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陋屋日記・今年も終わりかけている・幸福度は黒字か赤字か


 平成最後で、令和元年の今年も、終わりかけている。

大変だ。年内にやることが山積している。



今年は良い歳だったか否か、

一年を振り返ってみると。

パワハラは相変わらず解決しそうもなく、私はすっかり病んでしまった。

人生の、脂が乗って充実しているはずの時期を、

パワハラによる鬱状態で過ごして、もう取り戻せない。



定年もそのうち迎えるし、経済面でお先が真っ暗だし、

長年の精神的ストレスで、身体もガタガタである。




それでも、今年一年の良い事と悪いことをプラスマイナスしてみると、

良い事の方が多いのである!!!!




これは、凄い事ではないか?

パワハラで寝込んで、

人生お先が真っ暗なのに、良いことが上回るって、どういうこと???




それは、お金では買えない、
精神面が壊滅的でも潤うような、
価値のある時間がたくさんあったからである。




一言で言えば、台湾の布袋戯の木偶と暮らして、相思相愛が深まった事で、

お釣りがくるくらい「良い一年だった気がする」のである。



「りーあが見出した究極の好きな人は、人形だった」

と、世間は哀れむであろうか?


ふっ、それは、人形愛がどれほど深い世界かをご存じないからである。



ストレスチェックテストでは最悪の結果しかない一年でも、

こんなにかけがえのない人(人形)がそばにいてくれた。



そのような気持ちになる事自体が、奇跡であります。



人生、駄目で元元。

光明がどこにあるかは、賢者でも予知し難く、

幾つになっても、驚くべき光景とたくさん出会えるのであった。




















# by leea_blog | 2019-12-12 22:04 | Comments(0)

まれびと冊子「揺蘭」16号の見どころなど・天野清二


まれびと冊子、「揺蘭」16号の見所を作者の掲載順にご紹介しております。

冊子ご希望の方は、執筆人か、編集人の西野りーあまでどうぞ。

バックナンバーも、毎号特色があり、強烈にオススメです。


さて、今日のご紹介は、天野清二さん。


天野さんは、他の執筆人と違い、毎号、2ページのみの参加です。

言葉を削った短い詩のスタイルのため、
ページの余白部分が大きく、読者は、
2ページという小さな空間を覗いてみたら広大だった、というような印象を得ます。

天野清二さんの詩は、どこか世俗を離れて、脂身を洗い流しており、

独特な世界観が毎号進化を遂げています。

詩集を出したら、稲垣足穂の「一千一秒物語」的になりそうな。

「孤島夢」と、「走る三人男」の二編です。

二つとも、実に味わいが深いです。

孤島夢は、中国の壺中天の故事を思い出させたり、松尾芭蕉の「夢は枯野を駆け巡る」を思い出させたりしながら、天野ワールドが展開します。

「走る三人男」は、味わいの全く違う、掌編。

以下、引用。

ーーーーー

高速道路を走り続ける男たち?
「あり得ない!」

しかし、その三人は信じられないほど速く
鋼鉄のように強かった。

欲で満たされているよりも怒りで満たされていた。
かと言って、誰も彼らの顔を見た者はいない。
黒い仮面を被っているのだという。
プロレスラーと詐欺師と天才科学者なのだと
誰かが言う。


ーーーーーーー

怒りで満たされて高速道路を信じられない速度で走り続ける、黒い仮面の、プロレスラーと詐欺師と天才科学者で、誰も見た者はない、なぜ走っているのかもわからない、その唐突さが、しかし、唐突でシュールレアリスムな組み合わせが、何か意味を持っていそうで、夜に見る「夢」のワンシーンのような、良い味わいの詩です。

