少年も、

だんだん、女人の幻想に苦しむ年頃になるのであった。

春になったら、出家するが良い、との上人の言葉が有った、冬。

瑠璃光丸は、自分のうちにも芽生えた、恐ろしい煩悩、

女人の面影に憧れる恐ろしい煩悩を、

師匠の上人に打ち明け、断ち切る方法を尋ねる。


瑠璃光丸は、上人の指示に従い、

邪念を払うために、法華堂に参籠する。

そして、満願を迎え。


まどろみのなかに、気高い老人の姿が現れた。


老人は、瑠璃光丸は、前世では天竺のある王国の王に仕えていたと告げる。

そこで、彼に思いを寄せる女性が有ったが、女性は彼をどうしても惑わす事が出来なかった。

そのため、彼はこの世でありがたい仏の教えに接して生活をし、

彼女も後を追って、比叡山の鳥に生まれ変わった。

彼女も、有り難い説法に毎日触れるうち、

来世は極楽に生まれ変わるという。

彼ととともに、弥陀の浄土に生まれ変わり、ともに過ごすという。


老人は言う。

「その女は今、独りでこの山の釈迦が岳の頂に、手傷を負うて死のうとしている。早くその女に会ってやるがよい。」

瑠璃光丸は、

浅からぬ三世の宿縁をつないでいる女人の、現世の姿に会いたさに、嶮しい山路を夢中で辿った。

途中で雪が降り出し、天も地も谷も、みるみるうちに銀色にかすんだ。

以下、引用。



「ようように頂上に達したと思われる頃であった。渦を巻きつつ繽紛として降り積もる雪の中に、それよりも更に真っ白な、一塊の雪の精かとあやしまれるような、名の知れぬ一羽の鳥が、翼の下に痛ましい負傷を受けて、点々と深紅の花を散らしたように血をしたたらせながら、地に転げて喘ぎ悶えて苦しんでいた。その様子が眼に留まると、瑠璃光は一散に走り寄って、雛をかばう親鳥の如く、両腕に彼女をしっかりと抱きしめた。」


読み進めると、

全身が総毛立つような、読後感のある、最後を引用。


「瑠璃光は、彼女よりも自分が先に凍え死にはしないかと危ぶまれた。彼女の肌へ覆い被さるようにして、顔を伏せている瑠璃光の、可愛らしい、小さな建築のような稚児輪の髪に、鳥の羽毛とも粉雪とも分からぬものが、頻りにはらはらと降りかかった。」

完。


凄過ぎる。

この世が地獄とも極楽とも地続きになり、

女人の面影に苦しむ稚児さんが最後に得たのは、

ついに、時間空間を越えた、前世来世のえにしの、

瀕死の純白の鳥であった。

瑠璃光丸は、

血に染まった純白の鳥を抱きしめたまま、

凍え死んでしまうのであろうか。



短い作品なので、

是非、人魚の嘆きとともに読んで、堪能して下されたし!

貴方なら、人魚を得たいですか、

それとも、死にひんした美しい鳥、三世の縁、を得たいですか?

それとも、通常の女人?
























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# by leea_blog | 2017-01-29 21:35 | Comments(2)

澁澤龍彦・快楽主義の哲学・桃源郷の事


書物に埋もれて生活をしている。

このところ、再読にはまって、昔読んだ本を読み直しているのだが、

読み返したい本が、書物の樹海のどこに埋もれているのか、

発掘出来ず、買い直す、という事態が続いている。

これはいかんな、と、運動を兼ねて、

部屋の整理をしている所だ。


目に入ったのが、

澁澤龍彦の「快楽主義の哲学」。

早速読んでいる。

澁澤龍彦系は、

中高生の頃よく読んだ。

入門書のようなものだ。

再読すると、年齢とともに、

感想も変わり、自分や世の中を見つめ直す事が出来て、

大変有意義である。

幼い頃、

「ガリバー旅行記」について、

学校の先生が、

「子供には空想物語、大人には風刺物語として読める」と言った。

子供の私は、

「大人になると、私でも風刺物語に見えるのかな?」と、

すこぶる疑問であった。

先生は、

「大丈夫。大人になれば、誰にでも風刺物語に読めます」と言った。

それと同じである。


そういう訳で、

近頃快楽が足りない私としては、

栄養剤のつもりで、

「快楽主義の哲学」を手に取ったのだ。

(「宮無后という愛人人形を手に入れたじゃない、

十分快楽の日々ではないのか?」と、

江戸川乱歩の人でなしの恋のような突っ込みは、

置いておいてくだされ。

それについては、いずれ書くであろう)


