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炎なだれる時間 聞き慣れぬ歌心地よい —妖異の時代と、ハーンの日本の面影—

12月6日の朗読イベント「妖異の時代〜百物語2009〜」では、リハの結果削除されたり、新たに投入されたりしたメニューがあったわけだが。

当日、音楽の田中一夫氏は「やる予定?」の状態で、私は「感触が【あまたのほむら重ねて来たれ】と似てる為削除」とした出し物がある。
【花のかんばせ—天蛇のごとく—】という詩だ。

これの最後に、以下のようなリフレインがある。

炎なだれる時間 聞き慣れぬ歌 心地よい
  見知らぬあたりに帰ってゆくから   
      見知ったあたりに帰ってゆくから

聞き慣れぬ歌、つまり日ごろ聞いているものとは違う音楽、あるいはそのまま「歌」でもよいが、そうしたものが、単に体験を憶えているより深い所にある、霊的な記憶を呼び覚まし、見知らぬあたり=見知ったあたりに橋がかけられ、帰還する心地になる、そうした連だ。
(少なくとも、表面の文字的意味合いは)。

朗読イベントのテーマには合っており、リハも何度かしたが、結果、割愛した。

ラフカディオ・ハーンの【日本の面影】を、少しずつ読み返す内、はたと気付いた。

お客さんのRYOU氏が書いて下さった感想は、まるで昔からゆりのうたたねを読んで下さっているかのように、まさにその点を突いているから、余計にありがたかったのである。ちなみに氏は、ワタクシの「謎の友好関係」の一人であり、互いに詳細は知らない。

ハーンの【日本の面影】は、親密な優しいまなざしで異国日本の日常を、明治時代の外国人という他所から来た人の視点で丹念になぞってゆく、味わい深い随筆である。

そのなかの「門つけ」。三味線片手に家に歌いに来た庶民階級の女の歌に心を激しく揺すぶられ、ハーンは自分がなぜ揺すぶられたのかという部分に降りてゆく。そして、唐突に、二十五年前の夕暮れにロンドンの公園で聞いた「さようなら(グッドナイト)」という声を思い出す。その声を思い出すと、それとともに楽しい気持ちと苦しい思いが同時に沸き起こるのだが、それは、何かの記憶に基づく感情なのは確かながら、ハーン先生は、その記憶は「この世に生きているわたし自身のものではなくて、前世のものなのである」といきなり言ってしまう。

一神教の習慣の中で生きてきたはずの異人さんが、前世の記憶。うむ、疑いなく、偉大なひとであるが世間的には「変なガイジン」に見えたであろう。

ワタクシは、元々輪廻転生譚がごろごろころがる東洋の日本に生まれ育っている。見知らぬ記憶がどうにも見知った記憶である確証があり、「前世の記憶」と言ってしまうあたりには、言語や生活環境、民族の違いを超えて、人間の深部でわかりあえるような、ほっとした気持ちになる。前世というのは、前世や来世が有るか否かの議論は他人に任せておいて、詩的比喩として、言いようの無いものを言い表そうとする表現である。

そんなこんなで、RYOU氏のご感想が、自分のイベントの主旨にまさに合っていた、と、はたと気がついてありがたく思う訳であった。

感慨というのは、理由がすぐにわからないことも多い。
水の底に錘を降ろして行くように、自分の心の深い部分に自分で沈んで行って、原因を探して見る。そうした作業の繰り返しが、言葉にならないものを言葉に表す視点の、鍛練の一つであるとも思う。
by leea_blog | 2009-12-18 20:47 | Comments(0)
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