「なにそれ????」と思ううちに、謎が深まり詩が終わる、叩きつけられる心地が、面白いです。


毎号2ページだけ、参加という、禁欲的とも言えるペースで発表している天野清二さんは、

揺蘭の中で、謎の小さな天体のような、不思議な味わいを放って読者を惹きつけます。


続く






# by leea_blog | 2019-12-12 09:30 | Comments(0)

澁澤龍彦・少女コレクション序説 「人形愛の形而上学」


澁澤龍彦のエッセイ、「少女コレクション序説」を再読しました。

澁澤龍彦のエッセイ集は、どれも、目次を見るだけで惹きつけられます。

再読すると、令和元年ともなれば、価値観が、時代がかかっていますが、

それも、書かれた当時の風俗を知る資料のようなものだと思えばいいでしょう。

澁澤龍彦は、文章上で初めて「人形愛」という言葉を使い、

魔術的、形而上学的な人形愛の世界を世に広めました。



ーーーーーーーー
「人形愛」という新造語を初めて文章の中で使ったのは、たぶん私だろうと思われるが、当初の私の意向では、この言葉は、ヨーロッパで用いられるピグマリオニズムの翻訳語のつもりだった。ピグマリオニズムは公認済みの心理学用語、性病理学用語であると同時に、私の考えでは、この言葉の原因になったギリシア神話の主人公の野心のように、象徴的にもせよ形而上学への志向を含まなければならないものなのである。形而上学というよりも、むしろ魔術といった方がぴったりするかもしれない。レヴィ=ブリュールの原始心性の仮説などを、ここで思い出しておくのも無駄ではあるまい。
(人形愛の形而上学より)
ーーーーーーー


さらに引用してみましょう。

ーーーーーーー
神聖や恐怖の感情がもはや有効性を失っている現代においては、人形の純血種を保証するものは、私には、エロティシズムのみではないかとさえ思われる。

ーーーーー


まあ、上記あたりは、違和感なく再読できます。

しかし、現代においては。

文学者や芸術家はそうであろうけれど、世間で厚い層をなしている人形愛は、もっと身近で、もっとアニミズム的で、もっと生活に密着しており、玩具レベルを侮っては、人形愛の実態に迫ることができない、と、思われます。


文庫版に収められている冒頭の表題エッセイ、「少女コレクション序説」を読むと、現代では大いに首をかしげざるを得ません。


ーーーーー
小鳥も、犬も、猫も、少女も、みずからは語り出さない受け身の存在であればこそ、私たち男にとって限りなくエロティックなのである。女の側から主体的に発せられる言葉は、つまり女の意志による精神的コミュニケーションは、当節の流行語でいうならば、私たちの欲望を白けさせるものでしかないのだ。リビドーは本質的に男性のものであり、せいよくは男だけの一方通行だと主張したのは、スペインの内分泌学の大家グレゴリオ・マラニョンであるが、そこまで極論しなくても、女の主体性を女の存在そのものの中に封じ込め、女のあらゆる言葉を奪い去り、女を一個の物体に近づかしめれば近づかしめるほど、ますます男のリビドーが青白く活発に燃え上がるというメカニズムは、たぶん、男の本質的なフェティシスト的、オナニスト的傾向を証明するものにほかなるまい。そして、そのような男の性浴の本質的な傾向にもっとも都合よく応えるのが、そもそも少女という存在だったのである。なぜかと申せば、前にも述べたとおり、少女は一般的に社会的にも性的にも無知であり、無垢であり、小鳥や犬のように、主体的には語り出さない純粋客体、玩弄物的な存在をシンボライズしているからだ。
ーーーーーーー


女性だけではなく、男性からも、「ええ〜???!!!違うのでは???」と声が上がりそうですね。

社会が成熟していき、学問の基礎レベルも男女ともに上がった現代では、男女の関係性も、もっと成熟しています。そもそも、平成は、男と女という性別で単純に割り切ることができない、多様性が見直される時代に入りました。


少女の魅力についても、現代は。漫画、アニメ、同人誌文化が盛んになり、様々な少女像が賛美され、一個の物体としての少女などは、味気なくてもはや少女の魅力とはいえないでしょう。

