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聖火リレーの報道など 長野はどうする



毎日のように報道される聖火リレー。もれなく抗議行動とチベット問題がセットで付いてくる。スポーツに関心が薄いワタクシも、「知らない内にオリンピックが終わっていた」とは言えない状況だ。

それにしても端で見ていて胃が痛くなるような代物ではないか。
サンフランシスコでの、こっそりコース変更・一般の人々を呆然とさせた件は、一般の人々に精神的な暴力を振るったようなものだった。「一般の民衆? あんたらには関係ないよ」と行動で示したわけで、抗議問題に無関心な人の心にまで憎しみの灯をともすと思われる。アメリカでそれが行われた事に唖然とした。権力者が意図的に情報を隠したり操作して一般人の意思表示の機会を奪うのは、暴力で鎮圧する事に劣らない行為だ。しかも海外に報道されている最中なのに、大胆といいますか、「それはさすがにまずいでしょう」といいますか。ここまでして「聖火に土地を通過させる」意味が分からない。土地の人々を怒らせて回ってどうするのだろう。


人前で何かをやれば、主催者にとって面白くない意見や抗議もありうる。そんなのは当たり前だし、むしろ健全な事だ。それが「人前」なのだ。催しは大きくても小さくても、陰で大変な調整努力が払われるものだ。それを惜しまないからこそ、成功が評価される。

今月26日には長野で聖火リレーがあるので国内の注目度も高まっている。そもそも何の為のセレモニーなのか、無自覚なままでは国際的に恥ずかしい事態となっている。「とりあえず、難しい事は後にして成功させましょうよ」と日本人的に言いたい人も居るはずだが、素朴すぎるのはまずいでしょう。

妨害が起こらなければ成功なのか。否と思う。とりわけ現代日本は「ことなかれ」の考えが強い。思索、対話、調整その他の途中経過を飛ばすので省エネにはなる。が、頭と感性は確実に退化する。一人一人が「ではどうしたらいいか」等の自分の考えを持てて深める機会になる事を祈る。



余談だが。
言わなくてもいい恥ずかしい記憶を一つ。

若さは時として馬鹿と同義語である。
うーんと若い頃、ラサにダライラマが居ないのを知らなかった。チベットが中国領なのも知らなかった。チベットからも中国からも叱られそうである。そのくせチベット仏教等には一通りの知識があった。「今何が起こっているか」の前に、自分の身の処し方すら分からなかった時代だ。史学科を中退して人生に悩んでいた頃だ。大学生なのにそれでどうする、と今なら顔から火が出そうな記憶だ。うん、新聞は読んでいた。

海外では日本が中国の一部だと思っている人や、敗戦後日本はアメリカ領で英語が通じると信じている人たちも普通に居た(今も居る)。あなた方、日本の車や家電品を崇めているのにそれは無いだろう、と内心思いつつ、説明した。

行き着く所は結局、身の回り感覚の良心だろうと思う。世界は遠い場所とは言えない。身の回り感覚で、言論の自由や個人の尊厳は死守したい。チベット報道で胃が痛くなるのも、生活感覚の、普通の延長なのだ。
by leea_blog | 2008-04-14 22:56 | Comments(0)
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