しかし、これが、まえがきの段階で、

私の脳は異次元を見てしまった。


現代日本人なら、

ほとんどの人が「異次元」と感じると思うので、

以下に引用しよう。

ーーーーーーーーーーーーー

まえがき

泰平ムードと言う言葉があります。言葉だけではなくて、じっさい、そういうムードがあるらしい。

戦争が終わって二十年、だらだらと平和がつづき、日本経済は高度成長をとげ、消費文化は発達し、もうなんにも苦労の種はなくなり、もうなんにもすることがないから、それ、レジャーだ、バカンスだと、かけ声もくににぎしく、あほうみたいに遊びまわっている連中もあるようです。

むろん、平和がつづくのはけっこうなことであるし、遊ぶのもおおいにけっこうなことなのですが、わたしは、このムードというやつが、どうも気にくわない。しゃくにさわる。

あなただって、うまうまとムードに乗せられて、群衆とともに山へ行ったり海へ行ったり、右往左往するのは、なんだかばかばかしいような気がしませんか。

ーーーーーーーーーーーーー


うひゃー!

「もうなんにも苦労の種はなくなり、もうなんにもすることがない」!!!


この本は、文学について激論を交わすのが好きな人向けではなく、

カッパブックスという、文学好きではなくとも読みやすいたぐいの所から出ているので、

上記は、一部の恵まれた人々の事ではなく、

世間一般を言っており、

読む人々は、特に違和感を感じなかったのだ。


「もうなんにも苦労の種はなくなり、もうなんにもすることがない」!!!




子供の塾代の心配は無いの?

住宅ローンはどうしている?

家買った人は、何年も住んだら修理費掛かるよ?

子供が引き籠もって十年以上経っていない?

老後の事はどうするの?

職場でパワハラやセクハラ、無い?

通勤電車、苦痛じゃない?

終電ぎりぎりまで過密労働していない?

狂った上司と駄目な部下の間に立ってムンクの叫び状態にならない?



と、現代人なら、

戦争が無くたって、毎日が激しいストレスにさらされており、

苦労の種は、刈り取るそばからあらわれて、

やることがないなんて事はまず無く、

庭から石油でも出ない限り、

やること山積!であろう。



現代なら、

まえがきでいきなりこんな事を書かれたら、

「このお花畑野郎!」と

総スカンをくって、

誰もそれ以上は読んでくれないであろう。




うーん、戦後二十年の頃は、

「もうなんにも苦労の種はなくなり、もうなんにもすることがない」、

という表現に、たとえ辛口の誇張であっても、

多くの人が違和感を感じなかった、

何だか日本ではない国の話のようである。

まるで、桃源郷の住人のようではないか???




大きな驚きを持って、

その時代の空気を想像してみる私であるが、

平成だって、この後、二、三十年も経てば、

もしかしたら、

「平成の時代って、なんだかんだ言って、

日本は戦争も無かったし、テロも無かったし、

内乱も無かったし、

政府に批判的なことを言っても殺されなかったし、

何より、よその国に支配されてなかったんだから、

良い時代だったらしいね〜。

うらやましい」

と、後世の人に言われるかもしれない。




唐突だが、

私は、BookOFFで流れているテーマ曲を思い出した。

「遠くへ出かけると 体がしんどい

かといって

まったく出かけないと 心がしんどい

ゆるくいこうぜ 休日ブックオフ」

とかいう歌詞のものだ。



マニアックな文学書を置いていないブックオフは、

「日本人の脳をスポンジ化しようと企む何かの陰謀があるのではないか」、と

疑ってしまうのだが、

この曲を聞いて、思った。


「商売がうまいな。

古本屋だと思うとマニアックな文芸書が無い事に腹が立つけど、

要するに、

ゲーセンと同じだと思えばいいのか。」



この歌は、現代人の休日を、うまく突いていると思う。


通勤ラッシュ、過密な仕事、バイトで心身ともに疲労困憊、

休日はともかく家で休みたい、

といっても、

まったく出かけないと、

心が辛くなる、

しかし出かけると体力も金が掛かるし、

深く考えずに、

ゆるい感じで、ブックオフにでも来ませんか、という。



レジャーだ、バカンスだ、とノリまくるには、

心身ともに疲れた人が多いのだ。


そのような時代には、

「癒し」というキーワードが流行る。


癒しは、楽しみと言うより、

世間の荒波を泳ぎきるための、

心身のメンテナンスである。

心身のメンテだから、

お金が掛かっても、必要な事である。


と、

「まえがき」の段階で、

本題とはまったく違う部分に、

いきなり脳裏を直撃されて、

現代をつくずく振り返ってしまった。























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# by leea_blog | 2017-01-23 21:43 | Comments(0)

寒波襲来の中の、日本現代詩人会の新年会・不条理頭の庶務課長と医師との会談


今シーズン最強の寒波の、ピークを越えたが、
皆様は無事に過ごされたであろうか。

1月14日の土曜は、日本現代詩人会の新年会に出かけた。

今シーズン最強の寒波が襲来している中、
受付を担当していたのだが、
受付場所は屋外であった!