そうはいっても。

報道される事件を毎日見聞するに、性犯罪者の男性から見れば、性的対象の女性・少女は、個性を持ち人生を持った尊厳も人権もあるはずの「者」ではなくて、男性のオナニスト的視点、アダルト動画と同様の「物」にしか見えていないのであろうな、と思われます。とすると、一概に澁澤龍彦を「古い」ということもできないでしょう。



それはともかくとして。

そうした、物言わぬ受け身の存在の魅力を「少女の魅力」としたエッセイの最後に、人形愛に行き着くわけですね。

人形愛に落ちる前のワタクシであれば、「ふーん」、とスルーしていたでしょう。

特に興味があるジャンルでは無いし、

少女の魅力を受け身的な点に見いだすのなら、その結論もろくなものにならなくて当然です。

真剣に議論するに及ばない、スルー、に限ります。




しかし。今は違います。

人形愛を知っていまいました。

そのようなワタクシは、「少女コレクション序説」の最後の結びに、強い違和感を感じざるを得ませんでした。以下、引用します。


ーーー

まさにフロイトがホフマンの「砂男」の卓抜な分析によって証明したように、人形を愛する者と人形は同一なのであり、人形愛の情熱は自己愛だったのである。

少女コレクション序説より

ーーーーーー


とほほほ。

人形を愛する者と人形は同一で、人形愛は自己愛なんですって。。。。。。

澁澤龍彦が偉大な人であることはよくわかっていますし、

日本の人形文化に新しい光を当てたであろうことも、部外者のワタクシにも想像はつきます。


とはいえ、澁澤龍彦の上記の文章を読めば、澁澤は自分では人形愛に落ちていない、つまり、経験していないのですよ。



「人形を愛する者と人形は同一で、人形愛は自己愛」。

少女コレクション序説は、有名なエッセイですから、多くの人が、権威者・澁澤の説を鵜呑みにしているにちがいありません。


ワタクシの思うには、人形は、自分ではない「他者」であり、「外の世界」だからこそ、強烈な執着や愛が生まれるのだと思います。自己完結ができないものだと思います。


ギリシア神話のピグマリオンのように、自分で自分の理想の女性の像を造って、それを愛してしまうなら、自己愛の場合もあるかもしれません。


しかし、それは作品を物質化できる芸術家の話で、ほとんどの人は、他人の作った人形を、愛してしまいます。
他人の宇宙から生まれた、他人の想念が物質化された、人形。それは自己ではなく、他者です。


人間との恋愛と違うのが、他者は他者だけれども、「呪術的」性格があるところです。
人間同士の恋愛でも、「魔法にかかった」「予想しなかった化学反応が起きたとしか思えない」、と思うでしょう。

でも、人間同士なら、友達になったり恋愛したりするかもしれない、と、周りも自分も、本質的には不自然なことではないと知っています。

しかし、人形は。もっと大きな「魔法」や「化学反応」が作用して、生物と非生物の境が溶けます。


さて、それらについては、

菊池浩平の「人形メディア学講義」をお読みいただくと、もっと生身の、人間と人形の不思議な歴史、不思議な関係が考察されています。

「こういう本を待っていた!」と、ポンと膝を叩きます。







# by leea_blog | 2019-12-06 23:30 | Comments(0)

陋屋日記・書物の樹海の住人がミニマリストな生活をうらやむ



閑話休題。

通りすがりの皆様は、「ミニマリスト」という言葉をご存知であろうか。

最低限のものしか持たずに生活をする人たちのことである。

達人になると、冷蔵庫も持たず、
ホテルのようにかたずいた物の無い空間で暮らす。

住宅面積の狭い日本、特に都市部では、
多くの人が物にあふれた生活をして、
収納に困り、収納本や断捨離本が人気を博している。


書物の樹海で暮らすワタクシも、

ミニマリストな生活を見聞きするにつけ、

「いいなあ〜。」とうらやましがる。

さっぱりとかたずいて、物のない生活空間は、
とても快適そうである。


しかし、それは、無い物ねだりである。

ワタクシは、文学の道を行く自分と、
美術表現をする自分と、
コレクターとしての自分と、
会社員をする自分と、
一生活人としての自分がいて、

どれも、必要最低限の、必須の自分なのだ。

文学美術を捨てたら、生きていけない。
趣味のコレクションの楽しみがなければ、
辛い生活を乗り切れない。
会社員をしないと、
たちまち衣食住を失う。
休日に本当の自分に戻らなければ、
社会人を続けるエネルギーが保たない。

