異動が決まった。
どうやって想像を絶するラッシュを乗り切るか、 良い考えが浮かばない。 私に必要なのは、暖かい毛皮、しかも生きてる奴だ。 地下鉄で文語体の本を読みつつ、思う。 自分の考えた事など、百年昔に既に流行りだったのだ、と。 何百年の昔にも、同じ事を考えていた人はいて、 千年以上昔でも、それは同じ。 そのことも、今初めて思ったのではなくて、小学生の頃も、三島や谷崎が私の書きたいことをすべて書いてしまって、自分の書くことなど残っていない、と愕然とした。 子供の考える事に、「お前が考えたとしても、文章力が違うだろ」などと突っ込みを入れても無駄である。 ま、そののち、他の本を読んでも絵を見ても、色々と愕然としまくるわけだが、巫女さん系の私は、愕然の一方で「当たり前」と受け止めた。 よその星から飛来したわけでもないこの身が、唯一神の生まれる前からの記憶を受け継いでいるのは当然だ、と。自分の固有名詞は、今生で生きる為の、便宜上の符号でしかない、と。勿論私だけの話ではなく、人類はそうなのである、と。さもなくば、石器時代の動物の壁画に現代人が揺さぶられたり、見知らぬ異国の口承の伝説に、一現代人が、その場にいたかのような揺さぶられ方をするであろうか、と。 ある意味、「作者不詳」も含めた先達におびただしく恵まれているわけだ。自分の後にも、おびただしい作品群が明滅しながら時間の河を流れ下るのだ。 自分の書きたい事をもっと優れた文章力の人が書いてくれるなら、歓喜して読み手だけやっていたい。 だがしかし。世の中、そう上手くは行かない。のどが渇いて死にそうな時に、草の露を舐めてしのいではいられない。自分で水の湧きそうな場所を掘るのだ。と、いうことで、自分で書くわけだ。 あるいは、水が溢れて、家畜も果樹園も駄目になってしまいそうな時には、自分で溝を掘って溢れる水を他の場所に流すのだ。 激しい餓えや、激しい過剰。 これが書かざるをえない力の正体の一つで、それは、文化活動のたぐいというより、人間は動物の一種であるという意味の「動物レベル」であり、さらに地球を巡る水の循環の余波でもある。 生き物が発生して死滅していくのに作用する、巨大な何かの一つが、たまたま書いたり描いたり作曲したり舞踏したり語ったりする類の事に適した人々に作用してその作業にたずさわらせているのではないかと思える。 と、昔からつらつら考えているが、これも、三千年前の羊飼いも瞑想しながら同じようなことを考えていたかも知れない。 と、異動発表で疲労困憊しつつ、イェーツのあれこれで、あれこれ思ったわけだった。
by leea_blog
| 2005-04-05 02:20
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