2019年 01月 27日 ( 1 )

まれびと冊子【揺蘭」15の見どころなど・その4


一年に一回、まれびとのようにあなたの日常にすべりこむ、
幻想詩誌、「揺蘭」。

15号も、永久保存版的な内容です。

昨年から15号の内容のご紹介をしているところです。

ブログ内検索で、
まれびと冊子「揺蘭」、とご検索頂くと、
過去日記が表示されます。

今回は、天野英「詩的イメージをこそ」をご紹介します。

詩人の天野英さんとは、
日本詩人クラブの詩の会で知り合いました。

天野さんが少人数の人たちを前に、詩の講話をしているところだったのですが、
詩の生まれる、
理屈や表層理解ではどうにも届かない場所について、
わかりやすい言葉で話しているのが、
強く印象に残りました。


ヘタな詩を評して、
「行分け散文」と言う事があります。

「散文詩」という、「散文の形式」をとった詩の形もありますので、
「散文形式が悪い」という意味でもないのです。


詩っぽくしようと、
行を分けただけでは、
詩ではないし、

散文のように行を分けなくても、詩になります。

美しい言葉を駆使するから詩なのでもなく、
難しい言葉を使うから難解、というわけでもないのです。

詩とは、では、どこが散文と違うのか。

ワタクシは、
「詩の形でしか表現出来ない何かが、
発芽して来た時に、形を与えるもの」、

と、思います。

ただ、
「詩とは何か」に関しては、
様々な言い方が出来て、

ワタクシ自身も、語る相手との距離により、
言い方や表現を変えています。

一番実際に近いのが、
「結局、詩とは、神々のようなものだ」、です。

時代や人によって、
「詩とは何か」が違う、
人を超えたところに源泉が有る。

一生をかけて追求しても、
答えが出ない。

まるで神々みたいではありませんか?

と、上記は、ワタクシが普段、思っている事です。


天野さんは、
詩が生まれるあたりを、
ムーサイの力が働いている、と表現していたのでした。

ムーサイとは。
ギリシア神話の、芸術の女神たちです。

古代の詩人たちは、
詩の神が、自分に語ったり、
自分を通して語る、
そして、
語る力を与えると考えていました。

現代人は、
「自分の努力と才能」だけで創作すると考えます。

努力と才能、自在境に達するまでの修行。

それは大事。

でも、それだけだと、
一人の人間が感受出来るものなど限界がありますので、

神々から力を与えられた詩人に比べて、
栄養が足りません。。。。


ワタクシは天野さんの話を聞きながら、

誤解や揚げ足取りのリスクを承知で、
「本当の事を言う」詩人だなあ、と思ったのでした。


難しい言葉で詩の理論を述べる詩人は、沢山居ます。

天野英さんは、
わかりやすい言葉で、
「詩的イメージ」を語ります。


リルケの文章が引用されています。

「詩は言葉の踏み入ったことのない空間で生起します。なににもまして言いあらわし得ないのが芸術作品です。」
(リルケ「若き詩人への手紙より」)


エドガー・アラン・ポオの言葉も引用されます。

「人には満たされざる渇きがある、その渇きに働きかける水晶のような泉に触れたいのだ、この渇きは、人間が永遠の存在であることにあり、同時にその証なのである」
(ポオ評論集より)



天野英は語ります。

「そういうことを感じるとき私は、ムーサイ(詩神)の働きによると、言うことにしている。私を超えたあるものの働きのことです」



「人間の知性に於いて、詩の本源的なところのことは把握したり、理解されたりすることが出来ないことなのだ。詩は人に理解されるようなものではないのだ。」

まったくその通りです。

承認欲求が強くなっている現代人。

詩人も、「理解されたい」と思う人も多いはず。

詩の根源的なところは、
もっと大きな、深淵の部分にあるんですね。

人間の脳で、「知性」を司る部分など、わずかですよね。


今後も天野さんに、こうした情報発信をし続けて頂きたいものです。








by leea_blog | 2019-01-27 14:23 | Comments(2)