一年に一回、まれびとのようにあなたの日常にすべりこむ、 幻想詩誌、「揺蘭」。 15号も、永久保存版的な内容です。 昨年から15号の内容のご紹介をしているところです。 ブログ内検索で、 まれびと冊子「揺蘭」、とご検索頂くと、 過去日記が表示されます。 今回は、天野英「詩的イメージをこそ」をご紹介します。 詩人の天野英さんとは、 日本詩人クラブの詩の会で知り合いました。 天野さんが少人数の人たちを前に、詩の講話をしているところだったのですが、 詩の生まれる、 理屈や表層理解ではどうにも届かない場所について、 わかりやすい言葉で話しているのが、 強く印象に残りました。 ヘタな詩を評して、 「行分け散文」と言う事があります。 「散文詩」という、「散文の形式」をとった詩の形もありますので、 「散文形式が悪い」という意味でもないのです。 詩っぽくしようと、 行を分けただけでは、 詩ではないし、 散文のように行を分けなくても、詩になります。 美しい言葉を駆使するから詩なのでもなく、 難しい言葉を使うから難解、というわけでもないのです。 詩とは、では、どこが散文と違うのか。 ワタクシは、 「詩の形でしか表現出来ない何かが、 発芽して来た時に、形を与えるもの」、 と、思います。 ただ、 「詩とは何か」に関しては、 様々な言い方が出来て、 ワタクシ自身も、語る相手との距離により、 言い方や表現を変えています。 一番実際に近いのが、 「結局、詩とは、神々のようなものだ」、です。 時代や人によって、 「詩とは何か」が違う、 人を超えたところに源泉が有る。 一生をかけて追求しても、 答えが出ない。 まるで神々みたいではありませんか? と、上記は、ワタクシが普段、思っている事です。 天野さんは、 詩が生まれるあたりを、 ムーサイの力が働いている、と表現していたのでした。 ムーサイとは。 ギリシア神話の、芸術の女神たちです。 古代の詩人たちは、 詩の神が、自分に語ったり、 自分を通して語る、 そして、 語る力を与えると考えていました。 現代人は、 「自分の努力と才能」だけで創作すると考えます。 努力と才能、自在境に達するまでの修行。 それは大事。 でも、それだけだと、 一人の人間が感受出来るものなど限界がありますので、 神々から力を与えられた詩人に比べて、 栄養が足りません。。。。 ワタクシは天野さんの話を聞きながら、 誤解や揚げ足取りのリスクを承知で、 「本当の事を言う」詩人だなあ、と思ったのでした。 難しい言葉で詩の理論を述べる詩人は、沢山居ます。 天野英さんは、 わかりやすい言葉で、 「詩的イメージ」を語ります。 リルケの文章が引用されています。 「詩は言葉の踏み入ったことのない空間で生起します。なににもまして言いあらわし得ないのが芸術作品です。」 (リルケ「若き詩人への手紙より」) エドガー・アラン・ポオの言葉も引用されます。 「人には満たされざる渇きがある、その渇きに働きかける水晶のような泉に触れたいのだ、この渇きは、人間が永遠の存在であることにあり、同時にその証なのである」 (ポオ評論集より) 天野英は語ります。 「そういうことを感じるとき私は、ムーサイ(詩神)の働きによると、言うことにしている。私を超えたあるものの働きのことです」 「人間の知性に於いて、詩の本源的なところのことは把握したり、理解されたりすることが出来ないことなのだ。詩は人に理解されるようなものではないのだ。」 まったくその通りです。 承認欲求が強くなっている現代人。 詩人も、「理解されたい」と思う人も多いはず。 詩の根源的なところは、 もっと大きな、深淵の部分にあるんですね。 人間の脳で、「知性」を司る部分など、わずかですよね。 今後も天野さんに、こうした情報発信をし続けて頂きたいものです。
by leea_blog
| 2019-01-27 14:23
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