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危険な暑さが続く・お盆と台風

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我が家の夏の食べ物、トマトスープのゼリー寄せ。


トマトとニンニク少量、ベーコンなど有るものを使って出汁で煮るだけ。

旬の野菜はそれだけでも美味しいですが

ともかく暑いので、涼しく食べたい、

と、ゼラチンを混ぜて冷蔵庫に入れておきます。


二、三回に分けて食べます。



異常な暑さと冷房の冷えと寝苦しさで、

体調をさらに壊しています。


とほほ。


今日は沿線に住んでいる友人のお誘いで、

ネパールカレーの店にランチに行きました。


スパイスがふんだんに効いて、

自律神経が整っていくような、感覚。


お誘いくださりありがとうございました。


ちゃんとしたものを食べることは、イコール、心身を作ること。


食欲が無いから、と、ジャンキーな食べ物を食べていたら、

治る神経衰弱も治りませぬ。



と、自分に言い聞かせています。


ところで!

先日アップした「宮無后の鉛筆画」の無后が、

ワタクシにそっくり、との指摘を受けました。


「ナルシスト???」


どひゃ〜?

鏡を見ても全然似てないようにしか自覚できないですが、

世間でも、何気なく人物画を描くと、

一番見慣れている自分の顔に無意識に似ちゃう、

と言われますね。


ええーー?、しかし、ワタクシってこういう顔????

貴重なご指摘でした。






# by leea_blog | 2019-08-15 23:52 | Comments(0)

美とは何か、を考えてみる・辻邦生「嵯峨野明月記」再読の事その2


閑話休題。

美とは何か。



辻邦生の「嵯峨野明月記」を再読した話の続きです。



安土桃山時代を経て、江戸時代初頭に、「嵯峨本」と呼ばれる、幽遠華麗な書物が誕生しました。


書体は本阿弥光悦、絵は俵屋宗達(風神雷神図でおなじみの方ですね)、出版は朱印船を動かす実業家の角倉与一。

どのような本かは、「嵯峨本」、あるいは「光悦本」で画像検索してみてくだされたし。


本阿弥光悦と俵屋宗達という、最強タッグは、絵巻でも華麗この上ない世界を繰り広げております。


世の中が激変した安土桃山時代を経て、江戸時代へ。いったいどのような心が、このような幽遠華麗な世界を展開したのか。


その秘密を、小説にしてみました、というのが、辻邦生の「嵯峨野明月記」です。


本阿弥光悦、俵屋宗達、角倉与一の三人が、死に際に改装して人に語る、という一人称の形式で物語が進められます。


以下、本阿弥光悦が到達した「不易の美」について語る部分を引用しましょう。

ーーーーーーー

ただ私は高い、離れた場所に立って変転するこの世を眺め、そして同時に、不変不易な花や雲や光や風のそよぎに目をこらしていた。私は時おりこうした不易の花、不易の雲の影が、変転するこの世を包んでいるような気持ちになった。なるほど花はしおれ、その香りは移りゆく。雲の陰に至っては、一種の休みもなく姿を変えて地の果てに消える。しかしそこに湛えられた美しさは、どの花にも、どの雲の影にもあるのである。つまりどの花も、どの雲も、こうした心を魅する不思議な甘美な趣を、そのはかない一種の姿の上に湛えているのだ。季節ごとに花は咲き、花は散る。刻々の天候に追われて雲はその姿を変える。しかしそうして花が咲き、雲が流れることの中に、私は不易なこの美しさが、ちょうど不断に流れゆく川面にうつる月影のように、湛えられているのを見たのである。妻や家父の死後、むしろいっそうこの想いが強くなった。移り行く花、流れ行く雲のなかに不易に現れているこの甘美な趣ーそれこそが、私が、寄って立つべき唯一の足がかりであるように思えた。それは花そのものではなく、花のなかに現れる不易の表情であった。
ーーーーー




そうした境地に到達した本阿弥光悦は、では、幽遠華麗な書物である嵯峨本を、どうして生み出したのでしょうか。いか、引用。


ーーーーーーーーーー

私が角倉与一に王朝風の華麗な書物を作るように進めあのは、言わばこうした花や雲の影が浮かべる甘美な趣を、まさにその姿のままに座右に置きたいためであった。もしその書物の中に不易の美しさがあれば、それに触れ、そこに生きるとき、私たちは、この世の変転を玻璃の手箱にとじこめ、そのうえに魂を舞い立たせることができるのである。私たちは世の変転とともに押し流されるとしても、それを包む不易の美は、何ら輝かしさを変えることなく、立ちはだかっている。そして私たちの心は、その不易な物の中にあり、変転をこえ、自分の運命にすら無関心になりうる。まさにそのためにこそ、甘美な趣を湛えたさまざまな物の形は、私たちに必要なのだ。それは、こうした甘美な心持ちのなかに立って、それだけですべて満たされ、一切の他の欲求から離脱することである。甘美な趣が私たちに不易の心を約束してくれるのはそのためなのだ。私はそのようなものの形として幽遠華麗な書物を作りたかった。

