この閉じられない文構造こそ。。。

    「読書百遍意自ずから通ず」


子供時代、よく聞かされたことばだ。いかにむずかしい本でも、何度も繰り返し繰り返し読めば、自然に意味がわかってくるという。昔は、書物は貴重品だった。そんな昔のことではなく、30年か20年前くらいでも、だ。書物は、「百回でも二百回でも再読されて当然」、といった前提で本屋さんにいた。買う方も、一冊買うのに、買おうかどうしようか悩み、何度も本屋に足を運んだ。小学生〜大学生にとって、価格千円単位の書物は高価品だった。出費の痛手に見合う内容じゃないと、えらいことだ。吟味に吟味を重ね、一大決心で購入する。。。。はぁ〜、貧乏くさい。。。
 

 いえいえ、貧しい時代の話をしたいのではない。書物は、「単なる活字」「ただの言葉」ではなかったのであります。動物としての人間の一生は長くて100数年、書物は(正確に言えば書かれたものは)軽々と動物の時間を超えて行く。万葉集や平家物語やイリアスが書き留められたのは、私の祖父母も生まれていなかった頃だ。百回位読み返して読むたびに新たな扉が開けるなど、実に当然なのだった。



現在は、書物の選択肢が多すぎて、「どうでもいいもの」のなかから「どうでもよくないもの」に出会うのが大変だ。インターネットの普及にともなって、事情はさらに変わっていくだろう。
文章の質は「同一読者に百回再読される」ものを目指さなくなるかも知れない。文字情報の快楽の質が、変わっていくのではないか。

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さて、『幻想のオイフォリー』は、小さな古書店で見つけた。ぱらぱらとめくっただけで、即決で購入。インターネットで見つけても、大量の情報のなかで、自分が立ち止まれたかどうか怪しい。

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高桑法子氏の評論集、『幻想のオイフォリー 泉鏡花を起点として』、から「華麗な妖怪たち—『草迷宮』」の最終部分を引きます。


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レミニサンスとしての手毬歌は、たんに母への回路としてあるのではなく、むしろ生誕の場に働いていた促しや牽引の力のすべてではなかったか。作品の〈自己〉とは、そのような過去と相同的な生を持つにいたった、文学営為の場における限りでの仮構的作者の自己であり、こうした創造を行いえてはじめて、手毬歌は正しく甦り本然の意味で唄うことができる。本稿のはじめに掲げた魔族の出立の情景が比類なく華麗であるのは、創造の場で汲み上げられた作家の想像力が、さえぎるものなくダイレクトに作品空間へ噴き出そうとしているからであろう。あの奔流となった言葉は、どんなストーリー的完結も、登場人物への還元も目指すことなく空間をおおい尽くし、閉じる地点を知らない。


最切(いとせ)めて懐かしく聞こゆ、とすれば、樹立(こだち)の茂(しげり)に哄(どつ)と風、木の葉、緑の瀬を早み・・・・・横雲が、あの、横雲が。


 作品最後に置かれた、この閉じられない文構造こそ、物語の終わりにではなく、核心に到達し、そこに立ち尽くす作家の姿を如実に映しているのではないだろうか。


(高桑法子 『幻想のオイフォリー 泉鏡花を起点として』)

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by leea_blog | 2002-02-18 00:56 | Comments(0)
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