ワタクシの脳の基本構造、基本価値観そのものが、
もう、ものを沢山持つように、
プログラムされているのだ。

おまけに、年を経たものに価値を見出す性質もある。

昔の日本のように、倉が必要である!
倉があるからこそ、平安時代の文書や、
書画骨董が捨てられずに現代に残っているのだ。
断捨離反対。

と、骨の髄では、断捨離の、
「断」はともかく、「捨離」と相容れないのである。

「今が快適ならそれで良いの?

過去の時間や、将来に残すべきものも、

ものすごく重要でしょう?」

と、子供の頃から思っているのである。


断捨離やミニマリスムは、

ワタクシにとって、仏門に入るようなものだ。

この世界は幻影である、と看破して、幻影から脱しなくてはならない。

ワタクシのような一世俗人には、

とてもとても。


何しろ、文学美術で、幻影の幻影を作り出すのがライフワークだ。

幻影に幻影を生み出し、徹底することで悟りの道を提示するのが、

宗教と表現者の違いであろうか。



教えを聞いたり、実践している人たちを見聞したりして、

「良いなあ」と思っても、

自分は出家できない、という感じでしょうか。



しかし、プチミニマリスム、プチ断捨離、

おかたずけ、なら、日々実践したいものだ。



何しろ、ワタクシの住む書物の樹海は、

ワタクシから見れば子供の頃に夢見た世界だが、

世間から見れば、

「汚部屋」である。。。。



もうじき年末がやってくる。

通りすがりのみなさまも、

ネットでミニマリストの記事を検索して、

物が溢れすぎる日常を省みようではありませんか。
















# by leea_blog | 2019-12-04 10:53 | Comments(0)

まれびと冊子【揺蘭】16・台湾より神道生徒さんの感想


揺蘭16号の見どころをご紹介中です。

西野りーあの詩、「人形を娶る歌」で画像参加をしてくださった、

神道生徒さんが、ご自身のブログに感想を書いてくださいました。

ご了解を得て、転載します。


神道生徒さんは、名前だけ見ると日本の神社関係の人かな、と思いますが、

台湾の方です。

物語性のある画像加工をしている方です。

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今年もまた搖蘭誌を読みながら
日本語を複習しました∧∧。。。
私の日本語レベルはせいぜい漫画読みぐらいですXD

今号も光栄ながら、私の劣作を掲示させていただいて
誠にりーあさんに感謝します
この平凡な人生において、自分の才能を
なんとか花の一つや二つを咲くチャンスがもらえることに、
人生の生き甲斐を違う味わいで潤おいた!

今号の画はりーあさんうちの無后君の木偶写真を使って
偶主の幸せ、そして木偶の幸せを願って、仕上げた作品です
人間はいつか亡くなり、木偶もいつか劣化して焚化炉行きかもしれないが
出会えたこの一緒にいる時間の幸せ感は本物であるために
偶主は一生懸命記録を残して、読者さんにも伝えようと
私はりーあさんの詩を読んで、感じたことです。