ーーーーーーー


日本的な美の達人の、超俗的な視点を、辻邦生流に想像してみたのですね。


ワタクシは、子供の頃から作風が「暗い」、「不健康」、と言われてきました。

そう言われても、「明るいものが正しい」、とも、「健康的なものが良いものだ」、とも、全く思いませんでした。


別にわざと暗くて不健康な、退廃的なものを書いているわけではなく、それが守備している「領土」だというだけでありました。もともと「妖霊系」なのでした。



辻邦生は、昭和の当時文学の世界を覆っていた、不健康な、破綻した空気を嫌がり、明るく健康的に美を追求しました。


読み返して、

「誰が読んでも、とりあえずは文句が来ない作風だな」、と、嫌味ではなく、素直に思うのでした。


過去、辻邦生のエッセイ等についても取り上げましたが、

自分の好みの傾向や、持って生まれた表現への方向性と、立ち位置があまりに違うので、
高校生の頃は、

「へえ、そういう人もいるのだねえ」と、思ったのでした。


上記の美意識には、多くの方が賛同なさると思います。

私も賛同します。

が、文章の描写や表現が、どうにも迫ってこない。


これは、一つには、時代のせいかもしれない。


昭和の頃は、

恵まれた環境で己の道を追求して大成した人の話を聞くのも、それで良かった。

恵まれていようと恵まれていなかろうと、大成した事実が重要だったのでした。



平成、令和に時代が変わると。


才に恵まれ、環境に恵まれ、

大成した人が、淡々と振り返る美意識が、どうにも、令和に読み返すと、

腹の底で、以下の意見が、もやもやとしているのでありました。




「それはそれで一つの正解だと思うのです。

が、

その結論に至るには、小説の前の方は、ほとんど関係ないというか、

結局、どんな道を辿っても、そうした日本的な美意識にはたどり着けるのだし、

恵まれていた割には、無難な結論ではありますまいか」




少し辛口になりました。

いい話とは思うし、

引用するくらいですから、

引用部分はすごくすきなのですが

時代を超えられる小説かと言うと、どうなのでしょうか。


























# by leea_blog | 2019-08-14 22:16 | Comments(0)

美とは何か、を考えてみる・辻邦生「嵯峨野明月記」再読の事




辻邦生の長編、「嵯峨野明月記」を再読しました。

本阿弥光悦の筆、俵屋宗達の絵で、角倉与一が出版した、美々しく刷られた嵯峨本という本がこの世に生まれた経緯を、三人の語り手の語りから読み解いていく、小説です。

この世の美とは、どういったものであるか。

何を思い、何を願い、どのような欲求で「嵯峨本」が生まれたのか。


「嵯峨本」、あるいは、「光悦本」については、検索してみてくだされたし。


現代人でも、特に知識がない状態で見ても、美しさに打たれてしまいます。



美とは何か。

職場の上部機関のパワハラで寝込む、という、荒れ果てた生活をしていますが、陋屋に山積みになった書物のせいでしょうか、「美」の感覚を抜きにしては、一月も保たないのでした。




生命を維持する上で必要な欲求でもないのに、「美」はどうして人を引き込むのでしょうか。

時には、財産を失ったり、人生を狂わせたりするほどに。


広辞苑では、「美」はどう定義されているか、見てみましょう。


3(哲)知覚・感覚・情感を刺激して内的快感を引き起こすもの。「快」が生理的・個人的・偶然的・主観的であるのに対して、「美」は個人的利害関心から一応解放され、より普遍的・必然的・客観的・社会的である。




定年退職が視野に入るほどの年齢になりますと、「美」について定義したり、美意識について検討したり、人と美について意見交換してみたり、という欲求が少なくなっています。


この歳になると、自分が美しいと感じるものの種類も増え、自分の守備範囲も広範囲に把握でき、もちろん「飽くなき欲求」がなくなったわけではありませんが、美への飢餓状態から、「ほどほどに満足している」日常に移行してきているからでしょう。



