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まれびと冊子【揺蘭】16号・日嘉まり子


まれびと冊子【揺蘭】16号の見所を、掲載順にご紹介しております。


前回は、詩人で画家の横山克衛氏の紹介でした。
   ↓ 
https://leea.exblog.jp/28716729/


今回のご紹介は、福岡の幻想詩人で音楽家、日嘉まり子さんです。

日嘉さんは、毎号、土着霊の気配の濃厚な、骨太の幻想詩を掲載しています。


揺蘭は、参加費は、10ページまでは同一料金、それ以上になると、1ページごとに追加の参加費がかかります。

そのため、大抵の詩筆人は10ページ以内で執筆します。

ところが。

16号の日嘉さんは、17ページの大幅増で参加。


日嘉ワールドをたっぷり堪能できて嬉しいです。


衰えない創作意欲が炎のように吹き上がってきて、圧巻です。



日嘉さんの作品に登場するのは、

力無い無名の女子供、下卑て下衆な他人に蹂躙され、恨みを耐え、死んでいき、成仏しきれず、土地に棲みつく地霊と化した者達です。

死んでいった無名の死者達の、無念さ、悲しさ。生きることの辛さ、苦しさ。他人を押しひしぎ、養分にして生きていく、図太い生を生きる者達。


そうした者達の魂が、絡み合いもつれ合いながら、死後も消えずに地霊と化しているのを、
日嘉さんは見、彼女らの声を聞くのです。

それは、重く、どろどろと、力に満ちた、地霊達です。
神話のように煮詰められた真実を感じます。


日嘉さんの詩を通してその怨嗟、呪縛を聞くとき、
生きることの大変さ、重さ、苦しみを彼らと分かち合うとともに、

死者らが残した地霊的な力を、読者は分け与えられたような気がします。


16号に登場する死者達は、

一日一度の大事な食物を猫に盗られて、飢えは怒りと化し、盗人猫を麻袋に入れて川に投げ込むゆみ婆。

戸棚の中に取っておいた蒸し饅頭を、隣家の裕福な子供に食われてしまい、死んでも許せずあの世から出てきて言い張るたか婆。

あや婆の夫は愛人を作り、息子もその血を引いて女にだらしない。


死者ばかりではない。
生者も登場します。

「生存中のお婆達のために(四)」と題された一編は、
生死を超えた不思議な味わいで圧巻です。

以下、引用。


ーーーーーー

やみくもに手の長いそれらがやってきたのは、溢れてきた
力に背を押され産道でもがいている時だった。
顔中硫黄の匂いがした。

子蜘蛛たちが暁の桃色の雲のように耳元でささやいた。
何か楽しみがないと生きていられない。
何年も何年も同じことの繰り返しでつまらない。

中略

月光に泳ぐ長い手足の影が雲に吸い込まれ霧となって街に降り
注ぐ頃、退屈な流れがやってきたので子蜘蛛たちはしばし死ん
だふりをして次の世を待つのだった。

ーーーーーーーー



産道でもがいている、産まれる、という、新鮮で生き生きとした、力に満ちた、晴れ晴れしい、無垢の時のはずが。

やってきたのは、不吉な者たちで、顔中、硫黄の匂いがした。
子蜘蛛たちは、早速、人生の退屈、忍耐、懸念、欺瞞を囁く。


「退屈な流れがやってきたので子蜘蛛たちはしばし死ん
だふりをして次の世を待つのだった。」

これは圧巻ですね。

苦しい、辛いから死ぬのではなく、退屈な流れがやってきたのでしばし死んだふりをしてやり過ごす。退屈というのは、恐ろしいものです。しかし、どんなに綺麗事を言ったところで、「退屈な人生」が人を追い込んですさませていく、この現実を、見ない訳にはいきません。


「次の世を待つのだった。」退屈な流れが来ると、今生はもう死んだふりで、次の世を待つという、生き死にの連続性、時間の自在性。


「退屈なら自分で変えていくのだ! 退屈だから死んだふりしてやり過ごすとは何事だ!」という、昭和の青春ドラマのような意見が聞こえてきそうです。


この子蜘蛛たちは、流れに太刀打ちする巨大な妖怪ではないのです。流れは圧倒的で、子蜘蛛はあくまで子蜘蛛なので、流れを変えようとしたら、ズタズタになって死にます。


我々人間も、結局はこの子蜘蛛たちと同じ。

理想を声高に叫ぶ文学はたくさん有ります。
しかし、現実には、理想に生きる人など、稀で、ほとんどの人は、流れに太刀打ちできないでしょう。



子蜘蛛たちのように、死んだふりをして次の世を待つ、生死が連続した存在になる方が、救われる人々も多いでしょう。


そこには、「この世で善根を積めば来世で報われる」という仏教の教えも、届きません。善根を積んでも意味がないことを知っているから、子蜘蛛たちは、死んだふりをするしかないのです。


それは、魔物的には、かなり正しいと言えます。


次の世を待つ、また次の世も失敗だった、と、何代も生死を繰り返して、生きていく、人間を超えた何か大きなもの。そうしたものが、なぜか、とてもリアルに、身近に、生き生きと感じられるのが、日嘉さんの作品の素晴らしいところの一つです。



最後の作品は「立ち尽くす女たちのための追憶その(一)」。

無力な幼い少女が受けた暴力が、年を経るに従い、強い憎悪、殺意に育っていき、少女は殺意に覆い尽くされた場所にたどり着きます。

以下、引用。


ーーーーーー

小父たちの理不尽な折檻により痛めつけられた少女たち、行きとし生ける小動物たちの無念が、そこらいったいに菌類のように広がっていた。

殺意を浴びた苔がびっしりと崖を覆い尽くしていた。

殺意は、曼珠沙華の花の姿を借りながら、幻の墓の上に無数の人形となって立ち現れ前後左右に揺らめくのだった。

ーーーーーーー


人の過ちを許す、という、一種宗教的なことは、人間、できるかもしれない。
しかし、「過ち」ではなく、「理不尽を許す」ことは、頭では忘れようとしても、脳の奥、魂の奥は忘れていなくて、殺意に育っていくのです。


日嘉さんの詩は、そうした無念を飲んだ弱い者たちの殺意が、集合体となって、自然の景色の中に展開します。無念と殺意が、堆積し、育ち、花咲く山中。

なんと、綺麗事を廃した、地霊の呼び声のような、土地に伝わる伝説のような世界であろうか。


「許すこと」、「乗り越えること」、「忘れること」。

困難の多い人生の中で、人は、そうして身に降りかかったことを乗り越えていかねばならないのですが、人間である以上、深層心理が「許したり」「乗り越えたり」「忘れたり」できず、本人も気づかぬところで殺意に育っていき、ある日、地上に顔を出すのです。


表面的な「いい話」、「うまい話」、「綺麗な話」は、人の表面しか癒しません。
表面的で気分次第な「他人の悪口」、「世の中批判」は、うんざりです。


日嘉まり子さんは、もっと「根源的な声」を聞く詩人なのですね。

怒りや憎しみ、怨嗟であても、神話的で根源的だからこそ、人の心を打ち、美しく、また、われわれ読者も追体験することで、癒される作品となるのでした。
















by leea_blog | 2019-11-27 10:28 | Comments(0)
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