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忘我のよりしろと化す事/壇之浦/締めくくりの事



これは、自分の為のメモとして書いておこう。
歌人の辰巳泰子氏の【へいけうたのあかり第七弾】の、締めくくりとなる。

直後に新鮮なまま書いた文章を、コピーしてアップする。
理性や社交辞令の手が入る前の、感想だ。


(【へいけうたのあかり第七弾】「八島壇の浦」の回は、
詳細は過去分をブログ内検索してね)



振り返れば、【八島/壇之浦】の回に、余興の飛び入りという形で、(実は事前の約束がある)締めくくりの場を賜ったのは、大変光栄な事だった。

が、それは「振り返れば」、の話で、私は悲惨な日常から走って来た逃亡女郎、純粋に無名の客人。「我」が欠け落ちていた。我が無くなった私は、「平家の亡霊の一人」として客席にいた。

そして。平家物語関係の演目で、涙腺が緩むという事は、予測不能の事態だった。


辰巳泰子氏に促されるまま、ほとんど忘我の、どうしていいのか分からない状態のまま、舞台に上がった。

どんな一首を読むか。事前に検討しまくっていたはずが、憶えていない! 
涙ぐんだ時に、一緒に流れ落ちてしまったのだ。

 候補に入れていなかった昔の作品が、液状化した私の深淵からたち上がり、
この場にふさわしいか否かの検閲意識が働かないまま、口からこぼれ出ていた。

   《    足元の 崩れる時間 雑踏に 知る人も無し めまいの都  》

十代の頃の連作の一つ。
一体、何。

お客さんは、へいけうたのあかりの締めくくりにする意味がわからないではないか。大体、これは連作だから意味がある歌だ。

いや。検閲機能が麻痺した時に、それが選ばれたのは意味があった。
その意味を今はくどくどと述べまい。

たとえばタロットカード。
伏せたカードの山をかき混ぜる時、自分を無にする。
無意識の先入観その他を、どれだけ排除できるかが占者の力の一つだ。かき混ぜる手が重くなり、自然に止まるのを待つ。手が止まった時に、拾い選ばれるカードで占いの結果の、おおかた決まる。思えば、小中学生の頃、依り代となりカードを混ぜ、拾い上げる時間を重ねた。

涙で自我が液状化し、無となった私が拾い上げたのが、その一首だったのだ。

先ずは、言葉の意味が聞き取れる形で音声とし、次に、普段は、「言葉が自ら押し上げてくる音として声に乗せる」のだが、この日は。茫然自失のため、私の目は、薄闇と薄光に紛れた、会場に漂う気配に、助けを求めた。

頼りなく会場を見渡しながら、私は、私である事を放棄していた。そういう状態でしか感じ取れない光の粒子、闇の粒子、そして、座す皆様の背の後ろに、音を押し上げてゆく何かがが集まってきた。


憶えていない。
遠い都のあるや、なしや。
質量に満ちたサムライの空間に、自らの重みを自ら解いて、崩れる自分が、あった。

それは、液状化し気化し、どこかに帰ってゆく、「西野りーあ」ではない、誰でも有り、誰でも無い、「女性の形をした何か」なのだった。
女性の衣を着た何百年も前の男性かもしれないし、自分が誰かを忘れた亡霊達の集合体かもしれないし、地霊が、つまりその場の地の霊が、なにがしかを呼んで憑依せしめた何かだったかもしれない。

「それでも表現者かっ! 」と、これを書きながら自分に言う。
「茫然自失の時こそ真価を発揮するものではないか!」

が、おそらく、意図を越えたああいう音声化は、二度と出来ないだろう。


出来の良し悪しはもはや、別である。
あれは、あの読みは、あの時限りの、「場への供物」であった。

 ああした「読み方」は後にも先にも、私には無いであろう。

 
by leea_blog | 2010-07-20 00:10 | Comments(0)
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