(本当かなあ。。。今現在は、そんな余裕がありそうなことを言っているけれど、単に、今現在、飢餓状態じゃないだけではないのかなあ。。。。明日になったら急に飢えた狼みたいに、美をあさり始めるのではないかなあ)





自分の外側にあるものが「美」の対象物としたら、対象物への興味よりも、自分が美しいと感じる、その動かされ方に、何か理屈では説明がつかないものを感じて、見つめ、検証してみたくなります。



それは、宇宙人の自分が、地球人の自分というサンプルをガラスケースに入れて注意深く解体しながら、「地球人は美という何かを持っていた。それはどういうものなのか」を、知ろうとするような感じです。



後日、辻邦生の「嵯峨野明月記」を少し引用してみます。


ちなみに、辻邦生は、私の得意分野の作家ではないのですが、自分とは違いすぎて興味がある作家でした。

読んでいると途中で面倒になってしまうけれど、書いてあることは共感できる作品です。











# by leea_blog | 2019-08-13 16:30 | Comments(0)

谷崎潤一郎「詩人の別れ」 あらすじ




拙ブログでは、谷崎潤一郎の、それほど有名ではないけれど、素敵な作品を、順次取り上げております。

江戸川乱歩の妖しい世界や、いろいろな作家の、あまり知られて無い作品を、
ひっそりとご紹介しております。


過去日記もご参照くださいませ。


大文豪なのに変態さん、美しい世界を描くかと思えば、もがき苦しむ異端者のリアルを描き、何気ない描写も、「霊筆」の域。


今日は、短編、「詩人の別れ」の、みずみずしくも美しい、ラストの部分を引用します。


三十歳前後の頃、吉井勇、長田秀雄、谷崎潤一郎の三人が、貧しい詩人の北原白秋を訪ねます。


北原白秋は言います。

「僕は事に依ったら、此の夏印度へ行こうかと思って居る。実は非常にいいツテがあって、金なんか持たずに行かれそうだから・・・」

大正時代、海外は、ほとんどの人にとって、本の中のお話、夢の中のような事でした。
現代のように、海外のニュースをスマホで見られる時代とは、全く異なります。

本の中のお話しだけ、夢の中だけですと、たどり着けない世界ですが、
遠い海外は、金と体力とツテが有れば、いつかは行けるかもしれない場所でした。


現代ですと、お金が無い学生でもアルバイトをして、海外放浪などができますし、
社会人でも、弾丸ツアーのようなものがありますから、短期間で遠い欧州やインドへも行けます。

それはそうと、私は、以前は、海外旅行をするたびに、「もしかしたら無事に帰れないかも知れない」と、身の回りの整理をして行ったものでした。

治安の異なる国での一人旅行、何があるかわかりません。

今は、台湾リピーターになって、台湾は国内旅行よりもハードルが低くなっています。

「異国の地」という言葉が呼び起こすものが、昔と今では、だいぶ異なって居る事に、
感慨を覚えます。



話は戻って。

四人で飲み食いし、ほろ酔い機嫌で三人はまだ飲み足りなく、また、別れがたく、北原白秋をさらに誘うのですが、北原白秋は、一人、一次会だけで帰るのです。

三人に別れを告げて、家まで一里半の道のりを、提灯の明かりで帰っていきます。提灯の蝋燭が尽き、月も西の空に沈み、あたりは全くの暗闇になってしまいます。どう道を踏み迷ったのか、いくら行っても見渡す限りの腹が続くばかり。人に道を尋ねようとしても、また、蝋燭を買おうと思っても、一軒の家も無ければ、一人の通行人もありません。


「己はさっきから、たしかに三四里くらい歩いている。もう何処かの村へでなければならない筈だ」

そう考えると、北原白秋はにわかに恐ろしくなって、無我夢中で田でも畑でも構わずに飛び越えていきます。木の根につまづいて顔を擦りむいたり、水田に落ちて泥だらけになったりしながら、およそ六七時間もさまよいましたが、未だに夜の白む様子もなく、覚えのある街道にも出られません。


闇の中で、慣れて居るはずの土地が、見知らぬ様相を呈して、行けども行けども、見覚えのある場所にたどり着かない。


これは、子供の頃、皆さんも経験があるのではないでしょうか。

「おかしい、変だ」、という、道に迷った記憶。


疲労困憊し、どことも知れぬ雑木林の影で、倒れ込んでしまいます。


そこまでから、

この美しく匂い立つラストが、どうして想像つきましょうか。

以下、引用。

北原白秋は、Fという仮名になっています。




ーーーーーーーーーー

「ああ、もう仕様がない。明るくなるまで此処で野宿をしてやろう」
とある雑木林の陰へ来た時、Fは体がワタのように疲れて、腹が減って、一寸も動けなくなったので、ばったり其処へ倒れてしまいました。