服の下には使い捨てカイロを貼り、
毛皮のコートで寒さ対策をして、
無事乗り切った。

浜江順子さんから
「エスキモーみたいですね」と言われたが、
「有閑マダムみたいですね」ではなかったので、
とてもよかった。

何分仕事をしていないため、
こういう会合は、経済的な事情から、
一次会だけで帰って来るのだが、

受付を担当したのに懇親会に出ない訳に行かず、
懇親会にも出た。

こうした会合に出る目的の一つには、
自分の「やる気」を刺激する、というものがある。

庶務課長とのやり取りが、
心底疲労をもたらして、

寝込まなくても済むはずの日々を、
寝込まざるを得ず、
精神的に行き詰まっていたのだ。

こういう場にたまに出かけると、
やる気を刺激されるのだ。


帰り道、何を考えていたかというと、
「詩集を出したい」
「久々に朗読イベントも行いたい」
「揺蘭の合評会を行いたい」
「また絵を描きたい」。

うむ。実に前向きである。


そんな前向きな気分になっていたのに、


今日は、職場の庶務課長と直属の上司が、
かかりつけの医師に話を聞く、という日であった。

庶務課長は、私が想像していたより、
異常な対応の人であった。

医師は、
庶務課長が人の話を聞かないのは分かったので、
庶務課長の上司である部長に伝えるように、
庶務課長に話したという。

庶務課長と医師が話している間は、
私は待合室にいたので、
どう云うやり取りが行われたのか、
詳細は不明である。


十年以上も前になるが、
同じような状況が有り、

その時は庶務課長と医師の話を一緒に聞いた事が有る。

当時の庶務課長、林安治という人であったが、

医師に、職場の状況を話すおり、
事実と違う説明をするのであった。

要するに、「ウソ」を、
私も同席しているにもかかわらず、
言う訳である。

たとえば。

庶務課長「一階から五階まで一日何往復も階段を上り下りする業務である」

私「エレベーターが有るじゃないですか」

庶務課長「休養室が無いので、職場で湿布の張り替えは出来ない」

私「休養室が各階に有り、布団まである部屋であり、男女別になっているじゃないですか。
休養室を使わせないというのなら、トイレで湿布の張り替えしますが」


まあ、こんな具合であります。

私が同席してさえ、バレバレの嘘をつく人々でありますから、
私が同席していない診察室で、

中村庶務課長が何を言ったのかは詳細が不明だけれど、

どうせ同じような事であろう。

と、
職場状況は、偽証、捏造、違法支給、と、

コンプライアンスを大いに逸脱しており、

私の脳では、
息するように嘘をつく人たちに対峙し続けるのが、
苦痛である。

ウソは、
ばれたときの事を考えたら、
最初からつかないに限る、と私は思っている。

医師が言うには、
中村庶務課長は、
「判決が出た事ですから」と言っていたらしいが、

私が抱えている問題は、
判決では述べられていない事が

膨大に含まれている。

さも判決に書いてあるかのように医師に言うとは、
本当に恥を知らない人であるようだ。

私が同席していたら、
「判決文の何処に、これこれこういう問題が書かれているのですか?」と
即座に突っ込みを入れていたであろう。

こういう人であるから、
「上司の部長の判断を仰いで下さい」と
医師に言われても、
自分の不利になる事は絶対に伝えないであろう。

私は、こういう人間の、
歪んだ自己愛、
そのためには他人をおとしめるような種類の自己愛を、
とても醜悪な物と感じる。

対応していると、言葉に尽くせない程、疲れてしまう。

私は別に善人ではない。
が、こうした人々は、社会の害だ。

有毒の、産業廃棄物のような物だ。

こうした人々は、
私以外の人に対しても、そうした価値観で臨み、
生きている間は、
多くの人を不幸に陥れているはずだ。




そんなこんなでせっかく前向きになったのが、
今日は疲労困憊した。

気を取り直して、

今年は、
一つずつ形にしておこうと思っている。









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# by leea_blog | 2017-01-17 21:19 | Comments(0)