誌のなかに、ほかの作者達の作品もあいかわらずいい作品でした

横山さんの詩は、とても生活感を感じます
しかも "長者の生活感"。

日嘉さんの詩は、同じく読みながら、なんとなく画かイメージが浮ぶ
こん号の内容を読む時、ずっと私の亡くなったおばあさんを思い出す。

勝嶋さんの落く書き画はかわいい
とても子供に向けられる作品です

ほかに玉田さんや天野さんの作品も
読んで、日本語の勉強になる内容はある
でも内容の真意の理解は私の日本語能力を超えた

今年もいい勉強になり
りーあさんに感謝します
来年の17号も期待できるかな∧∧

shinto_studentの玩偶遊戲 より

URL
http://blog.livedoor.jp/shinto_student/archives/21156191.html#comments



# by leea_blog | 2019-12-02 00:24 | Comments(2)

まれびと冊子【揺蘭】16号・日嘉まり子


まれびと冊子【揺蘭】16号の見所を、掲載順にご紹介しております。


前回は、詩人で画家の横山克衛氏の紹介でした。
   ↓ 
https://leea.exblog.jp/28716729/


今回のご紹介は、福岡の幻想詩人で音楽家、日嘉まり子さんです。

日嘉さんは、毎号、土着霊の気配の濃厚な、骨太の幻想詩を掲載しています。


揺蘭は、参加費は、10ページまでは同一料金、それ以上になると、1ページごとに追加の参加費がかかります。

そのため、大抵の詩筆人は10ページ以内で執筆します。

ところが。

16号の日嘉さんは、17ページの大幅増で参加。


日嘉ワールドをたっぷり堪能できて嬉しいです。


衰えない創作意欲が炎のように吹き上がってきて、圧巻です。



日嘉さんの作品に登場するのは、

力無い無名の女子供、下卑て下衆な他人に蹂躙され、恨みを耐え、死んでいき、成仏しきれず、土地に棲みつく地霊と化した者達です。

死んでいった無名の死者達の、無念さ、悲しさ。生きることの辛さ、苦しさ。他人を押しひしぎ、養分にして生きていく、図太い生を生きる者達。


そうした者達の魂が、絡み合いもつれ合いながら、死後も消えずに地霊と化しているのを、
日嘉さんは見、彼女らの声を聞くのです。

それは、重く、どろどろと、力に満ちた、地霊達です。
神話のように煮詰められた真実を感じます。


日嘉さんの詩を通してその怨嗟、呪縛を聞くとき、
生きることの大変さ、重さ、苦しみを彼らと分かち合うとともに、

死者らが残した地霊的な力を、読者は分け与えられたような気がします。


16号に登場する死者達は、

一日一度の大事な食物を猫に盗られて、飢えは怒りと化し、盗人猫を麻袋に入れて川に投げ込むゆみ婆。

戸棚の中に取っておいた蒸し饅頭を、隣家の裕福な子供に食われてしまい、死んでも許せずあの世から出てきて言い張るたか婆。

あや婆の夫は愛人を作り、息子もその血を引いて女にだらしない。


死者ばかりではない。
生者も登場します。

「生存中のお婆達のために(四)」と題された一編は、
生死を超えた不思議な味わいで圧巻です。

以下、引用。


ーーーーーー

やみくもに手の長いそれらがやってきたのは、溢れてきた
力に背を押され産道でもがいている時だった。
顔中硫黄の匂いがした。

子蜘蛛たちが暁の桃色の雲のように耳元でささやいた。
何か楽しみがないと生きていられない。
何年も何年も同じことの繰り返しでつまらない。

中略

月光に泳ぐ長い手足の影が雲に吸い込まれ霧となって街に降り
注ぐ頃、退屈な流れがやってきたので子蜘蛛たちはしばし死ん
だふりをして次の世を待つのだった。

ーーーーーーーー



産道でもがいている、産まれる、という、新鮮で生き生きとした、力に満ちた、晴れ晴れしい、無垢の時のはずが。

やってきたのは、不吉な者たちで、顔中、硫黄の匂いがした。
子蜘蛛たちは、早速、人生の退屈、忍耐、懸念、欺瞞を囁く。


「退屈な流れがやってきたので子蜘蛛たちはしばし死ん
だふりをして次の世を待つのだった。」

これは圧巻ですね。

苦しい、辛いから死ぬのではなく、退屈な流れがやってきたのでしばし死んだふりをしてやり過ごす。退屈というのは、恐ろしいものです。しかし、どんなに綺麗事を言ったところで、「退屈な人生」が人を追い込んですさませていく、この現実を、見ない訳にはいきません。


