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世には、沢山の、幸福について書かれた本が有る。 幸福とは? 幸福の基準は、人の数ほどあるだろう。 人が自分で幸福と感じなければ、 他の人から「あなたは幸せな人だ」と幾ら言われても、 意味が無い。 また、人から見れば、 不幸に見えようとも、 本人が幸せだと思っていれば、 それ以上の幸せは無いのだ。 とはいえ、 お釈迦様の時代の前より、 人生は苦しいものであるらしい。 ヘッセの「幸福論」。 新潮文庫の、エッセイ集である。 たった13ページだが、 幸福についての極めて貴重な、 美しい言葉と深い考察で書かれた、 素晴らしいエッセイである。 同文庫に収められた話はどれも素敵なのだが、 13ページの幸福論を読むためだけに買っても、 おつりが来るくらいである。 過日、江戸川乱歩のエッセイ「残虐への郷愁」を紹介した。 江戸川乱歩は、古来の神話伝説にまで遡り、 残虐への郷愁を見つめ続け、考察を重ねた。 ヘルマン・ヘッセは、 人生で繰り返し、幸福とは何かを 自ら問い続けた。 それが短い文章に結実しているのが、 「幸福論」である。 ちなみに、 私にとって、人生で繰り返し問い続け、 ことあるごとに思い返し考察するのは、 「異界」、「異界との橋渡し」である。 そのように、その人が人生の中で、 長年かけて問い続ける「核心」を読むのは、 とても素晴らしい事だ。 私は現在、脳が「幸福ホルモン」をほとんど出さなくなる病気なので、 再読してみた次第である。 「いや、各個人にとっても、まだことばの無い原始世界、あるいは究極まで機械化された、そのためふたたびことばの無くなった現実に生きているのでないかぎり、ことばは人格的な財産である。ことばに対する感受性を持っている人、支離滅裂になっていない健全な人間にとっては、例外無く、語やつづり、字母や形、文章構成の可能性などは、特殊なその人固有な価値と意味を持っている。すべて真のことばは、それがわかるようにそれを持って生まれついたすべての人によって、まったく個人的に一回的に感じられ体験されうるのである。当人がそれを何ら自覚しない場合にも。」 ものの価値観と経験と感受性が、人それぞれであるように、 ことばは、同じ言葉を使っている場合にも、 ひとそれぞれに意味合いが違う。 それを読み取ろうとすると、 自分の価値観や感受性と反応して、 合奏のような効果が生まれる。 人は時に同じようでもあり、 時にまったく相容れず、 同じ人は二人と居ない。 世界はそのように構成されている。 それは、大変壮大な事である。 「幸福の話と思ったら、 言葉の話か?」と、 諸氏は違和感を覚えるであろう。 ヘッセは、 「幸福」という言葉を取り上げて、 その蜜のような効果を考察するのである。 そのあたりが、 世間に溢れる「幸福とは?」の本と、 決定的に異なる。 そして、信頼が置けるのである。 「千べん使っても使い損ずるおそれのない日常語もあれば、どんなに愛していようとも、慎重に大切にして、荘重なものに似つかわしく、まれに特にえりぬいて初めて口にしたり書いたりする、別な荘重な語もある。 私にとっては幸福(gluck)ということばは、そういうものの一つである。」 こうして、幸福ということばがいかにヘッセにとって素晴らしい価値を持っているかが続いて語られる。 「それは、私がいつも愛してきた、好んで聞いてきたことばのひとつである。その意味についてはいくらでも議論をし、理屈をこねることができただろうが、いずれにしてもこの語は、美しいもの、良いもの、願わしいものを意味していた。この語のひびきもそれに相応している、と私は思った。 この語は、短いにもかかわらず、驚くほど重い充実したもの、黄金を思わせるようなものを持っている、と私は思った。充実し、重みがたっぷりあるばかりでなく、この語にはまさしく光彩もそなわっていた。雲の中の電光のように、短いつづりの中に光彩が宿っていた。短いつづりは、溶けるようにほほえむようにGlと始まり、uで笑いながら短く休止し、ckできっぱりと簡潔に終わった。笑わずにはいられない、泣かずにはいられないことば、根源的な魅力と感性に満ちたことばであった。これを正しく感じようと思ったら、この黄金のことばのそばに、遅くできた、うすっぺらな、疲れたニッケルあるいは銅のことばを、たとえば、所与とか利用とかいうことばを並べてみれば、すべては明らかだった。疑いもなく、それは辞書や教室から来たことばではなかった。考え出され、転化され、合成されたものではなく、一つで、まとまっており、完全であった。太陽の光や花のまなざしのように、空と大地から来たものだった。そういうことばの存在したことは、なんと良く、幸福で、心なぐさむことだったろう!そういうことばを持たずに生きたり考えたりすることは、しおれ、すさむことだろう。パンや葡萄酒のない、笑いや音楽のない生活のものだろう。」 文筆家は言葉の専門家である。 鉱物を鑑定するように、 言葉の真贋を見極めようとする姿勢に、 読者も、思わず、 幸福、という言葉そのものの持つ言霊に目を向けるだろう。 「完全な現在の中で呼吸すること、天球の合唱の中で共に歌うこと、世界の輪舞の中で共に踊ること、神の永遠な笑いの中で共に笑うこと、それこそ幸福にあずかることである。多くの人はそれをただ一度だけ、あるいは数回だけ体験した。しかしそれを体験した者は、一瞬のあいだ幸福であっただけでなく、没時間的な喜びの光輝やひびきのなにがしかをも得てきたのである。」 どれほど悲惨にあえいでいる人でも、 過去に、一瞬も、一度も幸福と感じたことが無かったか、と言われると、 あった筈だと思い返すであろう。 苦しみにまみれ、 記憶の隅に押しやられていたとしても、 継続的ではなくともいいのなら、 常に幸福では無くてもいのなら、 一回か数回でも、 一瞬でもいいのなら、 経験した筈だ。 現代人にとっての、 「幸福を感じるハードル」が、 読むうちに大きく下がるのを感じるだろう。 「数日、数時間、あるいはほんの数分間の体験であったにせよ、私は幸福をいくども体験した。のちになってからも、年を取ってからも、数瞬間幸福に近づいたことがあった。しかし、人生の初期に出会った幸福の数々を呼び返し、たずね、吟味してみるたびごとに、そのうちの一つが特にはっきりと残った。それは私の生徒時代のことだった。その幸福との出会いの独特な点、純粋な点、根本的な点、神話的な点、静かに笑いながら宇宙と一体になっている状態、時間や希望や恐怖から絶対的に自由である状態、完全に現在である状態、それは長く続きはしなかった。おそらく数分間しか続かなかった。」 その記憶が具体的にその後に続き、 短いエッセイは終わる。 数分の幸福の記憶が、 その後の長い人生に、 幸福の照り返しを放射し続けるのである。 ヘタな幸福論を何冊も読むよりは、 ヘッセのこの短いエッセイを読むことを、 大いに推奨する。 なぜなら、 根源的であり、 多くの人の、幸福感の実践トレーニングにも役立つ為である。 ■
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by leea_blog
| 2017-05-03 13:24
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