2010年 06月 02日 ( 1 )

「へいけうたのあかり」八島・壇之浦/消失と顕現/亡霊らが泣きながら聞く物語/

消失と顕現。


注。
今回は感想にたどり着く前に、どうでもいいような私事メモを記述している。
それは、箱に入れて真空で保存した《生の感想》を、取り出す呪術行為の一つである。行きつ戻りつして、生の場の真相に迫る為だ。

形としてまとまった評形式の感想は、「知」、「理」の作為が働く。
評形式の読み物の方が面白いのは百も承知だ。
が、今回は特に、知や理の介入をできるだけ防ぐ事にする。
理由は(既に「理」の力が働くが)、今回は、いかなる評も、生の場の生の感覚を貶める事にしかならないためだ。まとまった評なら、いつでも書ける。



ワタクシは、確かに平家の亡霊の一人として客席にいた。

前半が終わった辺り、中休みの雑談のざわめきが低く満ちる会場に、ざわめきに混じってゆく形で、歌声が流れた。
ざわめきを沈めようとはせず、ざわめきに混じりながら歌い、やがて、襦袢に伊達締め姿の辰巳泰子氏が現れた。





事前のワタクシの反応は。
八島と壇之浦を、一回でまとめるのか?、である。


自分用のメモが介入する。
ワタクシがりーあ本平家をやる場合、一の谷以降が、延々長くなる。
延々。その必然性が、自分の中には有り余る。全体のバランスを敢えて無視した、序破急の急の部分が半分を占め、安徳天皇八岐大蛇説を力を込めて歌い上げ、後の世の二次創作の予感も大いにはらませて。
   ↓↓
桜井 好朗氏の、
太平記を児童向けに語り直したと見せて実は、怨霊譚・中世の人々にとっての語り・先の世と後の世を同時にはらむ軍記物の世界、に関して、私の代わりにこの人がやってくれたんだ、と感涙にむせぶ提示の仕方。(メモ状態・これは別の話となる)



子供の頃、琵琶法師の女性版、琵琶尼さんになりたかった。次は、厳島神社の巫女。デルフォイの巫女。バッコスの信女。実際は、アラブの吟遊詩人の言葉にあるように、「物を書く手の奴隷」となった。

振り返れば、昔から、個というものを、「代替の効くもの」として捉えた。「何者にも替えがたい自分」、ではない。世界中にいる、「物語する魔の奴隷の一人」なのだ。自分より優れた人がやってくれるなら、その方が良い。が、かわりにやってくれる人が居そうで居ないから、仕方なく自分がやるのだ。
揺蘭に書けばいい事を、こんな所に余談として入れてしまった。これは伏線である。



話は戻る。
八島・壇之浦を一回でまとめてしまうのか?

いやもう、実際は、まとめても短くはなかった。それは、辰巳泰子氏が見事に抽出し織り直した物語が、
幾重にも「語られなかった部分」を背後に現出させた為だ。


一人一人が、セリフの一つ一つが、精彩を放ち、限られた時間の器を溢れて空間を生気で満たした。

辰巳泰子氏のへいけうたのあかりは一貫して、なすすべもない、個人の力量ではどうにもならない、それでも精一杯に今を生きる登場人物達の、いとおしさに満ちている。

無垢で純真で、何かを信じる力が、駄目な登場人物にまで照射されている。氏の現出する個性たち。羨望、嫉妬、殺意、そうしたものをどす黒く描き出すのではなく、世故に長けた腹黒系描写をすっとばして、その奥の純な感性を、大抵の大人が置き去りにしたものを、さらりと描き出す。そして、現実の残忍さ、個を押し流してゆく無残さを、力む事なく提示するのだ。


気付けば、泣いていた。当惑した。
平家物語は一時は暗記していたのだ。大抵の再話では、泣く事は無い。


「耳無し芳一」の物語を、ご存知だろう。
平家の亡霊が、琵琶法師に語らせて、皆泣くのだ。
ワタクシは、子供の頃から、その部分はいかがなものか、と思った。
当事者の平家の皆さんなら、
「そこはもっとこうだった」
「これこれこういう話がもっとあった」
「事実と違うぞ」と
盛んな突っ込みが入るはずで、泣くばかりで厳しい突っ込みが入らないのは、現実味が乏しいと思われた。
亡霊たちから指摘を受けて、さらに物語が補足されるのが、古来の伝統ではないか。

亡霊を呼びだして事の真相を語らせる話は、世界の各地にある。
亡霊は、この世の人間の限られた力を補ってくれたり、知る事の出来なかった真実の扉を開けてくれたり、音楽や美術・文学の力を与えてくれる。無論、呼びだした方には、死と破滅の危険が伴う。

「耳無し芳一」の亡霊たちは、世間が作り出した「亡霊のイメージ」でしかない。

何百年も前から現在に至る、際限なく生み出される平家物語のヴァージョンも、私を涙ぐませる事など無かった。


「どんな話にするのか」料理の腕前を楽しみにする訳だが、氏の大阪弁の語り口の、音楽的な魔法も有り、それは料理の腕前では無かった。連れ去る魔である。いや、現世の者らを連れ去る、生身の歌人。

語られる人々の、いとおしさ。

いや。今回は、辰巳泰子という個人、歌人が消失していた。消失した事によって、聞き手である平家の亡霊は、突っ込み所を失った。

平家の亡霊は、ダセェ!と義経に罵られる梶原になり、義経になり、くっさい雑巾女と嘲笑される常盤御前となり、差し招く海上の女官となり、必死にお父さんお母さんに祈る那須与一となり、射殺される老武者となり、入水を決意する二位の尼となり、共に海底に沈む剣、神璽となり、何故か安徳帝にはならなかったが(理由があるはずだが今は置いといて)、知盛となり、能登守教経となり、泣き叫ぶ女官達となり、抱きしめた腕から身をもぎ離して失われるいとしい人たちの体温となり。

どんな話になっていのるかと、耳を傾ける亡霊は、どんな話かはもう忘れて、自分が誰だったかを忘れて、死んだ事も忘れ、生きている事も忘れ、様々なものに目まぐるしく憑依し、また憑依されるのだった。
腕の中の生身の命が、濁流に攫われる。体温が残っている。

泣いている自分に驚く。

まて。
これは、今、書いている内に思い出したが、あれだ。【闇はぬばたま抄】(拙著参照)の、再体験だ。
何千という他人の中から、何百年も前に生き別れ死に別れた、例の、あれを探して泣き叫ぶ、繰り返し西野りーあの中で滾り落ち奔流となって呑み込む、あれの再現だ。

なんと、自分でもしばらく忘れていた、あれを、個が消失した「へいけうたのあかり」の空間で、再び見いだした。

辰巳泰子氏が消失した事によって、客の「我」も消失した。そして、様々なものが顕現した。そして、人々は入水した。一部の者たちは生き残った。


このあたりで、今は語る事を終えよう。

このように感想を語っても、言葉の上の事でしかない。
もはや言葉による感想は、干からびた木の葉が舞う様に似ている。


深淵の鍵を手渡し、私が砂に埋めた扉を再び提示したのは、辰巳泰子さんの姿をした、衵姿の女性だった。
いや、女性の衣をまとった、美しい少年だったかもしれない。彼、または彼女は扇をひるがえし、陽炎を呼び寄せると軍船を降りて、女達の物語を聞き取りする為に大原や別の戦場に向かうのだった。



終わり。
そして、最後にめまいの都を自分用メモとして次回にアップする。
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by leea_blog | 2010-06-02 00:32 | Comments(2)