「次の世を待つのだった。」退屈な流れが来ると、今生はもう死んだふりで、次の世を待つという、生き死にの連続性、時間の自在性。


「退屈なら自分で変えていくのだ! 退屈だから死んだふりしてやり過ごすとは何事だ!」という、昭和の青春ドラマのような意見が聞こえてきそうです。


この子蜘蛛たちは、流れに太刀打ちする巨大な妖怪ではないのです。流れは圧倒的で、子蜘蛛はあくまで子蜘蛛なので、流れを変えようとしたら、ズタズタになって死にます。


我々人間も、結局はこの子蜘蛛たちと同じ。

理想を声高に叫ぶ文学はたくさん有ります。
しかし、現実には、理想に生きる人など、稀で、ほとんどの人は、流れに太刀打ちできないでしょう。



子蜘蛛たちのように、死んだふりをして次の世を待つ、生死が連続した存在になる方が、救われる人々も多いでしょう。


そこには、「この世で善根を積めば来世で報われる」という仏教の教えも、届きません。善根を積んでも意味がないことを知っているから、子蜘蛛たちは、死んだふりをするしかないのです。


それは、魔物的には、かなり正しいと言えます。


次の世を待つ、また次の世も失敗だった、と、何代も生死を繰り返して、生きていく、人間を超えた何か大きなもの。そうしたものが、なぜか、とてもリアルに、身近に、生き生きと感じられるのが、日嘉さんの作品の素晴らしいところの一つです。



最後の作品は「立ち尽くす女たちのための追憶その(一)」。

無力な幼い少女が受けた暴力が、年を経るに従い、強い憎悪、殺意に育っていき、少女は殺意に覆い尽くされた場所にたどり着きます。

以下、引用。


ーーーーーー

小父たちの理不尽な折檻により痛めつけられた少女たち、行きとし生ける小動物たちの無念が、そこらいったいに菌類のように広がっていた。

殺意を浴びた苔がびっしりと崖を覆い尽くしていた。

殺意は、曼珠沙華の花の姿を借りながら、幻の墓の上に無数の人形となって立ち現れ前後左右に揺らめくのだった。

ーーーーーーー


人の過ちを許す、という、一種宗教的なことは、人間、できるかもしれない。
しかし、「過ち」ではなく、「理不尽を許す」ことは、頭では忘れようとしても、脳の奥、魂の奥は忘れていなくて、殺意に育っていくのです。


日嘉さんの詩は、そうした無念を飲んだ弱い者たちの殺意が、集合体となって、自然の景色の中に展開します。無念と殺意が、堆積し、育ち、花咲く山中。

なんと、綺麗事を廃した、地霊の呼び声のような、土地に伝わる伝説のような世界であろうか。


「許すこと」、「乗り越えること」、「忘れること」。

困難の多い人生の中で、人は、そうして身に降りかかったことを乗り越えていかねばならないのですが、人間である以上、深層心理が「許したり」「乗り越えたり」「忘れたり」できず、本人も気づかぬところで殺意に育っていき、ある日、地上に顔を出すのです。


表面的な「いい話」、「うまい話」、「綺麗な話」は、人の表面しか癒しません。
表面的で気分次第な「他人の悪口」、「世の中批判」は、うんざりです。


日嘉まり子さんは、もっと「根源的な声」を聞く詩人なのですね。

怒りや憎しみ、怨嗟であても、神話的で根源的だからこそ、人の心を打ち、美しく、また、われわれ読者も追体験することで、癒される作品となるのでした。
















# by leea_blog | 2019-11-27 10:28 | Comments(0)