その後何時間ぐらい経ったのかわかりませんが、昏々と眠っているその耳元で、何者とも知れずひそひそと囁く声が聞こえました。
「Fよ。貧しい、哀れな田園詩人のFよ。思えは少しも落胆するには及ばない。私は今日、おまえを試してやったのだ。お前が自分の守るべき詩の国を捨てて、他人の誘惑にかかるかどうかを、試してやったのだ。お前はほんとうに、自分の芸術に忠実な男だ。お前は人間の世の浅ましい栄華を捨てて、浄い楽しい詩の世界の、永劫の快楽に身を委ねたのだ。私はお前が、堅固に操を守っている褒美として、私の足に着いて居る真珠の瓔珞をお前に上げる。お前はその宝玉をお前の国の貴族の御殿へ持って行って、金に換えて貰うが良い。そうしてその金で、直ぐに印度へ行くがよい。印度の国の神々は、印度の国の自然美は、お前の詩に依って歌われる事を待って居るのだ。私は其処から、わざわざお前を迎えに来たヴィシュヌの神だ。」
こう云われて、Fがふと目を覚ますと、不思議にも彼はいつの間にか、自分の庵の、古沼のほとりに運ばれて居ました。沼にはさながら満月の夜に似た皎々たる光がみなぎって、波の間から、七頭の蛇アナタに乗った妖麗なヴィシュヌの神が、徐かに彼の傍らへ近寄って来る様子です。
Fは瞳のくらむような眩さを覚えながら、神の前にひざまづいて、白蓮の花よりも柔らかいくるぶしの瓔珞の球を抱えたまま、貴い足の指先に接吻しました。その指先からは、彼の大好きな南洋の果実ザンボアの汁が、滴滴としたたり落ち、彼の眼からは感謝の涙がさんさんとして流れ落ちました。
(大正6年3月作)

ーーーーーー


北原白秋が、インドに行ったのかどうか、本当にインドに行く話があったのかどうか、詳しいことは私はわかりません。

一人立つことの苦しみ、それに対してほとんど唐突に報いる、美しい神。

此処で描かれるラストの北原白秋には、谷崎潤一郎が重なって見えます。




# by leea_blog | 2019-08-08 18:57 | Comments(0)

鉛筆画・宮無后

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        ↑

気分転換に鉛筆で描いてみた、宮無后。

人形のような、生きているような、よくわからない存在に描いてみた。

やや眼が寄っているが、ウチの人はこんな感じに、寄り目気味である。

そこが可愛い。




# by leea_blog | 2019-08-05 21:15 | Comments(2)

ただいま禁煙中・タバコを吸いたくなったらアロマテラピー

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禁煙薬を飲んでいても、

ストレスが重い時、無性にタバコが吸いたくなる。



禁煙サイトなどには、そのような時には、

「水を飲む」、「深呼吸をする」、「歯を磨く」等、対処方法が書いてある。



ニコチン切れに対して、

「水」、「深呼吸」、「歯磨き」などと、


そのようなもので対抗できるのか???


と、最初は思った。


が、意外と、効く。


無性にタバコを吸いたいとに、

タバコを吸っているつもりの、深呼吸をすると、

脳が騙される感じになる。



私はチェーンスモーカーでもあるため、

連続した深呼吸をする。


ただするのでは刺激がないので、


そのような時には、脳に働きかける作用を持つ、「合法ハーブ」の登場だ。


「脱法ハーブ」じゃないですよ。

バリバリに合法な、

アロマテラピーに使う、植物のエッセンシャルオイル、精油を嗅ぐ。

デパートや専門店で買えます。



ハンカチや、ティッシュペーパーに一滴垂らしても良いし、

よく使われるのは、

水にたらして小さなキャンドルで温めて蒸発させる方法だ。



吸いたくなった辛さは、ほのかに香られても刺激が足りない。

遮光瓶の蓋を開けて、鼻腔に近ずける。

直接立ち昇る芳香を、

鼻孔の粘膜に感じるのだ。


画像に写っているのは、

ニールズヤードレメディーズの、
ラベンダー。

ラフロールの、
ユーカリプタスグロブルス。




リラックス効果や、集中力を高めるなどの効果もあり、

タバコから気を紛らわす以上の効果がある。







# by leea_blog | 2019-08-02 23:33 | Comments(0)